OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

相対化 (99.9%は仮説(竹内 薫))

2006-07-10 00:12:09 | 本と雑誌

 「仮説」であるということは、「万人における真実ではない」ということです。
 ある人のある見方からすると「真実」に見えるが、他の見方が存在するかもしれないという状態です。

 この場合、Aという仮説に対して、Bという反対仮説が想定されます。こういう状態では、人はついついAとBのどちらの仮説が正しいのかと考えてしまいます。

 他方、「相対化」は「双方を正しいと認める考え方」です。

(p188より引用) 複数主義ともいいますが、ようは、全体を統一する絶対的な唯一の仮説がないという意味で、仮説と仮説が常に共存しているのです。
 どっちが正しいかではなく、両方とも正しいというのが、相対性理論の根っこの考え方なんです。絶対的な基準がなくて、状況に応じた相対的基準しか存在しないのです。

 Aの世界観でみるとAが正しく、Bの世界観で見るとBが正しい、AとBの世界観は、どちらが正しいというものではないということです。

 こういう理解の仕方は、人と人とのコミュニケーションにおいても参考になります。

(p226より引用) 話が通じないのは、自分の仮説が相手に通じていないということです。また、相手の仮説を自分が理解していないということでもあるのです。・・・
 お互いの拠って立つところの仮説に気づくことにより、相手の心積もりもそれなりに理解できようというものです。それが現実の世の中でしょう。・・・
 自分の仮説を絶対視せず、他人の仮説をも理解しようとする柔軟な態度にほかなりません。それは、価値観の相対化といっていいでしょう。
 世の中を相対化してみると、それまで自分が採用してきた(頑なな)仮説のもとではまったくみえていなかったことがみえてくることがあります。

 これは、いわば「視座の相対化」とも言えます。

 「価値観の相対化」を当たり前のことと理解するためには、仮説を仮説としてきちんと教える態度が必要になります。

(p175より引用) わかっていないことについては、わかっていないとちゃんと教えるべきなんです。その線引きを曖昧にしてはいけません。・・・
 100パーセントわかってはいないのに、100パーセントわかったかのように強制的にみんなに教えてしまうと、だれもが先入観としてもってしまって、疑問に思う人がいなくなってしまいますよね。

 わかったことだとの「思い込み」は思考を停止させます。
 仮説であるからこそ、さらなる探究心が生まれるのです。

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99.9%は仮説 (竹内 薫)

2006-07-09 13:04:57 | 本と雑誌

 この本は今でもかなり売れているようです。いつも参考にさせていただいているふとっちょパパさんも紹介されています。
 副題は、「思いこみで判断しないための考え方」です。

 この本では、繰り返し繰り返し、
 「世の中には『確定』したものはないんだ、ほとんどが『仮説』に過ぎないんだ」
ということを理解したうえで、
 「自ら考え、人と接するようにすべきだ」
と説いています。

(p74より引用) 世界の見え方自体が、あなたの頭のなかにある仮説によって決まっているわけなのです。
 ・・・事実はすべて、実は仮説のうえに成り立っているんですね。
「裸の事実」などないのです。
 ということは、データを集める場合も、やっぱりその仮説-最初に決めた枠組みがあって、その枠組みのなかでデータを解釈するわけです。
 つまり、「はじめに仮説ありき」ということです。

 通常、ものごとを理解する場合、人は自分の「世界観」をベースに考えます。
 「世界観」とは、それまでの経験やそれまでに獲得した知識、さらにはそれらを基礎として培われた価値観等の総体です。
 したがって、それは、人により、時代により、場所により異なります。

(p109より引用) われわれは現在、ガリレオのことを偉人としてとらえていますよね。でも、ガリレオが生きていた当時は、彼は偉人でもなんでもなく、ただの変人、狂人だったわけですよ(もちろん、ガリレオを高く評価していた人がいたにしても・・・)。・・・
 つまり、時代と場所によって「正しいこと」は変わるのです。

 このことが、「99.9%は仮説」というタイトルに込めた竹内氏のメッセージです。

 さて、残りの0.1%は、動かしようのない事実・真実ということになります。
 この部分は、デカルトの、「すべての知識を疑ったあげく、疑っている自己の存在は疑えぬ」という例の「われ思う、ゆえにわれあり(cogito ergo sum.:コギト・エルゴ・スム)」に通じるところがあるように思います。

