地場・旬・自給

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新自由主義的復興論を批判する。

2011-08-17 04:55:00 | 
現代農業9月号の主張として、「新自由主義的復興論を批判する。」が掲載されている。震災のどさくさにまぎれての、火事場泥棒的経団連「復興・創生」プランを徹底批判している。批判としても的を得ているうえに、後半部分の今農村で起きている構造的変化の分析が興味深い。いくつかの論文を引用をしながら、農村の生の状況を深くとらえている。現代の農村の状況は、そこに暮らす者にもとらえきれない多面的な問題が、混在して現われている。部外者の評論的分析が、的外れな物言いが多く失望を重ねている。農文協らしく農業者に密着した、正確な見解を主張している。現代日本社会の矛盾のすべてが農村に集約されているともいえる。国際競争力の強化の為に、山間地の小さな集落なら犠牲に成っても構わないという構造である。矛盾が集中している分野としての、農業農村を考察すると言うことは、世界経済の動向を充分考慮しながら、「むら」のこれからを考えなくてはならない状況、と言うことに成る。

一つ残念なことは、農文協の主張では土地所有制度には論究していない。この点が物足りない。私有財産制の呪縛が、純粋な食糧生産と言う農業本来の目的を歪めている現実に、踏み込んでいないという点である。資産としての農地。資産を管理するという農業の側面。ここから抜け出ない限り次の段階を考察することは難しいのではないだろうか。食糧と言うものを他の生産品と明確に分けて考える必要がある。食糧は水と同等の生活の基本要素である。国が等しく国民全体に保証する義務を負って居るものである。すべての生産品が生活必需品であると言えないこともないのだが、農産物については別枠で考えるべきものではないか。その食糧を生産する場である農地とは、どういう性格のもんであるか。食糧生産の担い手が不足している現実がある。この主張では単純にそうとも言えない実態を示して、正論である。しかし、農地の担い手は年々不足が深刻化している事実は認識せざる得ない。この点は、複雑な社会的矛盾の中に絡み合った問題であるので、単純な判断は危険がある。

「農地をむらから切り離してはならない。」この主張の中心である。むらとは何か。このことと向かい合わなくてはならない。「むら」というものが、封建制の象徴として、農業離れのひとつの要素になった。それは大資本が望む戦略でもあったが、村が精神的に自由な空間で無かったことも確かである。個人の自主性を尊重すべきとする、近代主義的な生き様と、むらという集合としての制約をどこで調和できるのかである。一人ひとりの生き方が保証された形で、しかも、むらと言う暮らしの最小単位が、集合した生命体として、もう一度自由に動き出す仕組みを作り出せるのか。農の会が目指している「新しいむら」は、今までにない組織なのだと思う。地域の中での、例えば集落営農集団としてのテーマコミュニテ―の再編。その集落営農がどこまでも個人の生き方を尊重できるのかが、具体的にはイメージできないでいる。生き方としての農業論が論議されない限り、経営としてだけの営農集団は、経済競争の中でその意義を歪められてゆくことになる。

引用―――かくして農地管理は、「農地の権利移動のみを意味するのではなく、地域にとって望ましい農地利用一般の実現を課題とする。農地の作付協定、農作業の効率化、合理化のための利用調整等、多様な内容を地域の状況に応じて、地域の自律的な取組みを前提として実現する」ものであり、「農地流動化の加速、流動化率の向上といった、国が設定した目標達成にのみ還元されるものではない」のである。―――
主張は以上を結論として終わっているが、実はこの部分が肝心であるにかかわらず、その意味が分かりにくい。地域経済と農業に連関が薄くなるなか、どのような村の思想でこれをつなげるかがカダではないか。地域と薄い関係の中で、実際の農作業を行う多くの農業者との感覚のづれ。農地の作付協定。と一言で書けるが、その過程が血に成っていない。農作業の効率化。これも同様である。むらの目的が同じであれば効率化も、作付協定もできるが、生きる目的の共有化が出来ていない関係の中での話し合いは、経済性に偏ることに成りがちである。少なくとも経済的合理性の主張を、乗り越えることは難しい。そこにも農地の個人所有を越える思想の提起が必要になると思えるのだが。
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散歩と水まわり

2011-08-16 03:37:47 | 稲作
ほぼ毎朝散歩をする。このブログを書き終わったら、散歩に出る。4時台のこともあれば、5時台のこともある。陽が上がっている日もあれば、まだ日の出前のこともある。少々の雨なら、できる限り出かける。犬が期待して待っているからである。太陽が見える日も見えない日も、どちらにしろ海の方角の太陽に、つい感謝をする。頭を下げるとか、手を合わせるとかそういうことは、敢てしないが、太陽さん助かるよ。位の軽い気持ちが湧いてくる。東の空の方の太陽に対面する。一日やれるんだと思うと、毎朝嬉しい訳である。言葉にすれば大げさになってしまうが、それほどは動ける日にちはないという気持ちで、一日一日を確認しながら、暮らしている。舟原と言うホスピスで暮らしているような感じなのか。体調はいいし、とくに今のところ身体に不安もない。恵まれたことであると思っている。そう思えば有難い毎日である。

福島から来たふくちゃんを連れて、田んぼに行く。福ちゃんは他所の犬に遭遇してもおとなしいから、ゆっくりと歩ける。大きな犬の良さだろうか。ふくちゃんが最初の散歩の相手である。ドンチャンを一緒に連れて行くこともあるが、2頭でも大丈夫である。2キロぐらいを30分位で歩くのだろう。途中で久野川の橋を2度渡る。しばらく眺めては水の流れを、確認する。今朝はかなり水が減って居るとだろう。箱根に500ミリ降ったのでしばらくは水かさが多かったが、その後は、目だった雨はない。水は徐々に減少してきている。1か月前には、一番の渇水になった。川の本流に水がほとんどない状態である。危ういところで雨に成って助かった。あのときはまだ田んぼを干しても良い時期だったので、心配しなかったが、これから1カ月は水がなくなると辛い。このまま降らないと困るが、そう言うこともないだろう。

田んぼの所の電柱に犬を繋いでおいて、草取りに成ってしまうこともある。草が目につくと、田んぼに入らずにはいられないのだ。14日が下段の田んぼの出穂である。ばらつきがあるが、今日16日が中・上の段と言うことに成る。それは昨年と同じである。一昨年よりは5日ほど早い。後1週間で穂ぞろいに成るだろう。これから55日間を見て、稲刈りは昨年同様に10月9日に決めた。幼穂形成期から出穂前後のこの時期の水管理が一番大切である。田んぼの中の水位変化を重視している。根に水圧の変化を与える。繰り返し合図をするような気持でいる。川岸のような、水位変化を目指す。土が水から出ることもあるが、土が乾くことはないような状態。この時田んぼの均平が重要になる。いつも水溜りが残るのでは良い稲にはならない。土壌を良い状態にしてゆく。干して酸素を土壌に入れると言うより、新鮮な水の縦浸透で土を活性化する。しかしこれが一筋縄ではいかない。田んぼの形にもよるが、どうしても流れが停滞する場所がある。これも良い稲にはならない。

