・・・・・・立花宗茂(1567?~1642)
好きな戦国武将は数知れずいますが、九州にも多くいます。そのなかでも、立花宗茂と鍋島直茂の二人は、一・二を争うほど大好きです。と言うことで第三回は、志木沢郁の“立花宗茂”(学研M文庫)です。
父・高橋紹運、養父に立花道雪をもつ、共に他国に知れ渡る名将のもとで武名を磨き、豊臣秀吉に西国無双、九州の逸物と言わしめた男の紹介です。
九州は大友家・龍造寺家・島津家によって微妙な均衡を保っていましたが、島津家によって「肥前の熊」と恐れられていた龍造寺隆信を戦死させたことから、情勢が大きく変わり、大友家も島津家によって圧迫されます。宗茂の籠もる立花城も包囲されますが、秀吉の九州征伐軍の一報によって島津軍が退却。宗茂は、この機を逃さず追撃し、島津軍に打撃を与えます。その功もあって、宗茂は秀吉の直臣に。
ときは文禄元年。天下統一を果たした秀吉の命による朝鮮国出兵が行われます。宗茂は、小早川隆景を大将とする六番隊。日本勢は圧倒的な勢いで進軍するも、各地で反乱軍が蜂起。さらに明国が戦に介入。四万の兵が平壌に姿を見せます。小西行長隊が敗走。これを迎え撃つは、立花隊。場所は漢城の北西、十数キロのところにある細長い峡谷・碧蹄館(ペクチェグァン)。大きな損害を出しながら撃退するも、再び・・・。
先陣は小早川隊。立ち塞がる城壁にも似た明軍の騎馬軍団に突撃するも、圧倒的な軍勢によって徐々に押されます。その最中、宗茂はじっと戦況を見つめて動かない。小早川隊が敗走に近い状態でずるずると・・・。
明の騎馬隊は勇んで突き進んできた。
その様子に、宗茂の家臣たちが
―このままでは負けじゃ・・・・・・。
と肩に力を込めた時、
「時分良きぞ!」叫ぶと同時に宗茂は、
「鉄砲っ」と下知した。
待ちに待っていた立花の鉄砲隊の、一斉射撃であった。
(本文抜粋)
関ヶ原の戦いでは、西軍に与していながら大津城攻めのため、立花勢四千の兵は関ヶ原に間に合いません。歴史に“もしも・・・”はありませんが、宗茂がその場にいたならば、また違う結果になっていたかもしれません。
世に「生一本の勇将」と讃えられる“立花宗茂”という武将に、ますます心惹かれてしまいました。
妻・千代とのやりとりも面白いものがあります。戦場では滅法強い宗茂も、妻の前では連戦連敗。関ヶ原を前にして一応、決着がつきますが・・・。