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生物学者の多様な発想

2006-07-08 14:31:04 | 本と雑誌

Senmou  (ゾウの時間ネズミの時間(本川 達雄))

 生物界には「車輪」がないと言います。(バクテリア類には車輪の機構をもつものがいるらしいのですが)

(p68より引用) まわりを見回しても、車輪を転がして走っている動物には、まったくお目にかかれない。陸上を走っているものたちは、二本であれ、四本であれ、六本であれ、突き出た足を前後に振って進んでいく。空を見上げても、プロペラ機は飛んでいても、プロペラの付いた鳥や昆虫はいないし、海の中でもやはり、スクリューや外輪船のような、回転する駆動装置をもった魚はいない。

 言われてみればそのとおりですが、改めてこういった視点を切り出されると、自分の固定化された発想が物足りなく感じられます。

 この車輪の話から派生して、「技術と環境」についての話題に移って行きます。

(p74より引用) これらの技術がわれわれの暮らしを豊かにしてきたのは、間違いのない事実である。しかし、使い手を豊かにするという観点ばかりに重きをおいて技術を評価する従来のやり方を、考え直すべきときにきているというのもまた事実である。

 技術を評価するメルクマールは、「豊かさ」以外にも、「人間との相性」や「環境」という観点も必要だとの主張です。

(p74より引用) 人間との相性ということからみれば、道具が、手や足や目や頭の、すなおな延長であれば、それに越したことはない。作動する原理が、道具と人間とで同じならば、相性はよくなる。残念ながら、コンピュータやエンジンは、脳や筋肉とはまったく違った原理で動いている。だから操作がむずかしいのである。自動車学校にみんなが行って免許をとらなければいけないこと自体、車というものが、まだまだ完成されていない技術だという証拠であろう。

 こういった観点からは、自動車もまだまだ未熟な技術ということになります。
 さらに、論は続きます。

(p75より引用) 環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で今まで問題にされることが多かった。しかし、ここで論じてきたように、車というものは、そもそも環境をまっ平らに変えてしまわなければ働けないものである。使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい。

 自動車を「環境を自分に合わせなくては機能しない未熟な技術」と喝破する視点は、私にとっては非常に斬新に聞こえました。

 車輪という技術は、極めて限られた条件下の「環境」においてのみ適用できるのです。
 そういった環境条件が満たされない場合は、車輪という技術を捨てるか、逆に、車輪に適合するよう「環境」を変えるか、のいずれかの道を選択することになります。
 自然界の生物は前者を選択し、人間は後者を選択したのです。

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推定可能

2006-07-06 23:54:42 | 本と雑誌

Sango  (ゾウの時間ネズミの時間(本川 達雄))

 この本には、学術的なものの見方や考え方を知るヒントが多く含まれています。

 本書の場合は「動物のサイズ」をキーコンセプトとして、種々の視点から生物の設計原理に関する論を進めます。
 具体的には、サイズを基礎に、さまざまな比較項目を掲げ、対象を座標上にプロットして行きます。(ここでは、「サイズ」は「体重」に置き換えられています)
 体重×標準代謝量、体重×摂食率、捕食者の体重×餌の体重、体重×移動速度、体重×運搬コスト等々・・・。
 これらを見ながら、著者はさまざまな仮説を立てるのです。

(p56より引用) いろいろな事項をサイズの関数として、体重の指数式で表しておくと、直接は測れないものも、測定できたものを組み合わせることにより、推定可能になる。
 全体のサイズが変わったら、機能や各部分のサイズがどのように変化するだろうか。この変化の様子を記述するときに、部分を全体のサイズの指数関数として近似して書き表すやり方を、アロメトリーと呼ぶ。・・・アロメトリー式を組み合わせれば、いままで気づかなかった関係が分かってくる。直接測定不可能な関係も導き出せる。

 いったん一般的な関係式が成立すれば、直接確認できないことについても「推定」できるようになります。

 また、ひとつのコンセプトに対するこだわりが、いくつもの事象の原因追求のヒントになることもあります。

 以下は、「表面積/体積」というコンセプトへのこだわりの例です。
 このこだわりが、「サイズの大きな生物に『呼吸器』が発達した原因に関する仮説」を導き出しています。