これから穂がでんぷんを貯める時期である。夜温の高いのは良くない。去年足柄平野の低い方の稲は葉色が赤くなるような影響を感じた。夜の間の水管理で水温を下げる。では昼間はいくら田んぼが熱くなっても良いのかと言えば、暑くても大丈夫のようだ。根がやられるのじゃないかと言うほど土が熱くても平気なようだ。今年の稲は出穂にむらがある。稲の草丈も差が大きい。浅水部分は背丈が高くなり、茎も太くなる傾向が見える。初期の浅水と草の関係を考える必要がある。2度目の散歩は雷田を連れて山の方に行く。山登りに成るから暑い期間はこちらも辛いが、出掛けてしまえば気分が良い。山の林の中にはいれば、涼しい森林浴のようなものだ。少々の体調不良は治ってしまう。だから調子が悪い時の方が出かける。今年はコースの整備をしていないので、今通れない所も出ている。暑いので草刈りをしない。適当に切り上げて、雷田を鶏小屋につないでおいて、鶏の世話をする。全体で1時間くらいはかかる。結局、一年中散歩を毎朝3キロから4キロしていることに成る。
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原子力の平和利用論

2011-08-15 04:28:16 | Peace Cafe
終戦の日である。平和の催しも昨日の日曜日に多かった。今福島の事故で、戦時中のような思いを持っている。終戦の日に、何故被爆国日本が、原発大国になってしまったのかを考えてみたい。戦後の日本人の心理を深く反映しているのではないか。日本は軍事力、資源不足で敗れた。資源のない日本という島国が、(当時島国論が良くあった。)世界に負けないためには、(連合国を見返すためという心理があった)、科学技術しかない。特に、日本を敗戦に追いやった、原子力と言うものは、絶対的な力がある。(原子爆弾で敗れたという敗北感の裏返し)原子力エネルギーを経済利用すれば、何も無い日本でも世界に負けずにやってゆけるのではないか。原爆を落とされたが故に、その絶対的な力が繰り返し語られたからこそ、圧倒された原子力が、突然夢のエネルギーに位置づけられ、定着してしまったのではないだろうか。A級戦犯であった賀屋興宣氏が原子力の平和利用論を、正義の科学的手法として主張したことは、象徴的である。それが原子力が神話形成に役立つ。

敗戦により、日本精神のようなものが、軍国主義と同義的なものとしてひっくるめて悪いものとして否定された。日本人は統一のよりどころを失う。戻るべき原点を失う。例えば、ご先祖様に見守られているという意識を失う。科学主義の登場。科学的であることが、伝統とか、因習とか、民族性とか、過去の悪い日本人を否定して行く指針に成る。この科学主義が選んだものこそ、原子力の平和利用論につながったものではないか。今に成ってみれば、この悪夢のエネルギー原子力は、コントロール不能なものであった。科学的論理の上では、可能なものであっても、不完全な人間が管理下に置くと言うことは出来ないものであった。しかし、いまだ原子力への夢を捨てきれない人たちがいる。いまだに、負けてどうするという敗戦のトラウマを持っているのではないか。科学万能の幻影にすがっている人たちではないか。いまだ、原爆と言う日本のすべてを越えた先進科学が、日本を圧倒したのだから、原子力によってこそ、日本は勝てるのだという思い込みを捨てきれない。

不思議に産経新聞のような、一種の新日本主義を目指すような民族主義と結びついている。軍事力に変わるべき、物としてのよりどころを求める心理。力による国力バランス以外無いとする人には、原子力はいまだ見果てぬ夢なのだろう。アメリカによる、強制的な日本主義の否定が、日本人としての存立そのものをゆるがしたままその安定を失っている。心底日本のことを思う、国粋主義者こそ原子力否定に向かうべきにもかかわらず、不完全な原子力にすがりつこうという心理に陥る矛盾。国粋主義者がアメリカの属国的な、現在の日米安保を肯定するおかしさと心理的には似ている。日本と言う精神を賛美するにもかかわらず、日本の持つ本当の力量を直視しできない。敗北原因の原子力にすがりつこうと言う矛盾。この心理が必要以上な原子力依存へと偏向して行くことに成る。北朝鮮やイランが原子力にすがりつく心理と瓜2つである。

原子力の良心的平和利用論は存在しない。神話を形成しても構わない心理状態は、いかにも戦時中の天皇神話形成に似ている。原子力へに期待を膨らませた、見返してやる的な、余裕のない追い込まれた思い込みが反映する。今になれば、安全度を高めると言う、当たり前の検証が拒絶されている。非科学性と経済優先。勝利の為の正義の原子力平和利用論。本来なら、事故があれば暮らすことのできない地域を作り出す原子力が、安全性を深く追求できなかった要因は、軍事産業化していたからだろう。特攻隊的な発想に支えられている。原子力平和利用は、そもそもあり得ない逆説である。原子力によって勝利しようという競争心に支えられている。だからどれほど危険でも、崖っぷちを進むような、危険を冒してしまったのだ。江戸時代の農民や庶民や常民が暮らしの中に持った、安定した暮らしの、日本人。成長しない日本人。繰り返す事の中に平和を見る精神。ここに立ち戻り、立脚するしかない。
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京都送り火に越前高田の松

2011-08-14 04:57:41 | Peace Cafe
京都五山の送り火への思いと、被災地への思いが重なり、素晴らしい行事に成るはずであった。越前高田の松原の倒木の松は、京都市は結局のところ使用中止を決定した。放射能への科学的な認識不足が深くかかわっている。樹木の場合、表皮に放射能が存在し、放射能汚染の年度の年輪より、奥には入らないものである。これはチェルノブイリの調査結果とされている分析である。確かこのことは福島の林業と言う意味で、今の段階なら材として販売できるということを書いたことがある。越前高田の松材も同じことで、表皮や枝葉が放射能汚染されているのは、300キロ圏であれば、可能性は高い。表皮の測定結果は1キロ当たり、1130ベクレル。小田原でも焼却場の放射能汚染は、剪定枝の可能性が高い。いま、段ボールコンポストの測定をしているので、これと比較すれば実態は見えてくる。ごみの10%に満たない、剪定枝が焼却灰の放射能残留への影響の可能性は高い。そうしたことはもう分かっているのだから、表皮は剥がして、薪にするのが当然の配慮である。

ちょっとした配慮の積み重ねをすることが、放射能対策の基本である。稲藁の大失敗も同じことであった。羹に懲りてなますを吹く。堆肥の移動禁止指導にみられるように、判断力の喪失を表している。その判断力低下によって地域間の軋轢が生じたことは、残念でならない。川内村、宮路町、楢葉町、葛尾村、飯館村、波江町、南相馬市。と立ち入り禁止線に沿ってたどってみた。預かっている、犬や猫や鶏の、出所を見ておこうと思ったからだ。耕作されていない田んぼが、悲しい光景を作っていた。多くの田んぼは夏草のおい茂るままである。道路や家はそれほど壊れている様子ではない。一部地割れや、土砂崩れの痕跡はあるが、全体としては美しい阿武隈の山川が続く。何百年と続いたであろう日本の原風景。土は古い地層なのか、砂岩のようなもろい所が露出している所もあった。これだけなら、という辛い思いである。

