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水に流す (日本人の〈原罪〉(北山 修・橋本 雅之))

2011-01-16 08:43:59 | 本と雑誌

 「見るなの禁止」を破った側は、その出来事をどう処理したのでしょうか。
 たとえば、イザナキ。彼は禁を破ったという自らの態度を「非」と認識していないようです。与ひょうも同じです。

 禁を破り幻滅に直面したとき、イザナキや与ひょうは慌てて逃げ出しました。その結果「罪」がその場に留まり隔離されることになりました。

 
(p125より引用) 原初の幻滅体験から生じ、長きにわたって強固に隔離され、〈この国〉の精神文化の表舞台から排除されてきた〈影〉としての〈罪〉を、私たちは〈原罪〉と呼ぶのである。

 
 そういう「原罪」を残してしまった物語(日本人の精神性の歴史)を変える機会について、北山氏はこう説いています。

 
(p82より引用) 見たイザナキが騒ぐので見られたイザナミも怒ったのであろう。人間でありながら動物である妻の姿を見て幻滅する〈与ひょう〉があわてなければ、〈つう〉もそこに留まることができたであろう。また、〈つう〉が矛盾や幻滅を引き受けてそこに留まるなら〈与ひょう〉にも矛盾感、嫌悪感から移行して罪悪感が次第に経験され、反省そして償い〈クライン〉の機会が与えられたであろう。・・・〈私〉が醜いものを見て驚いたとしても逃げず、そして矛盾感や嫌悪感をそこに置いて、「すまない」を味わえば、別れの物語が変わるかもしれないというわけだ。

 
 しかし、日本の伝説の中では、「見るなの禁止、」において「見られた側」は「恥」と感じ、日本の精神文化において、それは美化されていきました。結果、「見た側(禁を破った側)」の「罪」は問われず、「禊」により「水に流されて」しまったのです。

 北山氏は「原罪」を償う術を、再び行き去った現場に立ち戻り、そこにおいて「すまない」の態度を示すことだと説いています。同様に、橋本氏の主張におけるこの原罪を償い解消する術が「殯」であり「弔い」でした。
 ここで、北山氏の「すまない」の態度が橋本氏の「弔い」と同期するのです。

 さて本書で展開された論考は、精神分析の専門家と国文学者との学際研究として非常に興味深いものでした。
 ただ、第1章で紹介された北山氏の「古事記」をケースとした臨床的視点からの精神分析の考察は、フロイト心理学の基本概念等の知識がない私にとっては今ひとつ難解でした。少々残念です。
 
 

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価格:¥ 777(税込)
発売日:2009-01-16

 
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