春風駘蕩

いつの時代でもこうありたい

長崎の夏

2012年08月07日 | 日記
3月に母の一周忌を終えたので、喪明けということもあり、夏休みを孫たちと一緒に楽しむことにした。
私の故郷は長崎県西海市。風光明媚、海がとてもきれいなところで、晴れた日には、ここから五島列島がうっすらと見える。
その向こうは東シナ海だ。ここに孫たちを連れて行くことにした。

湘南に住んでいる私や孫は、海はさほど珍しくはないが、九州の海や海岸の風景は湘南とはまた一味違う。
まず、日差しが強い。海の色、山の緑があざやかで、そこに真っ白な入道雲が湧き出ている。
この夏の風景、色のコントラストはすばらしい。

総勢5人のうち、3人は飛行機、2人は車で長崎に向かった。車には海水浴、釣り、自転車など必要な道具を積み込んだ。
飛行機のフライト時間は1時間50分、車は17時間を要したが、全員、無事到着。
その日の夜は、無事を祝って乾杯。

翌日からは、現地の弟夫婦の協力を得て、海水浴、釣り、ドライブ、花火、お酒・・・と、連日、夏休みを楽しんだ。
特筆すべきは、息子が港の堤防で長さ50cmのクロダイを釣り上げたこと。アタリがきてから格闘4分、見事なクロダイを
釣り上げた。ほか、カサゴ、ベラ、アジ、イサキ、キスなど、いろんな魚が釣れた。

7月27日から8月5日までの10日間の滞在だったが、久しぶりに「長崎の夏」を楽しんだ。

「妻を看取る日」を見る

2012年02月20日 | 日記
2月19日(日)午後10時からのNHKハイビジョン特集「妻を看取る日」を見た。これは、国立がんセンター
名誉総長・垣添忠生さんが最愛の妻・昭子をがんで失った悲しみと再生の壮絶なドキュメンタリードラマだ。

稲垣さんは、妻との1年半にわたる闘病生活、自宅での看病の後に静かに最期を見送ると、それまで想像もしなかった
深い絶望感に襲われた。酒に浸り、追い込まれていく日々。そこから長い道のりを経て、ようやく立ち直った。

日本のがん医療の最高峰に立ち続ける医師が、自ら体験した喪失と再生の記録を『妻を看取る日』(2009年末、新潮社)
として出版した。なぜ本を出したのか、稲垣さんはインタビューにこう答えていた。

「2007年の暮れ、がんを患い入院していた妻がどうしても家へ帰りたい、と言うので用意を整えて12月28日に迎えたんです。
その嬉しそうなこと…。しかし翌日には妻の容態が悪くなり、次の日には意識がなくなりそのまま亡くなりました。大晦日
でした。自分の病を理解し、受けとめていた妻は、死期を悟っていたのだと思います」

「本を書いたのは、妻を失った私が半年間どん底に陥り、自殺も考えて、そこからどうやって立ち直ったか、同じ苦悩を
抱えている人に読んでもらい、何らかのお役に立てればと思う気持ちがあったからです・・・」

自民党が見直されるとき

2012年01月21日 | 日記
喪中につき年頭の挨拶を失礼させてもらったので、大寒入りの今日、葉書で寒中見舞いをさせてもらった。
政治関係者への挨拶文は要旨下記の通り。

大寒。普段はあまり気にしない二十四節気ですが、この時期だけはなぜかそれが気になります。

いつもなら松の内に花を咲かせる鉢植の紅梅(春告花)が今年はどうしたことか、いまだ蕾みのままです。
紅色の小さな蕾みをみていると、冬の寒さに耐えて咲くこの花の運命(さだめ)をいとおしく思います。
 
