世界は一家 人類みな兄弟 笹川良一

“昭和の怪物”笹川良一とは一体どんな人物であったのか。

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世のため、人のためになる子 笹川良一が誕生

2008年03月04日 | 幼少期
世のため、人のためになる子 笹川良一が誕生

笹川良一は1899年(明治32年)5月4日、大阪府三島郡豊川村(現在箕面市)で生まれる。

この時点でこの子が、いずれ日本国のために大きな仕事をすることになるとは、父鶴吉、母テルには思いもよらなかっただろう。両親によって「世のため、人のためになる子」を目標に育てられた。

笹川家は1747年から代々続く家柄で、父鶴吉は十代目の当主であり、苗字、帯刀を許された庄屋の出で名家である。なので元来お金には困ることはなかった。また株や先物取引にも滅法強く、大きな財をなした。

社会一般では、後に設立される日本船舶振興会(現日本財団)のお金を笹川があたかも自分の金のように自由に使っていると大きく誤解されているが、そもそも財団はモーターボート競走法及び民法に基づく法人のため、国土交通省の管理下におかれ、大臣の認可を得なければ何もできない団体である。

笹川が使った資金はあくまでも自らが得たものであり、当然自由に使う権利がある。

話を戻して、
生前、鶴吉は良一に対して
「国家国民のために行った行為であれば、あるいは法律にふれるような場合であっても、良心に恥じるところがなければ、責めるべきではない。大衆の幸福と信ずればどんなことでも思い切ってやれ。俺は死んでも魂はお前の背に乗ってお前を守り通してやる」
と言うのが口癖であり、遺言もこの言葉であった。

良一は終生この父の言葉を守り実行した。

豊川村尋常高等小学校時代は、後に日本人初となるノーベル文学賞受賞作家川端康成とは机を並べて学んだ同級生である。

川端は幼い頃両親を亡くし祖父の手で育てられた。この祖父が笹川の父鶴吉と懇意にしていたため、川端はよく笹川家に連れてこられていた。

川端は小学校を卒業すると茨木中学校(現大阪府立茨木高校)に入学したが、笹川は小学校を卒業後、中学校へは進学しなかった。

二人の友情は途切れることなく続いたが、笹川は川端を利用することは一度もなかった。後年、川端が「日本ペンクラブ」の会長に就任した時に「資金集め」に苦慮していると聞いて自らのお金を用立てている。

その時笹川は「頭ある者は頭で、労力のある者は労力で、金のある者は金で社会に奉仕する」という言葉を話している。

また、川端が作家として世に出るまでの50年間、川端家の墓を守り続けて線香の煙を絶やすことがなかった。それほどまでに、笹川と川端には小学校時代からの固い絆があったといえる。
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