漠原人村の満月祭を一眼だけでも見ようと、というか、マサイさんにお会いしたかった。漠原人村に入った頃の気分を聞いてみたかった。「その時はもう、村があったんだよ。若いから元気だよ。昔、30軒ぐらいの集落があったらしい。林業がまだ成り立っていたんだよ。来た頃はまだトロッコ道あったよ。」日本は中山間地の集落崩壊が進んでいる。限界を越えて放棄集落の時代に入っている。自給自足を目指す者には、良い時代に成ったものだ。無料で住める家さえ見つかるかもしれない。畑だって、田んぼだって、すぐにでもやれる時代である。こんな恵まれた条件の時代は日本の歴史始まって以来のことだろう。漠原人村にも太陽光発電があったが、今の時代どんな山奥でも、覚悟さえすれば自給自足は大丈夫である。私はこの20数年医療機関にかかったのは、2回のみである。自分で治すようにしていたら、病気にかからなくなった。病弱だから無理と考えるより、やってみたら健康になるということもある。

一期一会である。送り火はそうした思いの表現ではなかったのか。何が放射能だ。小賢しい知恵を捨てることだ。送り火のわずかな放射能で健康被害があると言うのは妄想のようなものだ。表皮を剥ぐくらいできるだろう。「放射能はどれほどわずかでも、健康に悪影響がある。」このような発言を良く聞くようになった。この考えはバランスが悪過ぎると思う。もう少し丁寧な対応が必要である。ラインを引くことが出来ないという考えは、科学の逃避に成る。生きると言うことは、あらゆるリスクの中に居ると言うことだ。リスクの程度を判断するのが、暮らしの知恵のようなものだ。暮らしをしてこなかった人は、こうした時対応法を失うのかもしれない。死ぬことを受け入れない現代人の病に繋がっている気がする。明日の朝目が覚めたら幸運だと感じる生き方。京都の送り火は燃えながら泣いているだろう。
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免疫力向上法

2011-08-13 04:54:19 | 身辺雑記
放射能が人体に影響するという意味は、放射線が細胞分裂の変異に少量でも有害なものであると言うことらしい。髪の毛とか爪のほうが、影響を受けると言うことなのか。原爆でも、原爆実験でも放射能はあったことだろう。自然放射能からの影響もある。放射能の影響は誰にもにあること考えた方が良い。日本の寿命が長くなっている。放射能によってガンに成ることはあるだろう。それは煙草によってなる場合や、農薬によって、食品添加物によって、大気汚染によって、アスベストによるものもある。数限りなく人体に影響し、がんを起こす物質はある。そうした要素は増えているだろう。それでも全体的に見れば寿命は延びてきた。寿命のプラス要因もある。餓えることが少なくなり、偏った食事の害が是正される。健康診断の実施や医療の進歩もある。全体としての結果が寿命が延びるという結果に成っている。

悪も善も混在して、降りかかっているのが社会。犯罪が少ないとか、自殺が少ないというようなことも、寿命と言う全体的結論から見れば、放射能と変わらない要因の一つに成る。安心、安全な社会とは、結局はその社会の寿命に表現されているのではないか。日本人の寿命が70年代以降には減少に入ると、予言した寿命学者がいたが。結果を見れば明らかに間違った研究であった。今回の福島原発事故による放射能汚染は、マイナス要因である。それに対する対策は「免疫力を高める」と言うことではないか。病気に成るのは免疫力が低下したからだと言われる。免疫力があれば、ガンに成りにくい。新型インフルエンザが猛威をふるっても、かからない人の方がはるかに多い。又感染しても発病しなかった人も無数にいる。つまり、免疫力が高かった人と言うことに成る。

免疫力の向上法を整理してみる。
1、「楽しく暮らす。」良い暮らしをして、毎日を笑って過ごしていれば、病気も避けて通る。社会に調和する、自分の思想を確立する。毎日をその思想に従って生きると言うことではないか。これほどひどい社会状況では、おいそれとは出来ない。そこで、落語を聞いて笑うのでもいい。笑って暮らす。指圧の心は親ごころの、波越徳次郎氏は日本笑おう会 笑裁である。笑って暮らせば、どんどん免疫力が向上する。楽観主義を根底に持つこと。どうにもならないことは受け入れること。

2、「地場・旬・自給」食べ物を自分の手で作れば、悪いものを食べないで済む。この時代、食べ物の安全は怪しげである。怪しいかな、などと思いながら食べるのでは、食べれば食べるほど免疫は低下してしまう。自分の手で食べ物を作る。納得のゆく形で食べ物を作れば、健康に近付いてゆく。日々1時間程度の運動にもなる。これからの暮らしの、方角だと思う。

3、「小食・多眠」暴飲暴食をせず。良く眠ること。食べすぎは免疫を下げる。自分の身体に最低限必要なものだけを食べていると、何を身体が欲しているかが感じられるようになる。お腹が減れば、食べたいものが分かる。お腹が減っていない時には食べない。そして、良く眠る。出来るだけ長く寝る。寝ている時に免疫力は回復している。

4、「発酵利用」鶏を飼ってきて、免疫力の向上には自然免疫こそ重要と考えるようになった。人工的に、特定の病気に対して、予防接種をする考えでは、鳥インフルエンザのように薬による免疫がない病気が登場した時に、対抗する方策がない。人間も常日頃から、感染しながら発病しないような、暮らしをする。その重要な要素が、微生物である。発酵を暮らしの中に上手く取り入れることで、免疫力は向上する。排除する思想でなく、折り合う暮らしをする。
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中干しあるいは干し田について

2011-08-12 03:54:32 | 稲作
田んぼでは止め葉が出始めている。下の田んぼでは、出穂を始めている。例年より早めである。この時期の水管理が何より難しい。田んぼを干す功罪である。稲刈りを機械で行う場合、作業性から田んぼを固める必要がある。それは稲の生育とは関係のないことである。バインダーで刈り取っているので、ある程度乾いていれば問題はない。稲刈りの為だけなら、稲刈りの2週間前から天候を見て心掛ければ、何とかなることである。ヒエが出てくる心配がある間は、浅く出来ないということもある。その意味では田んぼ全体を稲が覆ってからが、干しても良い時期となる。と言うことは、8月に入る前後がいつも迷う時期となる。迷いながらも干し田はしない。他所の田んぼが干してグーンと良くなるのを見ながら、こらえる。それは干した時の田んぼの土壌が心配なのだ。田んぼ地域全体が干しに入ると、異様な匂いがする。しかし、干しをした田んぼの稲は緑を濃くする。

