故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

濃霧の朝 と 新選組局長 近藤勇処刑

2013年04月25日 14時31分34秒 | 幕末史

今朝は5時前に起きて、家を出たのが5時10分。外に出てびっくり霧で全く周りが見えない。車も速度を落しているように思う。霧の中のコンビニ。

 

外堀跡公園の運動具も向こうは見えない。

 

丸亀城に着くと少しは晴れてきたような。お城まつりの準備が始まっている。

 

これはステージだろうか? うまく高さを平均に均しているようだ。

 

お城まつりの行事予定。

 

このお店、うどん店は6時半からの営業。すでにたくさんのお客さんが、車を数えると18台も。やはり讃岐人、朝からうどんだ。 私も食べたくなった。

 

我慢をして通過。田村池では野鳥の写真を撮っている人と少し話して帰宅。今日も7時10分だった。

今日は新選組局長の近藤勇が処刑された日だ。

天保5年(1834)10月9日、武州多摩郡上石原村(現在の調布市)に、農民宮川久次郎の三男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門。近藤周助に実力を認められ、近藤家と養子縁組をして近藤勇と名乗った。    文久3年(1863)清河八郎が浪士組を結成。近藤勇も土方歳三等、近藤道場(試衛館)の門弟達とともに浪士組に参加し、京に上った。働き次第では幕府直参に取り立てられるかもしれないという夢を持っての上京である。会津藩を頼り、京都守護職御預として「新撰組」を結成した。近藤勇中心の8名と、芹沢鴨中心5名、計13名が隊士であった。      内部分裂で近藤派は芹沢派を粛清。近藤勇を局長、土方歳三を副長とする新撰組ができあがったの。新撰組の活動は勤皇の志士たちを震え上がらせた。池田屋騒動は新撰組の活動の代表的のものである。近藤勇の夢はかない、幕臣に取り立てられたが、時は近藤勇に味方しなかった。     慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こり新撰組も伏見方面での戦いに参戦。 2日間に及ぶこの戦いは、薩長連合軍の勝利に終わった。     戦いに敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受けた近藤勇は大久保剛と改名し、甲陽鎮撫隊として隊を再編して甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れる。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別する。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを現在の東京都足立区綾瀬四丁目で募集し、4月には下総国流山に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭する。しかし、大久保大和は近藤勇と知る者が政府軍側におり、総督府の板橋宿まで連行される。近藤勇は大久保大和の名を貫き通したが、元隊士に近藤であると看破され、捕縛され、慶応4年4月25日に中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35。首は京都の三条河原で梟首され、その後の首の行方は不明となっている。

 

って、事でこの辺で。じゃ~またネ



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