大寒は一年で最も寒い時期。しかし、それは春への助走の時期でもあります。
立春、雨水、啓蟄、春分・・・季節は確実に春に向かっています。
 
雌伏2年5ヵ月、全国津々浦々、どんな小さな地域にもしっかりと根を張った大政党・自民党。
いま一度、見直されるときです。
 
皆様のご健康とご活躍を心よりお祈り申し上げます。

平成二十四年一月


天命と非命

2011年12月20日 | 日記
「香・大賞」の応募締め切りが今日だったので、あわてて郵送。応募規定の文字数が800字という短いエッセイなのでここに掲載。

天命と非命 
母が他界した。92歳だった。83歳の時、大腿骨頚部骨折で入院し、以後、入退院を繰り返したが、
最後の2年間は寝たきりとなった。胃に直接栄養を補給し、死の数ヵ月前からは酸素吸入で命をつないだ。
そして、3月9日、母は静かに黄泉の国へと旅立った。

母の死の2日後、3月11日、東日本大震災が発生した。その時、私は九州の西端・長崎県西海市にいたので
揺れは感じなかった。地震を知ったのはテレビの画面からだった。

押し寄せる波にのまれていく田畑や農業用ハウス、さらには家や車が玩具のように流されていく。
テレビは津波にのみこまれていく東日本各地のすさまじい映像や避難所での被災民の姿を繰り返し伝えた。
それは、時を追うごとに悲惨なありさまを呈した。死者・行方不明者2万人。未曾有の大災害だった。

母の葬儀を終えた私は、いったん鎌倉に戻り、四十九日の法要、お盆の供養には、そのつど長崎に行った。
忘れられないのは、この地方のていねいなお盆の供養だった。8月15日、住民はそろって墓地に向かい、
墓前に灯篭を灯し、線香を手向ける。初盆の家の墓には家紋入りの灯篭がたくさん灯され、
親類縁者が線香を手に次々に訪れる。墓地は人であふれ、線香の香ばしい香りが一面に漂う。
そのなかで、人々は先祖の霊を迎える。

東北の被災地では、仏壇は流され、墓は倒れたまま、テントの中に祭壇を設けてお盆を迎えた人たちがいる。
なかには遺体が見つからないまま、お盆を迎えた人もいる。そして祭壇に向かって一様に線香を手向ける。

不思議なもので、線香の香りは、死者の魂を鎮めるとともに、生き残った人の心をも静めてくれる。
天変地異に見舞われたこの年、たくさんの人が非業の死を遂げた。
天命をまっとうした母を幸せに思うが、非命に斃れた人たちの無念さも思わずにはいられない。

まもなく震災から一年。亡き人に思いをはせ、この国はまた線香の香りに包まれる。


孫の七五三

2011年11月06日 | 日記
今日は満3歳と3ヵ月になる孫の七五三。

あいにくの曇天。午前9時に鎌倉駅西口に集合、孫と5歳のいとこの子2人は人力車で鶴岡八幡宮に向かうことになっていた。
ところが、人力車に乗る前に小さなトラブルが発生。人力車を引くお兄さんたち数人が雨天用の黒い帽子と黒い雨合羽を
まとっていたため、その姿に恐怖を感じた孫が乗車を拒否。仕方なくママに抱っこされて乗車し、八幡さまに向かった。

写真撮影をプロのカメラマンにお願いしていたので、カメラマンは人力車に同行、スナップ写真を撮りながら八幡さまへ。
その他の人たちは、駅から二の鳥居、段葛(だんかずら)を歩いて三の鳥居に出てから本宮に向かった。

祈祷を受けた後、帰りはだらだら坂を歩いて境内に下り、ここで記念写真を撮影。
その後、由比ガ浜のホテル「わかみや」でも記念の写真を撮り、全員で会食。楽しい一日だった。

朝から美容室に行って長い髪をアップにし、祖母に着付けをしてもらった孫の着物姿がとても可愛いかった。


空海と密教美術展

2011年09月16日 | 日記
東京・上野の東京国立博物館で開催中の「空海と密教美術展」を見に行った。
現役時代の友人2人と上野公園内の梅川亭で待ち合わせ、昼食をゆっくり済ませてから博物館に向かった。