沼地が干し上がった、腐敗臭が広がる。土壌にとって良い状態には思えない。しかし現実には稲が良くなる。一般的な稲作では、干しをすることが技術の流れに入っている。大抵の地域が地域全体で干しに入る。化学肥料と言うものの性格を意味していると思う。穂肥とか、幼穂形成期の追肥とか、言われる方法は化学肥料のやり方だと思う。自然農法であれば、幼穂形成期に土壌に肥料成分が出て来るような状態に、そうではいか、根が必要とするものを吸収できる土壌になっていることが大切だろう。干しをして、稲が体質を葉を育てることから、実を育てることに変える。という考えもあるようだ。併せて木酢を稲に与えるという考えもあるようだ。酸っぱいもので体質が変わる。新しく分げつをすることを抑え、穂に養分のすべてを移行させる方法を探っているのだろう。土壌に酸素を供給するために、干しを行うという考えもある。そうした物理的な方法で土壌に酸素が供給できるものだろうか。

自然農法の人も多くの人が干し田をする。地域全体が行うので、水が来なくなり止むえず行う人もいる。また、必要と考えて干す人も多数派である。水が突然なくなり、稲が危険を感じて、子孫を残すために実を付ける。という考えは少し納得がいかない。川べりの水位は徐々に減ずると見た方が良い。極端な土壌の乾きがきっかけではない、水位の減少がきっかけではないか。その意味では間断潅水に入るという考えが、理にかなっている気がする。稲の根が水圧の変化を感じているのではないか。酸素について言えば、溶存酸素を土壌に縦浸透させることで、土壌の活性化を図る方が良い。その意味で土壌の減水深は20ミリぐらいあっても良いのではないかと考えている。4,5ミリと言うのは、あくまで水温の維持や水管理の問題だろう。一定の縦浸透が土壌に悪い訳がない。良いお米が実るためには最終段階で土壌が腐敗方向ではだめだ。

酸素を含んだ水が、根に供給される状態。そして水圧の変化が繰り返されてゆく。このイメージを持っている。いわゆる間断潅水である。間断潅水をどの段階から始めるのが一番いいのか。土壌の状態にもよるのだろう。早く間断潅水に入った方が、穂の出が早くなる感じがする。穂が形成される段階で強い干しが入ると、葉は大きくなるが、穂は小さくなる(気がする。)花が咲きだしたら、水を多くすると言うが、何故だろう。大豆などでは明らかに効果がある。花が咲いても実にならない穂が増える。稲の場合はそう言うこともないようだ。分げつを増やすために、干しは関係するのだろうか。田植え後、文げつが増えているような段階で干しをする人もいる。あれは分げつ増加に成るか。穂数が10本程度の場合は、初期の水管理と肥料不足。干しはそれと関係するのだろうか。
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千葉のお米が放射能不検出

2011-08-11 04:07:52 | 稲作
千葉県北東部の多古町「ふさおとめ」の玄米を採取し検査した。放射能は不検出であった。嬉しい。こんなに喜ばしいニュースは久しぶりである。やはり土壌からの吸収は少ない。千葉県の水田土壌は場所にもよるが、200ベクレル以上はある。たぶん多古町は少ない方ではないはずだ。同時に土壌の調査も行うのが、科学的態度だと思うが行っては居ない。土壌が200ベクレルを越えてもお米には表れない。これは朗報である。土壌が5000ベクレルと言うのが作付限界とされていたが、今回の第1報からすると移行計数は0,1より低いとみられる。放射能が化学肥料と同じならば、移行は少ないほど高くなるはずである。200ベクレルの土壌で10ベクレル以下であったための不検出とみられる。この値が正しいものであるなら、稲の移行計数は、土壌からの根の吸収による移行計数は0,05以下となる。これならさして恐れるに足らない。

例えば小田原の一番高い水田が100ベクレルあったとしてもお米には放射能は現れないということに成る。良かった。案ずるより産むがやすし。舟原田んぼは走り穂が出始めている。昨年の出穂が8月15日だった。おととしは20日過ぎだったので、例年通りと言うところだろうか。我が家の百日紅が8月に入るまで花を咲かせないという状況だったので、だいぶ心配したが何とかなってきたような気がする。今年は我田引水的ではないかと思うのだが、手植えの田んぼは出来が良い。田植え後低温日照不足があり、活着に機械植えの田んぼは時間がかかった。苗代で作った手植え苗はスタートダッシュが良かった。その後梅雨明けが早いというか真夏の暑さがやってきて、どれどれと思っていたら、梅雨が戻ったような天候になった。これで稲の色上がりが悪く、葉も薄く軟な期間が続いた。下の平地の方の田んぼはそれが幸いしたのか、どんどん良くなったのだが、久野では回復できずそのまま出穂期を迎える状況に成っている。

やはり稲に愛情が薄かったことがある。セシュームが何ベクレルとかいわれると、頑張らないといけないような、無理があった。何しろお茶摘みが終わって、放射能の検出、廃棄処分。その後始末。除染作業。気の重いことが続いた。今も続いている。田んぼもどうなることか心配が尽きなかった。山に降り積もった。放射能が田んぼに流れ込み、田んぼの汚染が強まるのではないか。そう思って居た所に、稲藁の汚染が見つかる。どういうことか把握できないまま、不安だけはどこかに残っていた。それが、何と千葉県北東部の多古町で不検出である。ほっとした。すべては科学的調査である。調査をしないで、あれこれ不安だけを増幅していれば、心理的に参ってしまう。今回の事故以前の土壌の数値を自分なりに把握する。他人が言うことを聞いても駄目だ。そして、現在の土壌調査を自ら行う。これ以外、不安から抜け出す方法はない。

堆肥から放射能が検出されて、一切の移動の禁止が農水の指導である。これも、科学的な測定をする以外に安心は確立できない。空間線量などいくら測定しても、疑心暗鬼だけ深まり、何の安心にもつながらない。放射線量ではなく、放射性物質の量の把握である。落ち葉にはどのくらいの放射性物質が付着しているのか、測定すべきである。有機農業を行うものには深刻なことである。小田原位だと、場所によっては全く影響のない場所もあるが、場所によっては濃度の濃い所もある。いずれ落ち葉は、稲藁と似たような濃縮をしている可能性がある。雨が集まるような所はまずい。常緑樹も良くない。しかし、稲藁について本当のところは、解明されたのだろうか。
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軽トラ朝市開催

2011-08-10 04:11:40 | 地域
8月7日日曜日朝7時30分から、10時まで軽トラ朝市を開催した。小田原の緑一番商店会の通りである。軽トラが18台と5つの販売・展示ブースが並んでの、朝市と言うことになった。「小田原まちなか軽トラ市」銀座通りの13店舗も早朝から開催に合わせ開店した。見えたお客さんに楽しんでもらえただろうか。早朝からこれほどの人出があるとは、まちなか市場もやり方次第なのだと、目を覚まされた思いがある。ここ10年以上、小田原の市内のあるいは郊外へと様々な形で出店してきた。たぶん農の会としては100回以上は出ているのだろう。定期的に毎週出ていたこともあった。今も、軽トラ朝市の基盤となる朝市には、なんくる農園さんが出てくれている。今回の軽トラ市は次への可能性を感じた。200メートルぐらいの通りが一瞬にして、お祭りの時の参道のようにできる。今回も、商店街の方も協力してくれて早朝から開店してくれたのだが、少しは売り上げがあっただろうか。