(p102より引用) サイズが小さければ、呼吸系もまた必要ない。動物は、外界から、栄養物や酸素を取り込む。これらは体の表面から入ってくるので、入る量は表面積に比例するだろう。一方、それを消費する方はというと、体の組織が使うのだから、消費量は組織量に比例し、これはまさに体積に比例する。サイズの小さいものでは〈表面積/体積〉は大きい。サイズが増えるにつれ、この比は小さくなっていく。だから、サイズの大きいものほど、需要が増える割には供給が増えないことになる。そこで酸素を取り込むために特別に表面積をふやす必要が出てくる。これが呼吸系である。

 体が大きくなると、「表面積/体積」の関係から、そのほかにもさまざまな構造上の工夫が起こります。

(p102より引用) われわれ大きい動物は、呼吸系や、それと密接に結びついた循環系という複雑な構造を進化させてきたが、これは〈表面積/体積〉問題を解決しようとした結果である。サイズが小さければ、これらはなくても間に合う。

 体の大きさが呼吸器系や循環器系発生の要因であったという考え方ですが、「そう言われればなるほど」という感じがします。
 いろいろな物事の捉え方・発想の仕方の参考になります。

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ゾウの時間ネズミの時間 (本川 達雄)

2006-07-05 00:29:50 | 本と雑誌

 1992年出版ですが、この年大きな話題になった本です。
 タイトルのネーミングが絶妙で多くの人の興味をひきました。
 内容は、「サイズ」をキーコンセプトにした変わった切り口の生物学入門書というものです。

 いくつかの数式が登場する反面、素人でも「なるほど、そうかも・・・」と思えるような例示や説明が随所にあります。たとえば、古生物学における「島の規則」です。

(p17より引用) 島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。

 この理由はこういう推定です。
 「島が小さいと、草が少なく草食獣が少ない、このため肉食獣(=捕食者)が少ない。このため、襲われにくいいために大きな体をしていた大きな動物は小さくなり、捕食者から逃げやすいために小さな体をしていた小さな動物は大きくなる。」から、といった感じです。

(p20より引用) 動物には、その仲間の体のつくりや生活法から生じる制約がある。だからサイズにしても、むやみと変えられるものではなく、ある一定の適正範囲があるものと思われる。その適正範囲の両端のものは、何らかの無理がかかっていると見てよいのではないか。

Iruka  また、こんな説明もあります。

 イルカが人間に好かれるのは、「泳ぐ哺乳類のエネルギー消費量が小さいことによる」というのです。

(p66より引用) 驚くべきことに、泳ぐ哺乳類では、泳いでもほとんどエネルギー消費量が増えない。・・・
 アシカやイルカの水槽をながめていて、こいつらは、なんでこんなにくるくるくるくると泳ぎまわっているのだろうかと、不思議に思ったことがある。こう考えてしまうのも、われわれはいつも、なんらかの目的をもって動いているせいだろう。かなり大きな陸上動物であるヒトは、歩くのにも走るのにも、相当のエネルギーを必要とする。だから目的なしに、ヒトは動きはしないだろう。
 運動に、なんらコストがかからなければ、無目的に動き回るということは、あり得ることである。卑しさは、顔に出るものであろう。無邪気に泳いでいるイルカたちを見ていると、なぜ彼らが、これほどまでに偏愛されるのか、分かるような気がしてくる。

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意思決定 (ドラッカー365の金言(P・F.ドラッカー))

2006-07-04 00:17:18 | 本と雑誌

 ドラッカー氏の数ある示唆の中で典型的な意思決定といえば、「選択と集中」における「体系的廃棄」の際の意思決定でしょう。

(p7より引用) 集中するための原則は、生産的でなくなった過去のものを捨てることである。第一級の資源、とくに人の強みという希少な資源を昨日の活動から引き揚げ、明日の機会に充てなければならない。昨日を捨てなければ明日をつくることはできない。・・・
 あまりにわずかの企業しか昨日を捨てていない。あまりにわずかの企業しか明日のために必要な資源を手にしていない。

 意思決定には「責任」が伴います。ドラッカー氏は、「責任を終えない者を意思決定に関与させてはならない」と言います。

(p290 より引用) 60代半ばを越えた人たちに適用すべきひとつのルールがある。マネジメント上の責任から解放することである。数年後に問題が起こったとき手を貸せないのであれば、意思決定に関与してはならない。

  この点は、極めて当然のことですが、現実的には結構難しいものです。
 この点の不徹底がトリガーとなり、真の責任者への追及がおろそかになったり、前世代の責任を不当に負わされる事態になったりして、なおのこと「責任軽視」の実態が助長されるのです。

