わたしの山日記 **山川陽一の環境レポート**

あの山あの峪、かつての美しい自然がすっかり変わってしまったのを見る度に胸が痛む。何とかしければいけないと思う。

N2.中央の論理・地方の感情

2007-11-20 14:17:43 | Weblog


「地方の時代へ」と言われて久しい。近年のコンピュータと通信の発達が距離のハンデをリセットして、いよいよ地方の時代到来かと思われたのだが、思惑とは裏腹に、ますます東京へ一極集中が止まらない。遷都だとか、道州制の導入だとか、地方強化の方策がいろいろ検討されているが、いまいち、誰もそれが近未来に現実のものになると思っていない。これだけ東京が肥大化して、日本の総人口の一割がここに住居し、政治、経済、文化のすべての機能が集中して、内外の交通網も放射線状に東京に集まっている現実をみると、この形は簡単には崩しようがないと思えてくる。地方都市も、過去、どこもかしこもミニ東京を目指して個性の主張をないがしろにしてきたことが、結果として東京の肥大化を増幅させる方向に働いてきたのは否めないだろう。
 ところで、地方という言葉についてだが、本来は中央に対しての対語としてあるのであって、東京に対する対語ではないはずだ。行政区分的には東京も他の地方と同列の都道府県のひとつ、つまり地方のうちのひとつなのだ。たまたま皇居が東京にあって国政を司る中央政府機能が物理的に東京に置かれているに過ぎないのだが、国政だけでなくほとんど他の機能についても東京に集中してしまった結果、中央=東京の意識が国民の中で定着してしまった。
 実際に、政治だけでなく経済や文化などに関わる諸団体の多くが東京に本部機構を置いている。ただ、すべての本部が、名実ともに中央と呼ぶにふさわしい役割を果たしているかとなると別問題である。実際には、地方に優れた人材がいるにも拘らず、東京在住者によって本部機構のメンバーが占められているケースもしばしばで、それは、地方の人たちにとって、まったくやりきれないことであろう。

 前置きが長くなったが、先日、縁あってある山の集まりから声をかけられて、乗鞍高原まででかけた。この会合は、隣接する山国同士である甲州と信州の山好きの仲間が不定期に集まって、その時々の山岳環境や文化を語り合うインフォーマルな集まりである。メンバーは、作家、新聞記者、評論家、山小屋のオーナー、博物館の館長、ペンション経営者、山の会の会長等など、多彩で、かつ、インテリジェントが高い人たちである。そんな中に環境省の地方事務所の所長さんと私が当日のゲストとして仲間に入れてもらった。入浴後、飲みながら食べながら始まった懇談は、お酒が進むに従って口は滑らかになっても誰も乱れることなく、各自が持ち寄った問題を題材に延々午前2時までマジメ議論が続いた情熱には脱帽であった。
当日の場所が乗鞍高原だったので、話題も自ずと、近年の登山客スキー客の減少とそれに拍車をかける形で実施された乗鞍岳の乗用車乗り入れ規制問題が中心になった。話の内容をかいつまむと以下のようなことであった。
「2003年夏、乗鞍岳の環境を守る試みとして岐阜県側で始まった乗用車の乗り入れ規制に同調する形で、翌年から、田中(前)知事の主導で長野県側でも乗用車規制が実施されたのだが、それは乗用車での山越えが前提で成り立ってきた乗鞍高原の各施設のオーナーにとっては大きな打撃だった。乗鞍高原というリゾート基地を持つ長野県側は、そんなものがない岐阜県側とは事情がまったく異なるにも拘らず、知事の専行で岐阜県に続けと決定に至った内容は、地元の実情を無視したデシジョンメーキングであった。近年のスキー客、登山客の減少は一時的なものでなく根源的なもので、バブル期に競って収容能力を増やしてきた乗鞍高原にとっては、すでに大きな問題を抱えていた。追い討ちをかけるようにおこなわれた乗用車の乗り入れ規制は、まさにダブルパンチで、そのダメージは非常に大きなものであった。生活がかかっている地元当事者の苦悩の大きさ、こんな実情の中でも環境問題を前向きに受け止めて取組んでいくことの重要さと難しさ、等など...。」

 この夜の私はひたすら聞き役に終始したのであるが、私がこの集まりに呼ばれたのも、「中央でモノを考えるときは、キレイゴトだけではすまないこんな地元の実態や地元民の感情をわかったうえで考えないとダメだよ」と警鐘を鳴らされたのではないかと思っている。
ただ、ひとくちに地方とか地元と言っても、いろいろな側面があって一筋縄ではいかない。短絡するとケガをする。同一県内でも、昔の行政区分による気質の違いや対立が根強く残っていたり、県外からの移住者との軋轢があったりと事情は多様である。
 いずれにしても、中央にいて問題をとりあげるとき、現地の実態をよく知ったうえで判断することが最も重要で、観念論や一面的知識で行動することだけは厳に慎まなければならないということだろう。
 一方、内情を知れば知るほど何もできなくなるというジレンマがある。情に流されず、それを乗り越えて行動の人でなければならないのも、環境問題に取り組む人間の宿命である。
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