賑わいの演出と言う意味では、良いアイデアである。お客さんの視線でどんなものに映っただろうか。いくらかでも喜んでもらえただろうか。お客さんが参加者になれただろうか。今回の企画は目新しいこともあり、大勢の方に来てもらえた。問題は、もう一度行ってみたいと思うようなものに成っていたかどうかである。大切なことは、来てくれた人が一歩踏み込めたかどうかではないだろうか。買い物をすると言っても、スーパーで買うのとは違うという空気を楽しめたかどうか。お店で買えないようなものが、あったかどうか。そして小田原の暮らしの良さが伝わったかどうか。はなまる農園さんの店作りは良かった。買い物をしていても新鮮で、遊び感覚が伝わる。幾つもの金たらいに野菜が浮かべてある。これをすくって買う。夏野菜のみずみずしさがそのまま伝わってきた。野菜すくいはどうかななど思った。大きなプールに野菜が浮いている、網に入るだけすくって200円。楽しくなければ、始まらない。

軽トラ朝市で、段ボールコンポストも展示、配布をさせてもらった。これがまた大評判。瞬く間に、予定の30個が配布された。普段ないものがあるということはとても大事である。軽トラ朝市で、段ボール・コンポストを始めたんだ。と言うようなことで気持ちがつながる。現在1700の配布状況である。あと、300を様々なイベントで配布して行きたいと思う。農の会では、なんくる農園のスイカが大評判だった。大きさ、数、味、どれをとっても、なんくる農園の高いレベルを表している。私は冷たい、甘酒をだした。自画自賛だがとてもおいしかった。何度か出しているうちに少しコツが分かってきた。冷たい甘酒はは初めてだったので、冷えた感じと水の加え方が良く分からず苦労した。今度やる時はもう少しうまくやれるだろう。1杯150円で28杯の売り上げだった。

次回は農の会でも楽しんでもらえる軽トラ演出が出来ればと思う。以前あった、循環農園さんの軽トラ喫茶はおもしろかった。追い込まれたような緊張する社会の中で、ゆっくり気持ちを開いて話せる場所が必要なのだと思う。人と人が繋がれる瞬間を作り出すことが出来れば、大成功である。日常でない時間の提供。商品はその為の手段だ。松本さんのように、素晴らしいスイカが出せればいいのだが、なにしろ卵は不足しているし、困ったことである。糀とか、塩麹とか、研究しよう。今回は若い農家の方々の出店もあった。軽トラのプロである岩堀魚屋さんも出てくれた。魚屋さんがあることは、市全体の為には素晴らしいことである。又、12月にあるらしいので、今度はもう少し店づくりの工夫もして参加したいものである。
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舟原の納涼会

2011-08-09 04:02:43 | 地域
毎年、8月の最初の土曜日の夜、舟原では納涼会が開かれる。人数は延べ100人位の参加だっただろうか。昨年までは盆踊りが行われたが、今年からは盆踊りは亡くなった。そう言うこともあってか、若い人が中心の納涼会になっていた。以前、公民館長をやった時に盆踊りと呼んで、訂正されたことがあった。なるほどこういう可能性も見ていたのかと思った。盆踊りが無くなるということで、納涼会の意味も雰囲気も変わってくる。ご先祖の参加が無くなったのだろう。子供たちの遊びが工夫された充実した年もあった。スイカ割りは恒例であった。恒例で残っているのは、焼きそば等の出店と花火だろうか。花火も少しさびしい気がした。しかし、祭囃子の人達が来てくれて、「かまくら:ばかばやし」という、レベルの高い演奏を披露してくれた。こうして自治会の催しは、少しづつ規模内容が変わって行くのかもしれない。自治会と言う単位の活動が衰退するのは、暮らしが変わる中でやむえないことだと思う。

舟原でも農業を3反の上やられている農家数は30軒ぐらいではないだろうか。みかん、お茶、稲作、そして自給や朝市向きの野菜。朝ドレファーミーでお会いした舟原の方は、小さい農家には直売場が具合が良いということも言われていた。自治会とは別に生産者組合があるのだが、2年目の運営委員に成っている。TPP反対の署名とか。お茶の放射能補償とか。あとは、JA店舗の販売品の取りまとめのようなことが、役割のようだ。舟原の生産組合で集まるとか、代表がいるとか、そう言う組織ではないようだ。ある意味で、上部組織のJAの運営がしっかりしている。銀行業務や保険業務や不動産業務が充実していて、その人員が農業分野の仕事もやってくれているという、運営会議の印象である。それでも、舟原の農業も私が移り住んでからの10年、耕作放棄地が増えたということはない。私が8反やリ始めたという分くらいは、むしろ農地は少し回復したのではないか。

農業が共通の要素で無くなった時の地域の成り立ち。新しい住民は私を含めてここ10年で20軒くらいは増えただろう。新住民はどちらかと言えば、地域での面倒くさいことは避けたい、という人が多そうに見えるが。そうした中、びっくりしたのは市会議員や県会議員、そして衆議院や市長選挙の候補者の挨拶があったことだ。今までこういうことはなかった。政治的なことがこういう形で、自治会の催しを侵食するのは、上手くないのではないか。地域には様々な思想、宗教、主義、考え方がある。自治会では、選挙は避けた方が良いと思う。そうでないと自治会への参加者はさらに限定される。自治会に、規約がないということがある。口で言わないでもすべてが了解された時代の方が、却って合意がされていたのだろう。改めて文章化しなければいけないということは、地域らしさが失われているともいえる。しかしこうなると、難しい場面だと思わざる得ない。

選挙が近付いている。市長選挙は準備段階に入ったようだ。全く個人的感触であるが、市役所の上層部は反加藤市長で固まってきている。市長が変わる前提での対応をあちこちで感じる。確かに加藤市長は、問題がある。どっちを向いてもきれいごとで済ませる。玉虫色である。支持者の中にも歯が行く感じている人が出てきている。小田原評定的である。問題は一番のテーマであった市民協働の進捗状況であろう。正直まだ建前が掲げられただけで、成果が出ているとまでは言えない。これは市長と言うより、市民の努力範囲である。行政上層部は、実質非協力である、これが市民協働の大きな壁となっている。協働したくとも、行政側がやんわり逃げている所がある。それを突破するのが本当の意味の市民力ではないか。選挙が近づき、行政幹部は政権交代を用心している。今度再選されれば諦めて協力を始めのではないか。加藤市長に疑問は大きいとしても、市民活動を行うものとしては、ここではしごが外される訳にはゆかない。
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稲藁汚染にみる能力低下