 意思決定において、もうひとつ重要な点は、「意思決定は行動を伴うものでなくてはならない」という点です。

(p305 より引用) 意思決定とは行動を約束することである。起こるべきことが起こらなければ、意思決定を行なったことにはならない。しかも、ここに一つ当然というべきことがある。ほとんどの場合、行動する役目の者は、意思決定を行なった者ではないということである。
 したがって、誰かの仕事として期限を定めないかぎり、いかなる意思決定もないに等しい。よき意図があっただけに終わる。

 意思決定者=実行者である場合でもそうですが、意思決定者≠実行者である場合は、「実行者」に如何に必要な行動をとらせるかという「もう一つのプロセス」が介在します。
 ここで重要になるのが「プロセス管理」です。
 この基本は、「誰が」「何を」「いつまでに」の明確化とモニタリングの仕掛けの埋め込みです。

 最後に、「意思決定」に関するその他の箴言をふたつ。

(p303 より引用) 何が正しいかを教えてくれなければ、正しい妥協もできません。(1944年当時のGMの会長兼CEO スローンの言葉)

(p306より引用) 意思決定の原則とは、意見の対立がないときには決定を行なわないことである。

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失敗は成功のもと by ドラッカー (ドラッカー365の金言(P・F.ドラッカー))

2006-07-03 00:18:13 | 本と雑誌

 ドラッカー氏は、マネジメントに対して「イノベーション」を起こすことを求めます。

(p212より引用) イノベーションのためには、七種類の機会を調べなければならない。
 最初の四つは、組織の内部あるいは産業の内部の機会である。第一が予期せぬこと、・・・第二が現実にあるものと、かくあるべきものとのギャップである。第三がニーズである。第四が産業と市場の構造変化である。残りの三つは、組織や産業の外部の機会である。第五が人口の変化である。第六が認識の変化・・・第七が発見による新知識である。

 ドラッカー氏が挙げる第一のイノベーションの機会は、「予期せぬこと」です。
 「予期せぬこと」は、自分たちの想定外の事象です。
 想定外の事象の発生は、自分たちのもっていたある種の既成概念・先入観が、外部環境とミスマッチを起こした証左となります。ここに、イノベーションにつながる種があるという考えです。

(p214より引用) 予期せぬ失敗の多くは、間違い、物真似、無能の結果である。しかし、緻密に計画し、設計し、実行したものが失敗したときには、失敗そのものが、環境の変化すなわち機会の存在を示すことが多い。
 予期せぬ失敗は、顧客の認識や価値観の変化を示す。

 この顧客の認識や価値観の変化をうまくキャッチすると、新たなマーケットへの気づきにつながります。

(p219より引用) 予期せぬ成功や予期せぬ失敗は、消費者側の認識の変化によるものであることが多い。認識の変化が生じても、事実は変わらない。起こるのは意味の変化である。

 イノベーションの源泉という意味では、従来は個々の産業に密着した技術開発(R&D)機能がありました。
 多くの企業でその企業内に研究所をもち、その成果を新製品開発に活かしていました。この企業内研究が機能していた時代の技術革新は、ある程度想定内の範囲のものでした。

 しかし、今日では、技術は一つの企業や産業の枠組みに閉じたものではなくなりました。研究開発の成果としての技術は、当初想定した産業ではない分野でも活用されています。

(p243より引用) 技術が産業を越えたために、もはやいかなる産業、企業にも、独自の技術というものがありえなくなった。そして、産業が必要とする知識が、馴染みのない異質の技術から生まれるようになった。こうして伝統ある企業研究所が陳腐化した。

Shark  ここにおいて、企業研究所の位置づけ・意味づけの再定義が求められるのです。
 R&Dにおける「死の谷」や「ダーウィンの海」の議論もこの点に関するものです。

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マネジメントの仕事 (ドラッカー365の金言(P・F.ドラッカー))

2006-07-02 01:12:34 | 本と雑誌

 ドラッカー氏は、企業経営において「マネジメント」というコンセプトを追求し根付かせた張本人です。

 そのドラッカー氏によると、「マネジメント」には4つのミッションがあると言います。

(p88より引用) マネジメントの仕事ぶりとは、明日に備えて優れた仕事をすることを意味する。
 事業の将来は、四つの分野における、今日のマネジメントの仕事ぶりによって左右される。
 第一に投資である。・・・第二に人事である。・・・第三にイノベーションである。・・・第四に戦略である。・・・

