わたしの山日記 **山川陽一の環境レポート**

あの山あの峪、かつての美しい自然がすっかり変わってしまったのを見る度に胸が痛む。何とかしければいけないと思う。

N5.カムチャツカにて

2007-11-20 14:23:39 | Weblog



 小さな日本に閉じこもっていると、発想も小さくなってしまう気がする。本当は、地球規模の大きな観点で考えなければならない問題なのに、身の回りの小さな事象だけに目が向いてしまう。時に、海外に飛び出して、その中に身をおいて、そこから日本を見つめ、地球環境全体に思いを馳せることが必要である。

その昔、2万年前の最終氷河期、陸地に蓄えられた水分によって海面は現在よりはるかに低かった時代、日本列島はユーラシア大陸から延びる大きな半島の一部であったと言われる。当然、当事のカムチャツカ半島は、千島列島を経て北海道と陸続きであったはずである。
 総面積約47万平方キロ、カムチャツカ半島は日本の1.3倍の広大な陸地の中に、わずかに33万人の人が定住している。つい数年前までは44万人で、1キロ㎡に約1人といわれていたが、近年のロシア経済の立ち直りと共に内陸への移住が続いて、今の人口になった。そのうちの1万人がコリヤーク人、イテリメン人などの原住民族で、あとはロシアからの移住者で占められる。地図を開くと、半島の中央を南北に背骨のように中央山脈が貫き、東側に東部山脈が横たわって、ふたつの山脈の間を一本の国道が走っている。街中を除けば、この広大な大地にこれ以外に舗装された道路はない。だから、山を登りに行くにも、釣りに行くにも、花を見に行くにも、まずは交通手段を考える必要がある。わずかに開拓された林道や水の枯れた川原を道にしてそこを全輪駆動車で走破するか、ボートで川を遡るか、ヘリコプターでピンポイントに目的地に降り立つか、ということになる。
散在する火山群は、最高峰のクリュチェフスカヤ山(4750メートル)を筆頭に160座を数える。州都ペトロパブロススクの空港に降り立つと、眼前に、大小いくつもの富士山を連ねたような火山群がわれわれを出迎えてくれる。少し車を走らせると、槍ヶ岳あり、穂高岳あり、氷河をいただいた涸沢のカールあり、そして北海道のたおやかな山並みありという感じで、山の姿にまるで日本にいるような親近感を覚える。そんな山々から続く森と草原、そこから血管のように派出する無数の川。海と川を行き来する大型魚、森と草原に生きる動物たち。
気候は夏季3ヶ月を除くと雪に閉ざされる寒冷の世界である。見渡す限りの緑の海は、ハンノキ、ヤナギ、カンバ類が主体の森と草原で、植生は単純である。その間を悠然と川が蛇行して流れる。短い夏の間に、すべての植物は大急ぎで葉を茂らせ、花を咲かせ、実をつける。日本でいう高山植物が平地からあるのもカムチャツカで、それこそいたるところに、日本では、山地や高山帯でしか見ることが出来ない高山植物が咲き乱れる。ヤナギラン、クルマユリ、ヒオウギアヤメ、ガンコウラン、コケモモ、ゴゼンタチバナ、エゾツツジ、ミヤマキンバイ、クモマグサ、チョウノスケソウ等など、大半が日本名を持ったもので、カムチャツカの固有種はごくわずかである。このことからも、かつてこの地が日本と陸続きであったことが証明される。日本の山の高山植物が氷河時代の遺物と言われる所以でもある。絶滅危惧種として問題になっているアツモリソウなども大群落を作っている。日本では、花の踏みつけや盗掘が大きな問題であるが、この地の野山を歩いていると、あまりの豊富さに、盗掘などという邪気は起きようがない。写真を撮るため少しばかりトレールを踏み外しても、誰も気に留めない。
トイレも、特定のキャンプ地以外はまったくないから、野生動物のしきたりに従って、青空の下で用を済ます。それもごく自然の行為で誰も問題にしないし、実際のところ問題でもない。問題があるとすれば、一歩藪に踏み込んだとたんに猛烈な蚊の集団に襲いかかられることだろうか。一緒に行った女性たちは一様に丸出しのお尻を刺された。ボクもオシッコの最中に、尖端にとまられて、たたくことも振り払うことも、引っ込めることも出来ないで、往生した。
 まあ、それだけ自然が豊かだという証明だろう。日本の経験でも、白神山地の奥地のキャンプで、蚊の大軍に襲われて一睡もできない夜があった。
植物は、樹木も草花も、大半が、気候のせいで矮小化しているが、哺乳動物や魚たちは一様に大型化している。それは多分、広大な自然の中で十分な餌にありつけることと、人間による乱獲がないことなのだろう。ヒグマは、北海道のものより一回り大きく成獣で3メートルを超えるし、サケやマス、イワナ、イトウたちも一様に巨大である。
 この自然の豊かさの原因は一体何なのか。その根底に気候の厳しさと人口の少なさがあるが、もっと根源的には、カムチャツカの90%が国による自然保護区に指定されていることに行き着く。ロシアの重要な資源である金銀の採掘と漁業を除いては、基本的に自然に手をつけることは許されない。狩猟も魚釣りもすべてライセンスが必要で、一定のルールに基づいて行われている。
 一緒に行ったメンバーの中に、いまやロシアは金持ち国家になったのだからスグにでも道を舗装してほしいと訴えているひとがいたが、そのような人は別のところに行ってもらえばいい。日本の経験で言えば、立派な自動車道路が出来たとたんに、観光施設が整備され、観光客が激増して、自然が一気に喪失する。すべての自然破壊は、一本の舗装された自動車道の建設から始まる。
 