2011-08-08 04:49:07 | Peace Cafe
牛肉汚染の原因になった稲藁の問題が深刻化した。政府と行政がほとんど機能していないことがよく分かる。この程度の事でも、政府担当者から想定外発言が出ている。この国のあらゆる分野が、こうした機能低下が起きている。それは、日本人が稲作農業から離れたことに起因している。驚くほど目が届かない人間が増えている。想定外人間には田んぼはとてもやれない。自然と言うものは、常に予測を裏切る。予測を裏切られた時の対応力こそ、本来の力量である。何も変わらない予測通りの毎日であるのは、工場の中だけだ。田んぼは何故だろうばかりの世界である。それを想定の範囲に入れようと、化学肥料や農薬は出来た。その安直さが優先され、ウンカが出ようが出まいが、時期が来れば集団防除を行うような習慣まで出来た。

田んぼをやるには、観察力が必要である。その前提として、情報が必要。田んぼの深さを計る用具。水温を計る温度計。一日3回ぐらいは田んぼを見ていないと、状況判断は出来ない。そして田んぼの中に実際に入らないと分からない。土の様子である。中を歩いてガスの匂い。土の匂い。虫の状態。葉の色、硬さ。情報の収集が必要である。どれだけの水を入れると、どれだけの水が出て行くか。それも一様でなく、水の深さでどういう違いが起こるか。できる限りの情報を集めることが始まりである。泥んこになって情報収集して、感性を全開して感じて、考えて、やってみて、やり直す。この面白さが田んぼである。千変万化の水と言うものがどんなものなのかということが、そして、土と言うものが水とどのようにかかわるのか。少しづつ見え始める。見え始めるが、又翌年は違う状況に成る。その違う状況を今までの経験から、想像し次の展開を予測し、行動する。

日本人の細やかな観察力と言うものは、田んぼの作業を百世代繰り返して、生まれたに違いない。田んぼから離れた日本人は大切なものを失った。次に放射能汚染は何をもたらすのか。この想像力である。この想像力の為に多くの原子力学者は存在するはずだ。住民に嘘の安全教育をするために居た訳ではない。次に起こりうることを想像して、先手を打って予防して欲しい。事が起きてから、生草だ、牛乳だ、水道だ、お茶だ、ホウレンソウだ、稲藁だ、堆肥だ。すべてことが起きてから、手が打てない状態に成ってからの騒ぎだしてもおそい。基礎に成る放射能汚染状況の把握が出来ていない。できる限りしないで済まそうとする。昨日に成って、小田原市長から市長への手紙の返事があった。私の指摘した時に、ごみ焼却場の六項目の測定をすぐしていれば、どれだけ立派な市長になったのか。ああ残念だ。政府の指示だけこなす無難なら、誰にでもできる。

重要なことは次に起こるかもしれないことだ。水の汚染である。海に流れ出て確かに薄まったのだろう。薄まってどうなったのかが気掛かりでならない。浄水場や下水処理場の汚泥の放射能汚染も深刻である。焼却場の灰も深刻だ。放射能瓦礫の処理も膨大である。結局は、海に流れ出る。海の砂も泥も汚染されているだろう。貝などは濃縮しているだろう。コウナゴを食べた魚がどうなっているのか。次の事件を起こす前に、情報収集である。調査をして問題が分かったら大変なので、調査をしないが行政の基本的態度である。事なかれ主義。自分で想像してやるしかない。汚泥が堆肥になっている。ここでさらに濃縮される。焼却灰がコンクリートに成る。汚染された材木が建築材に成る。家そのものが危なくなれば、暮らせない。基準値が8000ベクレムであるということは、それ以下の7000廃棄物は、普通に利用されることに成る。もう政府が駄目なのはわかっているのだから、自己防衛である。
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円高は悪いことなのか。

2011-08-07 04:25:08 | Peace Cafe
過去最高の円高だそうだ。歴史的円高などという言葉も使う。アメリカ経済の深刻な不況による、ドル安と言うことらしい。それにつれてかユーロも下がっている。こちらも状況の悪い国があるらしい。日本経済の方がまだ悪さが少ないという見立て。経済先進国という考え方や、基軸通貨とかいう考え方自体が通用しなくなり始めている。経済のこと書くほど知識もないが、今年の初めには日本国債が、国際的評価の格付けが下がると、大騒ぎしていたことを覚えている。現在の格付けは3番目の「Aa2」らしい。 さらに下がると言われている場面だ。国債の評価が下がって、円が高くなるというのが分からない。アメリカは最高位のトリプルA。それでいてドル安。格付け評価する人の見方と、投資家の見方が違うのか。と言うことはまだ一層の円高に成る。

凋落が始まっているとするなら、日本もアメリカも同様であろう。距離を取る心づもりはしなくてはならないだろう。なにしろ日本はアメリカの一つの州位のベッタリである。リーマン危機以来アメリカは立ち直れないでいる。あのときのオバマ大統領の方針は魅力的だった。日本にもああいう前向きな展望を持ってほしいと。しかし、結果としてはオバマ氏の方針のようにアメリカは改善出来なかった。例えば、グリンニューディールで雇用を創出と言っていたが、失業者問題はさらに深刻化している。アメリカの状態の意味するところは、経済の世界的な構造変化が起きていることではないか。世界が平均化して来ているということで、アメリカ一人勝ちが許されないのは当たり前の気がする。経済の時代は終わろうとしているのではないか。いや、資本主義経済の時代は終わりにしなくてはならないのではないか。

円高のどこが悪いのかが分からない。円が高くなるというのは、全体では良いことのはずである。これで困るのは輸出企業である。輸出企業だって対応はしているはずだ。80円以下ではやっていけないなど、泣きそうな深刻顔でトヨタの人が記者会見していたが。こうなることが想像できないとしたら、担当が無能なのだ。この事態を予測して、円建て決済にするとか、現地生産にするとか。対応すればいい。報道各社は、特にテレビはこぞって円高を困った悪いことであることは、合意しているかのごとくである。テレビ局がCMが減って困るとか、輸出企業が困るというのはわからないではないが、国民の大半は喜ぶ側に居るはずである。この国が企業あってと考えてしまうのは、視野が狭いからにすぎない。企業にとっては、円高は海外に出て行くチャンスだろう。資産家には海外に投資をするチャンスだろう。

円高の報道は原発神話と同じような意図が感じられる。スポンサーへの慮り報道。困ることの方を強く言いがちではある。企業の思惑というものが、日本全体を支配している。この円高水準では5000億円の損害とか。それなら、前の円の水準なら5000億円得をしていたかもしれない。GNPと同じで、暮らしの実感とは本当は違う。ところが毎日、円高は悪と言う大前提の報道である。刷り込まれている。円高になれば電気の価格も下がる。ガソリンも下がる。大震災の復興には、有難いことのはずだ。輸出企業の利害は日本国内からすでに離れているはずである。もし、企業の利害を優先してTPPに加盟した場合。円高によって農業も、揺り動かされることに成る。そして食糧と言う日本の根底が崩れることになるだろう。農業が通貨の交換レートで潰されたらたまらない。

昨日の自給作業:大豆畑の改善2時間 累計時間:3時間
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首長は泥をかぶらない。

