民謡 2006.8月~総集編民謡ブログ

吉岡 都の民謡Weblog 「民謡は心のふるさとです。」

民謡日和

2015-02-02 | 民謡

「民謡とは四季の農耕の祈りの唄であったが、今後とも人間の続く限り唄い続けて我々と共に歩むものである。」

 庶民がはぐくんできた各地の民謡は、言うまでもなく、貴重な 文化遺産です。

 民謡は心のふるさとです。






民謡大会(コンクール)なんて至極、政治的であり、公正ではありませんよ。

・・・最初から優勝者が決まっているし。 

ワイロありきの民謡大会でしたね、私たちがみてきた民謡大会全般は。

かの有名な民謡番組「キンカン素人民謡名人戦」と

「日本民謡大賞」(NTB・日本テレビ系)も、そうでした。

言わずもがな。 (これつて、レコード大賞と同じ)


民謡大会(コンクール)なんて至極、政治的であり、公正ではありませんよ。

・・・最初から優勝者が決まっているし。 

 

 自然発生的に生まれた「民謡」というものを、

 民謡コンクールなどで、表現の優劣をつけるのは、いとも狡猾

 

 大会は、民謡の素晴らしさをアピールする場ではなく、政治的。なんですよ、お花畑さんたちへ。

 魑魅魍魎。

 言わば民謡コンクールなんてものは、伏魔殿ふくまでんです外務省と同じ)。






 

 

 

 

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小学生、中学生時分は、

クリスマスにも民謡

夏休みも毎日、民謡。

(夏は特に日焼けが厳禁。 海水浴は御法度。冬はスキー、当然ながら禁止。 舞台映えしなくなる。着物が着られなくなるので。)




平日も土日も民謡

年がら年中、民謡な日々だったのでした。


しかし、同級生や友人らは私たちが民謡をやっていることを知らないのです。


クリスマスパーティー、

同級生の家族とバッタリ。

ホテルの宴会場の舞台で私たちが唄い、踊り、演奏していたので、

学校が始まるとからかわれたものです・・・。



 






蒼い夜空には小さい月が高く、足元には両側の溝の瀬の音が、陽気な太鼓や三味の音色のとぎれた間に

急に思い出すように勢いよく聞こえて来るのであった。「おわら」の情趣はこういうところにあると人は言っている


 

唄い手さんがお上手で、ほれぼれしました。 4:58~







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転載 

日本における伝統 I

保守思想においては伝統なしには語ることが出来ない。伝統とはなにか、それは目に見える美術品などに限定されることはなく、いままでの歴史の英知によって構 成されている。伝統とは不文律ゆえに非常に柔軟性があり、ダイナミックである。日本の歴史は非常に安定的でなおかつ長く、数百年・数千年の我らの祖先の英 知により伝統が生まれてきた。ではなぜ伝統が必要になるのか。それは人間というものは完全になりきることができないからだ。人間とはつねに理性的な行動を するとは限らず、善行をおこなっているつもりでも冷静に考えれば愚行を犯しているということもしばしばである。そこで、いったい何をもってして善行と 言えるのかという基準が伝統である。伝統は長い歴史の中において不必要なものは基本的には削除されてきているので模範とすべきである。そして、この伝統を 一般的にはどのようにいっているかといえば常識と呼んでいる。また良識と呼んでも差し支えないであろう。

ここでいえることはその常識にさえ従っていれば問題はないだろうということである。だが、人々はしばしばメディアなどに動かされその常識の一部分を忘れて しまうことがある。そのような人々を”大衆”と呼ぶことにする。そのようにしておくと、国民というのは義務をすることによって権利をもらっている人に他な らず、権利のみを主張し自らの義務を忘れてしまった人々が大衆である。この権利と義務のバランスをとるのが伝統の役目であるとすると大衆というものは伝統 を破壊する傾向にあることがわかる。現代社会は高度大衆社会と言われるように大衆がすべてを取り仕切り伝統の破壊を楽しむ時代であるといえる

では過去においてはどのように伝統の保持がおこなわれたのか。過去においては武士には武士道という道徳があった。武士道とは誰かが突然考えたことではなく、長い歴史の中でゆっくりと出来上がったものである。武士たちは自分たちにはノブレスオブリージュ、つまり高貴な義務があると考えた。それゆえに、武士たちは恥となるような行動は慎むようにし、どのようなことが恥になるかは伝統、つまり道徳を破ることであった。武士たちの高貴な行動は庶民たちにも影響を与えた。明治の時代になっても武士道は捨てられることなく形を変え日本国民の間に親しまれていた。日清・日露・大東亜戦争などの軍神ともいえる日本軍人の活躍は武士道に根ざしていたといっても過言ではないと思う。

だが、問題は戦後である。敗戦のショックによってアメリカへの追従をすることをよしとしたものや、進歩主義と呼ばれる左翼的な考えをもつものが出てきた。進歩主義は人間は完全であるがゆえに、最後は世界市民になれるというリベラルな 考え方であり、国家という伝統の産物が戦争の原因になるので、日本という国はなくならないと戦争がまたおきるし、世界政府もつくれないと考える幼稚な主義 である。またアメリカへの追従は戦後すぐは確かにそうせざるを得ない面 もあったが、一向に自主防衛を鑑みずに日本をよりアメリカ的にしようとする動きである。彼らは反左翼であったので伝統を大事にしていると勘違いされがちで あるが、歴史軽視のアメリカのやり方を日本に強引に導入し、導入に邪魔な伝統を廃止しようとしているという左翼である。左翼と反左翼の戦いは結局のところ 左翼の内輪もめである。また「聖域なき構造改革」とのたまわった 小泉純一郎という首相も伝統破壊という点で左翼でしかない。

戦後の”常識”をもった庶民を大衆へと変化させた原因の一つに偏った戦後教育も挙げられる。日教組などが中心の自虐的歴史教育ヒューマニズム信奉の道徳教育の 影響は計り知れない。このような教育と平和ボケにより国家意識というもの消滅寸前であり、せいぜい国家意識を思い出すときはスポーツの時ぐらいなものだろ うか。ヒューマニズムとは簡単にいえば命それ自体が目的という考えかたで、命は大事と叫ぶ考え方である。だがこれはまったく間違ってい て、命とはそれ自体が手段である。もし命され自体が目的であるのなら、自分の命と相手の命を天秤にかけたときには自分の命の方がウェイトが重くなって結局 他人の命軽視、つまり命軽視という逆説的な結末になるし、命それ自体がルールよりも大事なら、道徳・法を破ってでも命を守ろうということに最終的につながってしまう。




 

 

 

 

 

 

2014-12-13 16:30:05