Learning Tomato (旧「eラーニングかもしれないBlog」)

大学教育を中心に不定期に書いています。

vol.357:ソラニン

2010年04月19日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊
ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)
浅野 いにお
小学館

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皆さんこんにちは、ナカダです。ここのところ、やや硬派な(?)書籍の紹介が続いていましたので、今回は浅野いにおさんの『ソラニン』を取り上げたいと思います。その理由としては、まず4月3日から映画『ソラニン』が封切られたことがあります。もうひとつは最近の私の関心の対象である「若者と職業」というテーマについて、『ソラニン』はなかなか興味深いケースを提供していると考えるからです。より正確に言うと、1980年前後(=『ソラニン』の主人公の生年)に生まれた世代と80年代後半に生まれた、現在20代前半(=『ソラニン』の主人公の年齢)の世代との、職業やキャリアに対する微妙な考え方のギャップを表しているのではないかと思うのです。

『ソラニン』のストーリーは、OL2年目にして「疲弊してくたびれてゆく自分」が嫌になって会社を辞めてしまった芽衣子と、大学卒業後フリーターをしながら、何となく趣味の音楽を続けている種田の二人のカップルを軸に展開していきます。
芽衣子と種田は、大学卒業後に同棲を始めてそろそろ1年が経ちますが、芽衣子が無職となった今、彼らの同棲生活は「貯金残高という時間制限付き」のモラトリアムに他なりません。いつまでもこの生活を続けられないことは2人とも自覚していますが、将来を話題にすることは避けていました。しかし、あるとき友人との会話をきっかけに、芽衣子は真剣に音楽に取り組むよう種田に懇願します。芽衣子に後押しされた種田は、大学時代からのバンド仲間とともに、オリジナル曲「ソラニン」のデモCDを作り、レコード会社に送ります。しかし、そのデモCDが芽衣子と種田の関係に波紋を落として...
というのが物語前半のあらましです。このあと芽衣子と種田にはショッキングな出来事が待ち受けているのですが、ここから先はぜひご一読ください。

こんな芽衣子と種田の悩みについて、私などはついつい20代前半の自分を投影してしまい(バンド活動をしていたわけではありませんが)、深く共感してしまいます。かつて20代前半の私も、芽衣子や種田のように、自分がいつの間にか「何者」かになってしまうことを恐れ、その決定は出来るだけ先送りしたいと考えていました。種田の言葉を借りれば「時間が経つにつれ確実に減っていく選択肢」を、出来るだけ減らしたくないと思っていたのです。
もちろん私個人のケースが、私の世代(=1980年前後生まれ)の傾向として一般化できるわけではありませんが、『ソラニン』で描かれる芽衣子や種田の悩みは、ある程度共有できるのではないかと思います。

一方で、現在の20代前半の若者にとっては、芽衣子や種田の悩みはどこか違和感があるのではないかとも思います。これは全く私の印象論に過ぎませんが、就職活動で100社以上もエントリーするような行動からは、自分が「何者」かになってしまうことよりも、自分が「何者」にもなれないことを恐れているように思います。言い換えれば、選択肢がなくなってしまう前に、どれか一つでも確実に選び取りたいという傾向を感じるのです。

以上、私の勝手な世代論を述べました。しかし『ソラニン』において、世代にかかわらず共感できる(共感してほしい)と思う要素が一つあります。それは「仲間」というものの心強さです。
物語中盤において、あるショッキングな出来事を経験した芽衣子は、自分の心に大きな喪失感を抱え、なかなか立ち直ることができません。しかし壊れそうな彼女を、大学時代から続く種田のバンド仲間が支えます。彼ら自身もその出来事により、心に傷を負っていますが、それでもお互いを思いやり、芽衣子たちは少しずつ前に進んでいきます。この喪失からの回復が、物語後半の大きなテーマとなっています。

キャリアや職業について考えようとすると、どうも自分の適性は何か、自分のやりたいことは何か、といった自分探しに偏りがちですが、そうした自分探しだけでは、おそらく遅かれ早かれ行き詰まってしまうことでしょう。どのようなキャリアを歩むことになっても、変わらず自分を支え続けてくれる、あるいは自分も支えつづけたいと思える仲間の存在は、自らのキャリアを構築していくことと同じくらい重要なことだと思います。

文科省が推進するキャリア教育は、「激しい社会の変化に対応し、主体的に自己の進路を選択・決定できる能力やしっかりとした勤労観、職業観を身に付け、それぞれが直面するであろう様々な課題に柔軟にかつたくましく対応し、社会人・職業人として自立していくこと」に目的を置いています(文科省HPより引用

この目的自体を否定するわけではありませんが、上記の記述からは、いついかなるときも自己のリソースで「様々な課題に柔軟にかつたくましく対応」していくこと、そのために普段から自己のリソースを増大させていくことが要求されているように思えてなりません。
課題に対応するための自己のリソースを増やしていくことは確かに大切ですが、「それだけ」というのはかなりしんどいことのように思われます。願わくはキャリア教育においても「周囲のリソースを有効に活用する」という視点を入れてほしいと考えています。(少なくとも私は、周囲の人がリソースを分けてくれたからこそ、何とか今までやってこられました。)

最後は『ソラニン』から遠く離れてしまいましたが、実は私はまだ映画『ソラニン』を観ていません...今週末にでも行こうかな。。
(文責 ナカダ)

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