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わたしの山日記 **山川陽一の環境レポート**

あの山あの峪、かつての美しい自然がすっかり変わってしまったのを見る度に胸が痛む。何とかしければいけないと思う。

17.万波川の思い出

2006-04-21 07:35:53 | Weblog
山釣りの季節がやってきた。輝く陽の光をいっぱい浴びながら辿る春の渓は生命に満ち溢れている。木々の新緑が天を覆うってしまうまでのつかの間、陽光を求めて、ニリンソウ、カタクリ、サクラソウなどの春の妖精たちが谷間の林床を彩る。残雪の際には山ウドやフキノトウ。ショウジョウバカマも咲き始めた。岩陰からそっと差し出す棹の穂先に、今年も愛しい彼女に逢えますようにと願いを込めてジッと魚信を待つ気持は、釣り人のみが知る不安と喜びである。この数年、何かと多忙で精神的余裕がないまま好きな渓流から足が遠のいているが、今年こそはゆとりの時間を作り出して思い出の渓を訪ねてみたいと思っている。

今は残念ながら取水ダムが出来て川の様相がすっかり変わってしまったが、釣り友達のOさんと足繁く通った奥飛騨の万波川には、楽しい思い出がいっぱい詰まっている。
神通川は飛騨の古川、河合村、宮川村を経て途中北アルプスを源流とする高原川と合流して富山湾に注いでいる。その神通川沿いの山奥に宮川村の打保(うつぼ)というがある。ここには、飛騨高山から富山に至るJR高山本線と平行した国道が通っている。今は、拡幅された快適な舗装道路に変わっているが、最初に訪れたときは国道とは名ばかりの車両の交錯も難しい道で、ここまで行くのにも大変だった。この打保から北西に急坂の林道を峠ひとつ越えたところが万波高原で、この高原を万波川が悠然と流れていた。万波川の対岸の白木峰の向こう側はもう富山県である。ここには明治の中ごろ開拓民が入植したが、あまりの自然の厳しさに50年を経て廃村になったのだという。僕たちが釣りに入った頃は開拓民の畑のあとは熊笹の原に変わり、以前ここに村落があったなどとは言われて見なければ想像できない状態で、下流は鬱蒼たる樹林の中であった。僕たちふたりは毎年この河岸にテントを張って数日の釣りを楽しんでいた。いろいろなことがあったが、大物がかかってふたりがかりで引き揚げたこと、山陰にミズバショウの湿地を見つけて喜んだこと、季節外れの雪に見舞われたこと、支沢の源流で山ウドを沢山収穫したこと、2人で岩魚と山菜で天ぷらをして食べたことなど、いい思い出がいっぱいある。そのあと、関西電力がこの川の水を取水して発電することが決まり、その工事中の数年間峠越えの道路は一般車両の通行が禁止になった。僕たちは我慢できなくなり、3年目に打保のに車を置き歩いて峠を越えて入山したのであるが、そのときは2人とも本当にびっくりするほどの釣果であった。釣り人が1、2年入らないだけで魚はこんなに増えるのかと実感したのだった。釣った岩魚をビニール袋に入れて川の流れの中に石で囲んで重石を施し、翌朝引き上げに行ったら、Oさんの袋に小さな穴があけられ中はもぬけの殻だった。多分鼬(いたち)にやられたのだという結論になった。
取水ダムが完成したあとは、いつも車の腹をこすりながらやっと越えた林道は、すっかり舗装され入山は容易になったが、そこに待っていたのは水量が細って死んだ川と、刈払われた熊笹の原に作られた大根畑だった。僕たちがこの高原を訪れなくなってもう10年近くになるが、今はどうなっているだろうか。インターネットを検索しても、釣果の情報はなく、高原大根の情報があるだけである。
コメント
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