見渡す限り、地平線の彼方まで、一片の人造物も見当たらない緑の森と草原、その中をおもむくままに悠然と流れる川、頂上に続く一筋の踏み跡が道しるべであり登山道でもある山岳。そんな中を、過去から今日、そして未来へ、時が流れ、世代交代を繰り返している植物や動物たち。次世代に引き継がれるべき原生の自然の姿をこの地に見た。
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N4.何かがおかしい

2007-11-20 14:22:18 | Weblog
世の中が様変わりである。誰もが、いまや、環境問題に背を向けて世渡りが出来なくなった。そういう意味では、自然保護活動に携わるわれわれにとって、やりやすい世の中になった。日本山岳会が「世界一高い山に登りにいくのでご寄付をいただきたい」と申し出ても誰も支援してくれないが、「私は世界と日本の一番高い山でゴミ拾いに取り組んでいます」と言えば、こぞってお金を出してくれる企業や財団がでてくる時代になった。
 IPPCの温暖化の進展が人類の破滅につながると予言するショッキングな第四次レポートに対しても、正面からの反論は影を潜め、素直な反応しか聞こえてこない。いまや、地球温暖化が人類の最大課題であるという認識に異論を唱える人はいない。
企業は、こぞって省資源と二酸化炭素の削減に取り組み、株式市場も環境関連銘柄に敏感に反応する時代なった。わが政府も、ポスト京都議定書で国際的なイニシアティブを取るべく、2050年までに温暖化ガス半減のアドバルーンを掲げて国際舞台に華々しく打って出ている。
 
 こんなに官も民も熱心に環境問題に取り組んでいるからには、それなりの結果がついてきているのかといえば、決してそうではない。個々ではいろいろな成果報告があるが、国トータルでの悪化のトレンドは変りそうになく、その見通しもまったくたたない。
何かがおかしい!

