故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

野村望東尼の誕生日

2013年09月06日 19時53分17秒 | 幕末史

今朝は3時に目が覚めた。その後はどうしても眠れない、布団でゴゾゴゾするのも4時半まで、そこから起きて天気予報を確認。今日はいい天気だ。5時過ぎから歩きだした。これは、5時半頃の讃岐富士の朝焼け。

 

その後、丸亀市土器町西にある宮池に。ここは映画「UDON」のロケが行われた所で、ダイヤモンド富士が見れる所、今朝も平日で少ないけどカメラが並んでいた。

 

また、明後日高松市香川町浅野で高松市民俗文化財に指定されている「ひょうげまつり」が行われる。新池(ため池)築造の恩人である矢延平六を偲び催される。ひょうげとは、讃岐の方言で、ふざけているという意味である。農民は平六を慕い功績を評価しながらも、藩主の下した国外追放の罪を表向きには反対できず、そのもどかしさから、面白おかしい仮装行列により藩主に抵抗した行動とも言われている。大名行列はシュロで作った髭、飼料の紙袋などを縫い合わせた袴や陣羽織、サトイモの茎で作った刀を腰に差した侍で、手振り足ぶり面白おかしく練り歩くお祭りである。皆さんも一度見学しては?

 

今日は野村望東尼が生まれた日だ。

 

文化3年(1806)9月6日の事である。 野村望東尼は高杉晋作ら血気盛んな勤王の志士たちが母のように慕った女性である。望東尼は福岡藩士、浦野重右衛門勝幸(300石)の三女として生まれた。名を「もと」といった。17歳のとき20歳も年上の郡利貫に嫁ぐが、半年で破局を迎える。その後、九州で著名だった大隈言道に和歌や書道を学び、師のとりなしで、24歳のとき、同門だった福岡藩馬廻役、野村貞貫の妻となった。夫には先妻との子が三人がいたが、夫婦仲はよく、二人は同じ趣味に生き、互いに歌作を競い、歌道を究め学んだ。夫の貞貫は彼女が40歳になったとき、家督を長子譲り、福岡市中央区平尾にあった隠居所、平尾山荘に移っる。その後二人は世俗を離れて十有余年をこの山荘で静かに送った。夫貞貫が66歳で亡くなると(望東尼54歳)彼女は髪を降ろして尼となり世捨て人になろうと決心した。しかし、彼女は世捨て人にはなりきれなかった。平尾山荘には多くの志士が出入りした。元治元年、望東尼がこの山荘に住んで20年近く経ったころ、高杉晋作が訪れている。高杉は長州藩の佐幕派の俗論党に追われ、谷梅之介の偽名を使い望東尼の平尾山荘にやってきた。高杉はここで約10日間過ごし多くの志士たちと会った。また西郷隆盛とも初めて会ったともいわれているが? 高杉はその後、長州へ帰り、1カ月後俗論党を倒し、藩の主導権を握った。高杉を匿った翌年、望東尼は姫島に流罪となった。荒格子だけの四畳牢で吹き晒しの中、10カ月を過ごすことになる。高杉はこの厳しい流刑地の望東尼の身を案じ筑前脱藩浪士や奇兵隊士6人を使い救出させる。慶応2年望東尼は下関の白石正一郎のもとに身を寄せる。そして、喀血して病に倒れた高杉を看病する愛人おうのを助ける。高杉晋作の死の直前詠んだ辞世「おもしろきこともなき世をおもしろく」の上句を、望東尼が「すみなすものはこころなりけり」と下の句を詠み、完成させた。 27歳8ヶ月という若すぎる高杉晋作の死を見届けた後、望東尼は下関を去り三田尻に行き防府天満宮に7日間籠もり、断食して勝利を祈った。そのため、体を壊し病床につくことになった。大政奉還がなり、王制復古が実現。高杉の死後、約7カ月後の慶応3年11月6日に没した。      って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


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