ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

関ヶ原を敵中突破した薩摩の軍神

2008-12-20 22:20:05 | 小説.六韜三略

・・・・・・島津義弘(1535~1619)

 第五回は、前回に続いて江宮隆之の“島津義弘”(学研M文庫)です。
島津家による九州統一は、立花宗茂の父である稀代の名将・高橋紹運以下全員討ち死による抵抗と、秀吉の三十万にも及ぶ九州平定軍によって遂に果たせず、薩摩・大隈・日向の一部に追いやられてしまいます。
 秀吉による天下統一後、命によって義弘は朝鮮国に出陣します。「太閤死す」の報に朝鮮からの撤退が開始されますが、明軍は十五万とも二十万ともいわれる圧倒的な大軍で押し寄せます。対する島津軍は五千。この戦いにおいて島津軍の勇猛さに明軍は「鬼石曼子」(グイシーマンズ)と呼んで怖れます。
 そして関ヶ原。東軍につくはずの義弘は、家康から伏見城留守居役を依頼されますが、鳥居元忠によって追い返されたことから仕方なく西軍に与します。合戦が始まっても島津軍は動かず、眼前の敵を追い払うだけ。一進一退の戦局の中、小早川秀秋が東軍に寝返ると、戦況を見つめていた小川祐忠や赤座直保などの隊も東軍へ。これによって、大谷吉継軍に続いて石田三成軍も壊滅。島津軍は戦場に孤立します。


「兵はどれほど残っている?」
「およそ千ほどかと」
「敵のうち、勢いのよいのはいずれか?」
「東からの兵が最も強いように感じますが」
その方向には、家康が最後の攻撃のために陣を移していた本陣がある。敵は藤堂高虎隊。
「では、その方向に攻撃を開始する。そしてそのまま国許を目指す。よいな!」

(本文抜粋)


 後世讃えられる、敵前に向っての壮絶な退却戦「島津の退き口」です。
まずは立ち塞がる井伊直政・松平忠吉の軍勢に突っ込みます。島津軍は速度を落とさず、矢のような陣形で家康本隊を突破。それを井伊直政・本多忠勝勢が追撃。忠勝は愛馬・三国黒が射抜かれ、直政・忠吉は銃撃で負傷。それでも東軍の執拗な追い討ちに、島津軍はみるみる兵数が減っていきます。
「人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る」 家老の長寿院盛敦が討ち死に。甥の豊久が殿軍となって討ち死に・・・。
島津勢は義弘を逃がすため一人、また一人と道筋に残り、迫ってくる敵軍の指揮者を射撃します。「島津の捨てがまり」と呼ばれる一殺必中の戦法です。 

 島津軍の強さは、家臣との信頼関係がすべてです。義弘の家臣を思う気持ちがあったからこそ、家臣は主人を慕い信頼し、戦場で力を存分に発揮できたものと思います。

 島津家は西軍に与しながら、戦後処理による改易や領地削減などはなく、異例とも呼べるものでした。それは、伏見城の件ととともに、家康を畏怖させた退却戦が決め手となったのかもしれません。九州には豊臣恩顧の大名が名を連ねており、処置によってはそれらが一致団結するとも限りません。