 一言で言えば、政府も、企業も、個人も、また、世界の人たちも、まだまだ本気モードでない、ということなのだろう。
首相も、自分たちが生きている間に結果が出ない数十年先のことについては、国際舞台でカッコよく振舞うことができるが、足元に火がついている京都議定書の約束を如何守るかの具体策については、決して表舞台で口を開こうとしない。もし表舞台で議論し、本気で約束を守るための行動を起こそうとすれば、自ら掲げている成長路線に自己矛盾をきたすからなのだろう。歯止めのない経済成長戦略の中で、目標どおりに二酸化炭素を削減できるならこれほどすばらしいことはない。しかし、「実現可能な具体的な道筋は何か?」そう問われたとき、果たして返す言葉を持ち合わせているだろうか。それは、山登りに例えれば、屏風のように立ちはだかる厳しい前衛峰を越えなければ、はるか彼方にそびえる高峰にたどり着くことは出来ないことがわかっているのに、前衛峰を超える算段はそっちのけで、「さあみんなであの高峰に登ろう!」とアドバルーンを揚げているようなものである。
 個人にしたところで、大多数の人は、今の生活レベルを下げまで環境にやさしい生活をしようとしているわけではない。理屈はわかっていても、一旦手に入れた快適な生活は簡単には手放せないというのが本音である。終戦直後のつつましやかな生活を考えれば、1990年の生活に逆戻りする程度はなんでもないことであっても、人々はそうは決して考えない。
政治家には、人心とはそんなものだという大前提があるから、選挙を意識すれば、与党だけでなく民主党も共産党も、一様に、国民に媚びる政策は掲げるが、マイナスポイントになりそうなことは口が裂けても言わない。

 しかし、しかし、本当にこんなことでいいのだろうか。自らの巨大さ故に滅びの道を歩んだマンモスにならないためにも、価値観の大転換を図らないといけないと考えるのは間違いだろうか。
・成長神話に終焉を告げること
 ・先進国のエゴを許さず、途上国の論理を封じ込める指導力を発揮すること
 ・世界人口の増加に歯止めをかけること
 早く、早く、一歩を踏み出さないと手遅れになる。環境問題の取り組みを、理念と信念を持って実行しようと考えるスケールの大きな政治家が出現したとき、国民は、媚びる政治家よりもはるかに高い評価をもって彼を迎えるに違いない。

 朝のテレビは、今日も気温が37度を超える猛暑日になることを告げている。じっとしていても汗がにじみ出てくる。頭に血が上り、書くことがますます過激になる。「少し頭を冷やさないと...」そんな言い訳を考えながら、今日もクーラーのスイッチを入れた。

(追録)
 こんな文章をしたためたまま寝かせて置くうちに、数ヶ月が過ぎ、今年も木枯らし一号の声を聞く季節となった。参議院選挙での自民党の惨敗と安部首相の突然の辞任、そして福田政権の誕生。ゴアさんとIPPCが地球温暖化の問題でノーベル賞を受賞。民主党の小澤党首の突然の辞意表明と撤回。まさに時流は激変。その間にも、新聞やテレビで地球温暖化問題が報道されない日はない。それだけ人類の存亡にかかわる重大な問題にも拘らず、わが国会でこの問題がまともに議論のテーブルに乗ったという話は、依然として皆無である。国会議員という人種は、よほど鈍感なのか、皆さん君子過ぎて、政争の具にならないような超党派的大問題には近づこうとしないのか。悲しいことである。
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N3.世界遺産の価値