2011-08-06 04:01:43 | Peace Cafe
民主党の安住淳国対委員長の発言である。「立派なことは言うけど泥はかぶらない。この仕組みは何とかしないといけない。」その通りである。押し並べて、政治家で泥をかぶろうなどと言う人はいない。世間の人よりずっと、名誉欲が強く、自分だけが正しい人と思い込み、良い子になろうと言う人である。この国をあるいは、この地域をこんな風にしたい、と言う理想があって政治を志したとはとても見えない。選挙制度が主たる原因で、政治家をそういう人間にしてしまう。選挙民の意識に重大な責任がある。政治と言うものを、周辺の利害やその時の風潮で判断する。これが政治家をまともなものにしない原因である。選挙という制度が形式的民主主義を生み出している。と言いながらも、不十分を抱えてやって行くのが民主的なんだと、諦めるしかないのだが。

分かりやすい例が、佐賀県知事である。知事は内心原発容認は既定の路線であった。それを、形式的手順で、そつなく進めようとだけしていた。あの説明会の後の満足げな記者会見が、その思惑を良く表していた。「良い説明会であった」と自画自賛していた。良い説明会どころか説明会のとしての意味を持っていなかった。不安な住民が何でも、どこまでも説明を聞けなくては駄目だ。知事としては筋書きを上手にこなしただけであったのだ。手順を踏んだ。さあ次の段階と考えていただろう。今の態度も、反省が足りない。政治家はあんな程度のものだ、と多くの人が感じたと思う。石原都知事も原子力発電の必要論を発言している。新しく東京に作るという発電所は何故か、原子力ではない。自然エネルギーでもない。天然ガス発電らしい。それでいて、地球温暖化を避けるために原子力発電は必要だと、わが身を顧みず発言している。まさに泥をかぶらないで、立派なことだけ言っている。

政治家は上っ面は巧みである。攻撃も鋭い。しかし何かを作り出すとか、決めるとか、行動するとか、地道に調べるとか、そうしたことは、普通の人より劣っているらしい、巧みなのは口だけである。やることはやらないでも、上手いこと口だけは動く。口だけでどうにもならないことは、口にしないし、気がつかないふりをしてやり過ごす。たぶん世界中の政治家の傾向なのだと思う。嫌われてもやり抜く人は選挙で選ばれない。民主党のマニュフェストは、できないことまでやれるようなことを書いてしまい、今に成って訂正している。子供手当に所得制限を設けないのが、民主党の党是だ。などとあの年をして子供手当をもらっていた、鳩山氏が発言しているのがおかしい。

首長が立派なことを言わない方が良いのかと言えば、そうではなくて、立派なことを実現するには、泥もかぶらなくては出来ないのですよ。税金を上げたり、復興国債を赤字でも発行しなければ、やりたいこともできないのだから、国民に負担をかけるようなことも言わなきゃ、ずるいよ。ということだろう。原発補償以外はその考えでも良い。放射能汚染の責任はとことん東電にある。このことだけは、ごまかされてはならない。B型肝炎の補償で税金を上げると言うことらしい。当時の厚生省の責任者や、製薬会社、薬事審議会の審議委員の人など、充分な責任を取ったのだろうか。そうは思えない。東電に騙されてはならない。だませると思えばまた原発をやるに違いない。原発を推進した関係者すべてが、この事故の責任を自覚しなければならない。そういう泥をかぶる発言も政治家にはしてほしい。

昨日の自給作業:大豆、サツマイモの草の整理。1時間 累計時間:1時間
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放射能で不安な友人へ

2011-08-05 04:22:49 | 地域
――友人へ出した返信メールです。

農会では大豆畑の土壌の測定をしています。
土壌は耕運した後のものです。15センチまでの深さの土壌です。
これは通常値に近いと言える程度の値です。
久野でもこの大豆畑よりさらに低い値のところもありました。
前回のお茶畑は、表土だけを取りました。
これはご存じのように高かったわけです。
久野の4つのデーターは1キロぐらいの範囲ですが。
値には、想像以上の差があります。

農の会の土壌の採取法は、映像で記録してあります。
土は取り方で、かなり濃度差があると言う事も分かりました。
測定は自分の畑で、自分の手で、行わないと、
最終的には納得がゆかないものでしょう。測定をお勧めします。
私の推測では、Kさんの畑があるだろうあたりは、
ほぼ通常値でないかと考えています。
ホットスポットがあるのと同様に、空白区もあります。
理論的にも、チェルノブイリの汚染地図でも、
300キロ地域では、空白区の方がはるかに広く存在するはずです。


堆肥を作る稲藁、落ち葉については、状況次第だと思っています。
私の所に一昨年の藁があります。雨には濡れていません。量は少しですが。
それは使わないので差し上げます。踏み込み温床分にはなるでしょう。
いずれ、土から根が吸い上げるものと、降り注ぎ葉から吸ってしまうものでは、
移行係数がだいぶ異なるようです。
この点では過去のデーターはないと考えた方が良いでしょう。

同じ時期に植えられていた。小麦は高く、まだ地中にあったジャガイモは影響が少ない。
ご存知かもしれませんが小田原の3番茶からも検出されました。荒茶で600ベクレル。
これは確かに高いですが、この間5または6分の一になっていることも着目点です。
このお茶畑は、枝葉は刈落としたままのはずです。
農の会では、表土と葉を持ち出す途中です。
不検出に成る位の違いがあると考えています。
放射能は表土と、枝葉にたまっている。
表土1センチとそれ以下では全く違うと思われます。
これも土壌測定をやって分かったことです。

もう一つは焼却灰の放射能濃度に着目する必要があります。
焼却灰は、その地域の全体的な汚染濃度を表現しています。
この数値は、国が強制的に各自治体に命令して行い公表されています。
これを見てゆくと、小田原は、東京の高目の8分の1くらいです。
東京は千葉の高い焼却場のさらに5分の1くらい。
千葉より茨城にはさらに高い所がある。

全体的な傾向は焼却灰の測定が継続して行われると、色々の状況把握が出来ます。
暮らしに直結する重要なデーターです。
汚染牛肉で分かるように、大阪の焼却場でも放射能は出るはずです。
小田原市には一度ではだめなので、再度行う事を頼んでいます。
ぜひ、Kさんからも希望して下さい。

汚染の状態は、全体的に見れば、やはり、距離に比例しているのです。
確かに、あしがら地域でも、ホットスポットはあります。
根府川から、箱根にかけての東斜面は高いようです。
しかしその中でも影響がない土壌もあります。
同じ久野坊所でも、お茶のデーターでかなり値に差があることが分かりました。

放射能の心配は当然のことですが。ともかく、科学的測定データーです。
疑心暗鬼でいると、不安要素だけが増幅され、すべてが否定的に見えてきます。
この地域であれば、場所を選べば問題が少ない場所はあります。
逆にいえば、食べ物は、他所からきているものの方が、不透明でリスクが高いです。
自分で分かった場所で作り食べる事の方が、よほど安心です。

――他の人にも同様の不安があると考えたのでブログで書きなおしました。
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小田原市議会だより