 その中のひとつ、「人事」については、以下のような要諦を示しています。
 「人の事」を左右するのですから、それぞれの箴言は心しなくてはなりません。

(p121より引用) 第一に、人事の失敗に責任を負う。自らが任命して、成果をあげられなかった者を責めることは責任逃れである。人事を行なった者が間違ったのである。
第二に、成果をあげられなかった者を再度動かす責任を果たす。・・・
第三に、新しく任命された仕事で成果があげられなくとも辞めさせたりしない。適所でなかったにすぎない。・・・

 特に、第二の要諦は「人事の継続性」をどう実現するかが肝になります。
 人事の担当者が代わらなければ、もとの異動をセットしたその担当者の差配の中でケアすることになります。それでも、「成果をあげられなかった」という「実績」の人を動かすのですから、新たな受入側の組織も普通はいい顔をしないものです。その中で動かそうというのですから、よほど人事担当が本気で取り組まなければ(そういった異動は)実現しません。
 人事担当者も代わります。そうなるとますますケアすることは難しくなります。
 システムとして「ケアの継続」を担保する仕掛けをなんとかしなくてはなりません。

 ヒューマンリソースマネジメントに関してドラッカー氏は、さらに進んで、「トップマネジメント以外はすべてアウトソーシングできる」と言います。

(p11より引用) ネクスト・ソサエティにおける企業の最大の課題は、社会的な正統性の確立、すなわち価値、使命、ビジョンの確立である。他の機能はすべてアウトソーシングできる。

 ただ、表層的なアウトソーシング信仰は極めて危険です。アウトソーシングを進める際には、そのスキーム全体をマネジメントする仕掛けが非常に重要になります。
 アウトソースしたら、あとはアウトソーシング先の自主性に任せて御仕舞いというわけにはいきません。戦略的アウトソーシング成功のためのKSFは、アウトソーシング先の自主・自立性の尊重はもちろんですが、アウトソーシング元との密な連携もやはり重要です。
 実際上は、アウトソーシング先との「価値・使命・ビジョンの共有」だけではコントロールできません。現実的な連携を図るためには、「プロセスベースでのリアルな連動」が不可欠です。

 アウトソーサーをコントロールする「プロセス構成能力」も、今日の企業における強力なコアコンピタンスとなりうるものです。

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今ここにある「未来」 (ドラッカー365の金言(P・F.ドラッカー))

2006-07-01 12:56:11 | 本と雑誌

 ドラッカー氏自身も指摘しているように、氏の将来予測が的確なのは、今すでに起こっている未来の兆候を卓越した感性?(高感度アンテナ)で捉えているからです。

(p4より引用) 重要なことは「すでに起こった未来」を確認することである。

 その「確認」は演繹的ではありません。理論的に単線で導かれるものではないのです。

(p14より引用) 理論が実践に先行することはない。理論の役割は、すでに有効性を確認された実体を体系化することにある。

 もちろん現在の中にある変化の芽を捕捉するだけでは十分ではありません。その未来の兆候をどう解釈するか、その意味づけが圧倒的な差になります。

 「未来」を志向する考えは、「能動的」な「先手を打つ」アクションにつながります。

 たとえば、「コスト管理」という側面では、

(p231より引用) コスト管理とは、コスト削減ではなくコスト予防でなければならない。

 コスト管理を、「すでに膨れ上がってしまったコストを削減するためのアクション」と見ると、脅威に対する受動的な対処療法と位置づけられてしましいます。
 他方、「コスト予防」という将来に対するアクションと意味づければ、脅威ではなく機会として見る事ができます。

 また、陳腐化の危機も、自らの能動的な先取りアクションで機会と意味づけることもできます。

(p239より引用) 自らの製品、サービス、プロセスを自ら陳腐化させることが、誰かに陳腐化させられることを防ぐ唯一の方法である。

 上記のようなアクションの実行にあたっては、「プラニング」が必須です。具体的なアクションの「プラニング」そのものに、「未来を折り込む」ことが求められるのです。

(p342 より引用) プラニングにおいて重要なことは、明日何を行なうかを考えることではない。明日のために今日何を行なうかを考えることである。重要なことは、未来において何が起こるかではない。いかなる未来を今日の思考と行動に折り込むか、どこまで先を見るか、それらのことをいかに今日の意思決定に反映させるかである。

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