2007-11-20 14:20:03 | Weblog

 富士山は良い意味でも悪い意味でも日本の象徴である。 日本人の心に宿る美しい山。日本人なら一生に一度は登ってみたいと思い、日本を訪れる外国人の憧れの山でもある。
 他方、富士山は、昔から「一度登らぬ馬鹿二度登る馬鹿」などと揶揄され、近年では「第二の富士山にしないように」などと言われて環境破壊の代名詞として引き合いに出されるのも、否定できない事実だろう。
 わたしも、会社の現役時代、外国のお客さんから富士山に連れて行ってほしいと頼まれることがあり、さてどうしたものかと悩んだものである。あの夏山シーズンの行列登山の喧騒、まるで城壁を張り巡らせたような登山道、スシ詰めの山小屋、ゴミとトイレの問題などを考えると、日本の恥部をさらけ出すようで、はなはだもって気が進まないのであった。そんな富士山を世界自然遺産にという話が出てきたときは、正直なところびっくりもし、本気なのかと思った。さすがに、選考からもれる結果となったが、それは当然といえば当然の帰結である。そして今、地元を中心に自然遺産がダメなら文化遺産にという運動が繰り広げられているが、果たしてどうなることだろう。
世界遺産というのは、ユネスコの世界遺産条約に基づいて人類が共有すべき「顕著な不変的価値」と認められるものについて登録されるものである。そして、世界遺産として認定された場合、その価値を失わないよう保全していく義務を負う。
一方、認定されれば結果として大きな観光価値を生むことから、純粋に子孫に価値を残したいと願う行為というよりも、多くの場合、観光価値に着目して登録を画策する意図が見え隠れする。あの白神山地や屋久島、そして知床。どれもが世界遺産に登録されたとたんに一気に人気が沸騰して、観光客がどっと押し寄せることとなった。こんな状況を見れば、地域振興の切り札として世界遺産登録をもくろむ気持ちは解からぬでもないが、それが本来の趣旨でないことは言うまでもない。富士山についても、これを機に、今までの無定見な集客目当ての開発行為と決別して、官民一体になって「顕著な普遍的価値」にふさわしい実態を確立する努力がなされるなら、それはそれとして、大きな意味がある。

白神山地などは、世界遺産に選ばれるまでは、一部の山岳愛好者、釣りマニアを除いては、この山で生計を立ててきた地元の人以外ほとんど知る人もいない場所であった。そんな場所が世界遺産として登録され、一躍脚光を浴びることによって、周囲の道路は整備され、観光客目当ての施設がつぎつぎ作られて、観光バスを仕立てたツアー客が引きもきらない状態が現出した。確かに、世界遺産として線引きされた中核部分のブナ林はしっかりと保全されることになったが、周辺部については、国や地方自治体が旗を振って野放しの観光開発行為がおこなわれるということでは、なんとも節操がない。観光客目当ての箱物作りや、今はやりの体験エコツアーなど、誰でもどこでも考えつく振興策はほどほどにして、かつてブナ林を伐採してスギの稙林地にしてしまった場所の数分の一でも元のブナ林に戻すプランを官民が共同で提案したらどうだろう。日本山岳会が赤石川源流域でおこなっているようなブナ林再生事業が大々的におこなわれれば、それこそ白神の世界遺産の価値を何倍にも高めることになるだろう。白神山地全体の面積は130,000haであり、そのうち原生のブナ林が残っているとして世界遺産登録されている部分はわずか17,000haだから、仮に指定されなかった部分の六分の一を再生対象地域にしたとしても19,000ha。現在の世界遺産地域より広大なブナ林が再生できることになる。