2011-08-04 03:54:45 | Peace Cafe
市議会だよりが自治会の回覧と一緒に回ってきた。118号とある。行った陳情の採択結果が掲載されていた。各議員の賛否の公表を行って欲しいという、陳情がやっとのことで採択されている。議会が変わり始める予兆であってほしい。3ページには会派の構成と言うものが、出ている。会派と言うのが分かりにくいのだが、欄外には※会派とは、所属政党や、主義・主張を同じくする議員のグループ(3人以上)のことをいいます。記載されている。なるほど、小田原市会議員には8つの会派がある。大きい会派5名が1つ。小さい3名のグループは5つある。4名のところが2つ。これを見て思うのは小田原の議会は意見が、細かく分かれているということだろうが、良く取れば、議員各自に意見があるということになるが、一筋縄ではない複雑さも感じる。

主義主張については、前回の選挙でもテーマであった城下町ホールのことで、奇妙奇天烈な設計案に対して、驚くべき賛成を主張した上田理都子議員と、それを真っ向から否定した佐々木議員が同じ会派になっている。主義・主張が同じということはどちらかが変節したということになるのだが。そのほかびっくりしたのは、最大会派誠和に井上議員が入ったことである。武松氏。加藤氏。大村氏。は少し知っているが、井上氏が生かされるグループなのだろうか。一番主張が通るグループと言うことで選択したということか。今後の発言を注意深く見てみたい。市民クラブの3名は名前通りで分かりやすい。このように主義主張が8つに決まる過程で、充分な政策論議がな行われたことを願うばかりである。本来なら、公明党や、共産党のように、選挙前に会派が分かった方が投票しやすい。

議会トピックスとして、「議会改革を進めます」とある。議会改革推進委員会が設置された。この委員会は傍聴できるのだろうか。何をどう改革しようと言うのか。とても興味がある。正直なところ議会の役割に対し、失望をしてきた。議会と言いながら、議論をする場には制度的にも成っていない。意見を述べ、終わりである。議員相互の議論と言うものが許されていない。空々しい質問をして、予測通りの解答が出る。議員の方々は、パフォーマンスはしたつもりだったのだろうが、城下町ホールのような分かりやすい問題でも、何時どんなことが話され、どこで了解したのかが見えなかった。後に成ると反対していたという議員が多数派として登場したが、それなら何故すんなり進んだのかが分からなかった。だいたいに賛成反対が公表されていなかったのだから、責任の追及も、選挙での反映も出来なかった。

「議会を傍聴してみませんか」と言う呼びかけ記事も出ている。議会には最近傍聴にもゆかない。議会だよりにあるダイジェスト版の内容で十分である。白熱した議論がされるようなら、是非とも傍聴したいが。広域ごみ処理に関しては興味があり出かけたのだが、議員に予備知識もなく、お茶を濁して終わりであった。3,4人が言いっぱなしで終わり。私には質問したいことが山ほどあり、手を挙げたい位だった。傍聴しろと言うのは、議会の機能不全を知って欲しい。と言う事かと思ってしまう。だからこそ、改革の委員会は興味がある。議員自身が何が問題だと考えているのか。「社会経済情勢の低迷によって、地方自治体の自主・自立が求められている」と書かれているが。一体何を意味しているのか、すでに分かりにくい。自治体の独立性は経済の低迷とは別だと思うが。ともかく公開されるなら、傍聴する。
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放射能汚染堆肥に関する通達

2011-08-03 04:52:25 | Peace Cafe
放射能汚染された堆肥に関する農水省の行政指導が示された。原発事故が起きてから、5か月が経った今になってである。遅いことは別にしても、その指導内容の根拠がないことには驚く。時間をかけて充分考え抜いて、こんなものしか出てこないのか納得がいかない。こういう時に行政が権力であることが分かる。前回のお茶の時も、生葉で行くのか、荒茶で行くのか、飲むお茶で行くのか、はっきりしないで混乱しているうちに、荒茶に決まった。神奈川県でも静岡県でも、科学的な根拠がないと言うので当初拒否していた。結局根拠は示されないまま測定をすることになった。①肥料・土壌改良資材・培土中に含まれることが許容される最大値は、400ベクレル/kg(製品重量)②牛、馬、豚、家きん等用飼料中に含まれることが許容される最大値300ベクレル/kg③養殖魚用飼料中に含まれることが許容される最大値100ベクレル/kg(製品重量)この3つが指導の内容である。

その根拠としては
(肥料等を長期間施用しても、原発事故前の農地土壌の放射性セシウム濃度の範囲に収まる水準。この水準であれば、農地への施用作業時の外部被曝が廃棄物再利用のクリアランスレベル(10 µSv/年。平成23年6月3日原子力安全委員会決定)を下回る。)としている。

足柄茶の汚染処理では、茶葉や枝は刈払い、お茶畑の畝間に入れておきなさいと言う指示であった。生葉や枝には、1000ベクレルを越えたものがあった。表土もほぼその程度の値はあるとしなければならない。このように放射能汚染された畑地の放射能の総量の低下を考えなければならない。何故、枝葉は1000ベクレルでもいいが、堆肥は400ベクレル以下となるのか。枝葉を残したことが間違えであったのなら、今からでも間に合うので、持ち出しの指示をすべきだ。同時に表土の持ち出しも行うべきだ。お茶畑なら耕していないので間に合う。畑の通路部分に埋め込んでしまえばいい。足柄茶では7月末の三番茶でも600ベクレムになったが、これは当初の6分の1に減少しているともいえる。今度は土壌や枝に残っていた放射能が、葉に出たと考えられる。これより下げるためには、根からの吸収も考えるひつつようがある。やり方さえ工夫すれば、クリアーできる範囲である。

表土にほとんどの放射能はいまだ存在している。また、表面を流れて低い所にたまる。畑に高低があるなら、低い所から表土を持ち出す。農水が早く対処法を指導していれば、耕さない内に出来たことだ。それでも今からでも遅くないので、集まっていそうな所は避けるだけでも違う。堆肥であった。堆肥が使えないということは、有機農業に置いては深刻な被害である。笹村農鶏園の鶏糞たい肥も、分けてあげることも許されないらしい。落ち葉を集めて利用することがとても土壌を作り上げるのに有効。落ち葉を取る場所もよほど気おつけないと、汚染稲藁の二の舞に成る。しかし、良く考えてみれば、これが300キロ圏のあしがら地域の状況のことで、山や川や海、国土のすべてがこの状態なのだ。100圏内では、400ベクレルの堆肥を入れることが、濃度を下げるという状態であろう。濃度と言う考えは止めて、総量を抑えると考えるべきなのだろう。

何故、400ベクレルであれば、農地の汚染が増加しないとしているのか。その根拠は示されていない。示されていないどころか、間違っている。土壌深くに浸透するのには時間がかかるもののようだ。除染が福島では専門家をお願いして行っている。農水省でも農地の除染方法を、専門家によって検討し、研究し、濃度別に方針を示す必要がある。その前に汚染地図を作る必要がある。そこにはどういう地形が濃度が高くなっている可能性があるかなど、農家が具体的に対応できるものにしてほしい。と言って、方法がないのだろう。無いのならないということを認めて、生産者の負担増だけで済ますことは止めてもらいたい。
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