入場券(1500円)を購入してから会場に入るまでの約30分間、暑い中、用意されていた日傘を借りて並んだ。
やっと入場できたが、館内も人でごった返している。「容易じゃないぞ」と思いながら流れに従い展示品を見た。

順路は、①空海―日本密教の祖、②入唐求法―密教受法と唐文化の吸収、③密教胎動―神護寺・高野山・東寺、
④法灯―受け継がれる空海の息吹、の4章と仏像曼荼羅の別章で構成されていた。

空海は、延暦23年(804)、今から約1200年前、唐時代の中国に渡たり、そこで真言密教を精力的に学んだ。
2年後に帰国したが、その時、唐からたくさんの経典や絵画、法具などを持ち帰った。
それらの品々は、内容といい、造形といい、それまでの日本の仏教界には見られない斬新なものだったという。

真言密教が絵画をはじめとする造形を重視したのは、密教の教えが奥深く難解で、絵画などを用いなければ
理解できなかったからと言われている。そのためにたくさんの美術品をつくった。それが密教美術の源流となったのだ。

今日は、たくさんの展示品を通して、平安前期に現れた空海という偉大な人物の一端に触れることができた。

月見団子と孫

2011年09月12日 | 日記
9月初旬、妻の友人が「お月見うさぎ」の小さなぬいぐるみ人形を持って遊びに来てくれた。
包みの袋に「和雑貨&Café 蔵楽」のシールが貼ってあったので鎌倉・小町通りのあの店で買ったのだろうと思った。

3歳の孫へのおみやげ。早速、お月見をしなければと思い、十五夜がいつか調べたら、9月12日(陰暦8月15日)だった。
そこで、12日の夕、月を見ようと孫一家を自宅に招いた。

おみやげにもらった「お月見うさぎ」のそばに月見団子を飾り、大人たちには月見酒のための酒と料理を用意した。
孫に「お月さまを見てから団子を食べるんだよ」と言ったら、何度もバルコニーに出て月が出るのを待った。

7時過ぎ、やっとお月様が顔を出した。見事な満月で、さすが中秋の名月と言うだけのことはある。
孫はすばやく団子のほうに戻り、各自の席にひとつずつ団子を配ったあと、自分の分を口にした。
ところが「おいしくない」と言って後は受け付けない。「あれだけ待ったのに・・・」と、一同、大笑い。
孫にとって団子はこのときが初めてだったようだ。

一茶の句に「名月をとってくれろと泣く子かな」というのがある。
電灯もない時代、辺りは漆黒の闇、その闇を煌々と照らす名月は大きくて手が届きそうに見えたのだろう。

妻の友人が「お月見うさぎ」を届けてくれたおかげで、今年も家族みんな元気で十五夜を楽しむことができた。

キアゲハの旅立ち

2011年08月23日 | 日記
8月8日早朝、自宅バルコニーで黄色と黒の縞模様の幼虫がプランタのパセリの葉っぱを食べているのを発見。
何の幼虫だろうかと図鑑やネットで調べてみたら、キアゲハの幼虫ということがわかった。
8月の初め、ジュランタの花にキアゲハがよく来ていた。あのキアゲハがパセリに卵を産みつけたのだろう。

食欲旺盛な幼虫たちはパセリの葉っぱをアッという間に食べ尽くした。
パセリが茎だけとなった頃、丸い糞をたくさん残したまま、まず3匹が姿を消し、続いて残りの1匹がいなくなった。
どこへいったのだろうかと辺りを探しても見当たらない。

数日後、植木鉢にひっそりとへばりついている1匹のさなぎを見つけた。
「ああ、ここにいたのか」と、一瞬、ホッとしたが、他の3匹は依然として行方不明。
偶然、見つけたこの1匹を大切にしようと観察を続けたが、なかなか羽化しない。