屋久島も状況は大同小異である。江戸時代から続いたスギの伐採は、戦後の材木需要の盛り上がりとともにピークを迎えた。屋久島の大半は国有林である。霧島屋久国立公園の指定に際しても、国はヤクスギの宝庫である谷筋は除外して、スギの木の育たない尾根筋を中心に指定の対象にしたといわれている。大型チェーンソーの威力は抜群である。手斧の時代であれば一日がかりの大径木の伐倒も、今や30分。屋久島の天然スギは樹齢千年を超えてはじめてヤクスギと呼ばれるのであるが、そんなヤクスギも瞬く間に切りつくされていった。世界遺産に指定された頃には、林野庁も島全体の天然スギの伐採禁止措置をとったが、そのときは、一握りの場所を除いてはもう切る木がなくなってしまっていたといっていい。そんな屋久島であるが、島全体が急峻な花崗岩の山岳地帯から成り立っており、九州一の高峰宮之浦岳を頂点に織り成す特異な地形と豊富な雨量がもたらす気候が育んだ大自然の魅力は、人々を魅了してやまない。世界遺産指定後の島の主産業は観光になった。押し寄せる観光客目当てに周辺部の開発は進む。放置すれば周囲わずか130キロメートルの小さな島は、たちまち食い荒らされ、早晩、日本中どこにでもあるありきたりの観光地と化してしまうこと必定である。救いは、屋久島の森林の大半が国有林だということである。適正な管理下におけば森は必ず再生する。このまま、自然を台無しにするお決まりの観光地化の道を歩むのか、数百年先を視野に入れ、明確なコンセプトの下に保護と利用のバランスを取りながら、世界遺産の価値をより高める形の新しい観光地のあり方を模索していくのか、いまが正念場である。

世界遺産は「掃きだめの鶴」であってはならない。白神山地や屋久島を歩いて感じることは、世界遺産として指定された部分と、世界遺産を取り巻く周辺部との落差の大きさである。もう一度、周辺部のあり方について厳しく問い直してみる必要があろう。新しく指定された日本で三番目の自然遺産知床では、ぜひとも、周辺部と一体になった世界遺産のあり方を実現してほしいものである。
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N2.中央の論理・地方の感情

2007-11-20 14:17:43 | Weblog


「地方の時代へ」と言われて久しい。近年のコンピュータと通信の発達が距離のハンデをリセットして、いよいよ地方の時代到来かと思われたのだが、思惑とは裏腹に、ますます東京へ一極集中が止まらない。遷都だとか、道州制の導入だとか、地方強化の方策がいろいろ検討されているが、いまいち、誰もそれが近未来に現実のものになると思っていない。これだけ東京が肥大化して、日本の総人口の一割がここに住居し、政治、経済、文化のすべての機能が集中して、内外の交通網も放射線状に東京に集まっている現実をみると、この形は簡単には崩しようがないと思えてくる。地方都市も、過去、どこもかしこもミニ東京を目指して個性の主張をないがしろにしてきたことが、結果として東京の肥大化を増幅させる方向に働いてきたのは否めないだろう。
 ところで、地方という言葉についてだが、本来は中央に対しての対語としてあるのであって、東京に対する対語ではないはずだ。行政区分的には東京も他の地方と同列の都道府県のひとつ、つまり地方のうちのひとつなのだ。たまたま皇居が東京にあって国政を司る中央政府機能が物理的に東京に置かれているに過ぎないのだが、国政だけでなくほとんど他の機能についても東京に集中してしまった結果、中央=東京の意識が国民の中で定着してしまった。
 実際に、政治だけでなく経済や文化などに関わる諸団体の多くが東京に本部機構を置いている。ただ、すべての本部が、名実ともに中央と呼ぶにふさわしい役割を果たしているかとなると別問題である。実際には、地方に優れた人材がいるにも拘らず、東京在住者によって本部機構のメンバーが占められているケースもしばしばで、それは、地方の人たちにとって、まったくやりきれないことであろう。

 前置きが長くなったが、先日、縁あってある山の集まりから声をかけられて、乗鞍高原まででかけた。この会合は、隣接する山国同士である甲州と信州の山好きの仲間が不定期に集まって、その時々の山岳環境や文化を語り合うインフォーマルな集まりである。メンバーは、作家、新聞記者、評論家、山小屋のオーナー、博物館の館長、ペンション経営者、山の会の会長等など、多彩で、かつ、インテリジェントが高い人たちである。そんな中に環境省の地方事務所の所長さんと私が当日のゲストとして仲間に入れてもらった。入浴後、飲みながら食べながら始まった懇談は、お酒が進むに従って口は滑らかになっても誰も乱れることなく、各自が持ち寄った問題を題材に延々午前2時までマジメ議論が続いた情熱には脱帽であった。
当日の場所が乗鞍高原だったので、話題も自ずと、近年の登山客スキー客の減少とそれに拍車をかける形で実施された乗鞍岳の乗用車乗り入れ規制問題が中心になった。話の内容をかいつまむと以下のようなことであった。
「2003年夏、乗鞍岳の環境を守る試みとして岐阜県側で始まった乗用車の乗り入れ規制に同調する形で、翌年から、田中(前)知事の主導で長野県側でも乗用車規制が実施されたのだが、それは乗用車での山越えが前提で成り立ってきた乗鞍高原の各施設のオーナーにとっては大きな打撃だった。乗鞍高原というリゾート基地を持つ長野県側は、そんなものがない岐阜県側とは事情がまったく異なるにも拘らず、知事の専行で岐阜県に続けと決定に至った内容は、地元の実情を無視したデシジョンメーキングであった。近年のスキー客、登山客の減少は一時的なものでなく根源的なもので、バブル期に競って収容能力を増やしてきた乗鞍高原にとっては、すでに大きな問題を抱えていた。追い討ちをかけるようにおこなわれた乗用車の乗り入れ規制は、まさにダブルパンチで、そのダメージは非常に大きなものであった。生活がかかっている地元当事者の苦悩の大きさ、こんな実情の中でも環境問題を前向きに受け止めて取組んでいくことの重要さと難しさ、等など...。」

 この夜の私はひたすら聞き役に終始したのであるが、私がこの集まりに呼ばれたのも、「中央でモノを考えるときは、キレイゴトだけではすまないこんな地元の実態や地元民の感情をわかったうえで考えないとダメだよ」と警鐘を鳴らされたのではないかと思っている。
ただ、ひとくちに地方とか地元と言っても、いろいろな側面があって一筋縄ではいかない。短絡するとケガをする。同一県内でも、昔の行政区分による気質の違いや対立が根強く残っていたり、県外からの移住者との軋轢があったりと事情は多様である。
 いずれにしても、中央にいて問題をとりあげるとき、現地の実態をよく知ったうえで判断することが最も重要で、観念論や一面的知識で行動することだけは厳に慎まなければならないということだろう。
 一方、内情を知れば知るほど何もできなくなるというジレンマがある。情に流されず、それを乗り越えて行動の人でなければならないのも、環境問題に取り組む人間の宿命である。
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N1.映画「不都合な真実」が教えるもの