「ダメなのかなぁ」と、半ばあきらめかけたときだった。いつものように、さなぎをのぞいてみたら驚いた。
羽化したばかりのキアゲハが隣の植木鉢に止まっている。2本の触覚をピンと伸ばし、細い手足で胴体を支え、
羽やお腹を動かしている。きっと羽を乾かしているのだろう。

じっと見守っていたが飛び立つ気配はない。あきらめてその場を離れた。しばらくしてその場に戻ったら、
もうチョウの姿はなかった。きっと元気に大空に向かって飛んでいったのだろう。

植木鉢のところで羽を広げて見せてくれた美しい姿は、ジュランタの花の近くで舞っていたお母さんの姿とそっくり。
どこかできっとお母さんに会えるよ。元気でね・・・ 。


長崎での新盆

2011年08月17日 | 日記
四十九日の忌明け後、初めて迎えるお盆が新盆。今年は母の新盆。
13日に帰郷し、母と先祖の霊をお迎えできるよう準備した。

新盆には親戚・縁者から盆提灯が届けられるが、その提灯には表と裏に家紋が描かれている。
8月14、15の両日、この提灯を墓前に灯すのがこの地方の慣例だが、灯す提灯の数は地域の申し合わせで
20個以内と決められている。

それにしても20個の提灯を同時に灯すのは容易なことではない。まず、支柱となる材木2本を用意し、
その先端に滑車を取り付け、ロープを通して墓石の両側に立てる。横軸として竹竿4本を用意し、
その竹竿の両脇をロープに結わえ、4本の竹竿がロープの操作で自由に上下できるようにする。

最後に、それぞれの竹竿に提灯5本を吊り下げられるよう間隔を置いて短く切った針金を結び付ける。
これで完成だが、この作業は素人ではなかなかできない。業者にお願いするしかないのだ。

14日は雨のため墓前に提灯を灯すことはできなかった。翌15日も雨だったが、雨が小降りになったのを見て
20個の提灯を一斉に灯した。ロウソクが消えかかった頃、雨が降り出したので、支柱のロープを緩め、
急いで提灯を取り込んだ。短時間だったが、20個の提灯を墓前に灯すことができたのはなによりだった。

盆踊りも14、15の両日が雨天のため中止。16日にやっと実行できた。
盆踊りは、帰ってきた霊を慰め、そして送り出すための行事と伝えられているが、
先祖の霊をお迎えするに際し、先祖に感謝し、生きていることの喜びを踊りで表現しているとも言われている。

また、16日は、お盆のあいだ一緒にすごした先祖の霊をお送りする日。
地域によってさまざまな行事が行われているが、最も有名なのが京都の「大文字焼き」の送り火。
わが家では、この日、「送り提灯」を灯して母と先祖の霊を丁寧にお送りした。

四十九日の法要

2011年04月26日 | 日記
4月24日(日)午前、母の四十九日の法要を菩提寺の光明寺で行った。
親族・近親者約50名が出席、僧侶の読経、焼香、僧侶の法話があり、約1時間30分で法要を終えた。

その後、墓地に向かい、僧侶立ち会いのもと墓前で納骨式。
読経と焼香の後、納骨室を開け、骨壷を納めた。

納骨後、僧侶も招いて近くの金波旅館で会食、施主を代表して、私は要旨、以下の挨拶をした。

「・・・母が亡くなったのは3月9日でした。その2日後の3月11日、東日本大震災が発生しました。
ご承知の通り、この震災で多くの死者・行方不明者が出ています。いまなお遺体が発見されず、
葬儀も出来ないという気の毒な方々がたくさんいます。天命と非命、その違いはありますが、
母は、皆様のお力添えで無事葬儀を終え、本日、四十九日の法要・納骨も済ませることができました。
心から感謝し御礼を申し上げます。・・・」