2007-04-16 13:50:35 | Weblog
2000年、アメリカ国民は誤った選択をした。なぜブッシュだったのか。
ゴアが地球温暖化問題を意識し始めたのは1960年代後半のことだった。多分漠然とであるが、僕が地球環境の問題に興味を抱き始めたのもその頃であったと思う。以来40年、彼も僕も、日々環境破壊に拍車がかかる地球の現状を目の当たりにしながら、危機感を深めて行った。以前、僕はブログの中で「44.実感する地球温暖化」と「45.高度文明の行き着く先」の二文を書いた。このふたつの文章を書いたとき、僕は「不都合な真実」なる映画の存在を知らなかったし、実は、ゴアがそれほどの深い知識を持った地球環境問題の伝道者であることも知らなかった。ゴアについて知っていたことはといえば、2000年の大統領選挙で大激戦の末ブッシュに敗れたことと、そのとき彼がアメリカの副大統領だったことぐらいである。
そんな自分がこの映画を観て、地球環境の問題ついて、彼と僕が一致した基本認識をもったふたりであることを知ることができたのはうれしいことであった。彼は元アメリカの副大統領で、片や僕は単なる日本の一市民に過ぎない。地球温暖化の問題に対する知識の深さや啓発活動においても、比較の対象にならない落差がある。それなのに、たどり着いた結論が同じだということを考えてみると、この問題は、まじめに考えれば誰もが同じ結論に至らざる得ない普遍的真実なのだ、と言っていいのだと思う。
安部政権が誕生したとき、僕は、戦後生まれのこの若きリーダーに大きな期待感を抱いた。彼は「美しい国へ」という自著を著して国民に政治信条を語りかけている。僕はこの本を読みもしないで、「美しい国へ」という以上、当然その概念の中には、美しい国土と地球環境の問題は中心的に掲げられているものと短絡してしまっていた。
いま、日本は、京都議定書で国際的に約束した二酸化炭素の排出量削減(2008年-2012年の平均値で1990年基準8%減)の期日が来年に迫っている。しかし、現実は、今日現在6%増という悲劇的数字になっている。そんな状況に追いつめられながら、首相の口からも環境大臣の口からも、この問題について直接国民に対して何も語りかけようとしない日本政府をみて、僕は、はじめて、書店に足を運んでこの本を購入したのだった。環境問題に対する首相の考えを知りたかったからである。しかし、書中で唯一語られている環境問題は、「経済発展の中で環境汚染に悩む中国に日本の優れた省エネ技術や環境ノーハウを提供したい」という数行だけであった。僕は、経済問題の一環でしか地球環境の問題を取り上げられない一国の首相の意識に大きな失望を禁じえなかった。
ブッシュ政権のアメリカが、国際的に突出したエネルギー消費国でありながら、京都議定書に加わることもせず地球温暖化問題に背を向け続けているのと、京都議定書にサインしておきながら、そのオブリゲーションに正対しようとしない日本の政府と、どれほどの違いがあるというのだろう。
そもそも地球温暖化の問題というのは、基本的に経済成長と相反の性格を持っている。経済成長最優先の政策を掲げながら、同時に二酸化炭素の排出量も劇的に削減しようとすること自体、二律背反である。すべてが現状延長形の生活を許容するのではなく、国民にも相応の我慢を強いる覚悟が必要だし、経済成長最優先の価値観を捨てて子孫に価値を残す新しい価値観の確立が必要である。もうひとつは、この問題は一国の中だけで片付く問題ではなく、地球規模で考えないと意味がない。それは、発展途上国の経済成長や人口の増加と深いかかわりを持つ。放置すれば65億人の人口が2050年には90億人に膨れ上がってしまい、少しばかりの二酸化炭素の削減努力では焼け石に水だ。

僕は映画を観ながらそんなことを考え続けていた。平日の昼間の時間帯だったこともあるが、入場者数が自分たちを含めて10数名だったのは寂しい限りだった。国民みんなに観てもらい、誰よりも首相と環境大臣に観てもらいたいと思ったのだった。

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最終回 ご愛読ありがとうございました

2006-12-29 07:45:37 | Weblog
日本は、四囲を青い海に囲まれ、内陸の70%が緑の山や森に覆われています。そんな恵まれた自然環境の中に生まれ育ってきたわたしたち日本人が、なぜ自分たちの大事な財産を粗末にしてしまうのでしょうか。長年山歩きをしてきて、あの美しい山や峪が次々に壊されていく現実を目の当たりにしながら、今まで外部に向けて積極的に発言してこなかった自分が情けなかった。遅まきながら小さな一石を投じよう、小さな一石が波紋を広げて世の中を変えるきっかけになるかもしれない、自省から出発したそんな思いが私を突き動かしました。
そのためには、まずは私の頭の中で雑然と存在している問題意識やそれにかかわる諸々の事項を、分類し、筋道を立てて組み立てなおす作業が必要でした。加えて、それを人々に伝達する手段を手に入れる必要がありました。ブログは、私のこんなニーズを満たしてくれる手軽で最適の媒体になりました。
最初は、果たしてどこまで続くか不安でしたが、途中パソコンが壊れて一休みした時期を除いて、この一年間、毎週一回のペースで発信し続けることが出来たのは、われながら上出来です。
自分は物書きが業ではないので、伝えたいことがなくなったらいつでも止められる、そんな軽い気持ちではじめたのです。書き続けているうちに、毎回読んでくれている固定的な読者がいることがわかってきて、勝手に休んだり、発行のペースを崩したりできない気持ちに追い込まれたのは想定外でした。しかし、そのプレッシャが怠け者の私の背中を押し続けてくれました。自己満足に過ぎませんが、今は、一年がたち、鬱積していた自分の想いを全部吐き出すことができたという爽快感があります。同時に、公言した以上、自らも少しは形に残る活動をしていかなければならないという新たな重圧を感じ始めているこの頃です。
まあ、そんなわけで、今回をもってひとまず筆を置きたいと思います。多くの方々のご愛読に心から感謝申し上げます。

さて、せっかく開設したブログです。「わたしの山日記」というタイトルも気に入っているので、このままクローズするのはもったいない気持ちがあります。すこし準備期間をもらって、PartⅡを始められたらいいな、などと思っています。PartⅠでは、自分の胸の中にある問題意識を、ひたすら文字情報に置き換えることに全力投球しました。PARTⅡでは、写真を中心に据え、自然の輝きや地球からのメッセージを、視覚を通して伝えることが出来たらすばらしいと思います。しかし、時には、今までと同じように自分の意見を正面からぶつけて聞いてもらいたいシチュエーションも出てくると思いますので、そんなときの発表の場にもしたい、と欲張ったことを考えています。出来れば、4月ぐらいからのスタートを考えていますが、果たして実現できるでしょうか。
もうひとつ私が思い描いているのは、書き綴ったブログの50章を一冊の本にしたいということです。自分の想いをブログ読者だけでなく、もっと広く、多くの方に伝えたいという強い願望からです。決して売れる本になるとは思えませんが、内容が陳腐化しないうちに、また、自分の気持ちが萎えないうちに実現したいのです。

最後に、この一年間、私のつたない文章にお付き合いいただいた読者の皆様から、一言でも結構です、感想やご意見をお寄せいただければ幸甚です。
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50.大自然の逆襲

2006-12-22 07:41:34 | Weblog
「何かおかしいゾ」と思われることが、しばしば大手を振ってまかり通っている。国や自治体のお墨付きでやっていることだから間違いは無いだろう、そう思って見過ごしてきたことが、実は大きな過ちを犯していることもある。難しい専門知識はなくても、経験則に照らして納得できないものや、素人の素朴な疑問に明快な答えが得られないものは、そこに何か問題が潜んでいると思ってまちがいないだろう。

戦後60年の間に、日本全土の川という川を覆いつくししまった砂防堰堤やダム湖について検証してみよう。
川釣りが趣味の人なら誰でも知っているが、渓流魚は頭を上流に向けて流れてくるえさを待ち構えている。だから、釣り師は、魚に気づかれないよう川下から上流につりのぼっていくのが常道なのだが、いまや、よほどの奥山でない限り、大抵の川は歩き始めるとすぐに砂防堰堤にぶち当たる。川は、瀞、浅瀬、落ち込み、ぶつかり、ザラ瀬、滝などが千変万化に組み合わさり、周囲の樹木や岩石と相まって明媚な風景を構成し、魚のつき場を作っているが、人工の堰堤上流は、しばらく魚の住めない平瀬が続いて、面白くないことおびただしい。どこまで釣り上がっても、堰堤をひとつ越えるとまた次の堰堤が現れて辟易とする。最初に作られた堰堤は時が経てば堆砂で埋まる。埋まったら更に上流に堰堤を作る。そうやって工事が繰り返され、川の最上流まで幾十の堰堤が作られていった。このようにして作られた堰堤も、やがてすべて土砂で埋め尽くされてしまう。その後も山からの土砂は容赦なく供給し続けられることはわかっているのに、埋め尽くされた後の対応は用意されていない。
日本中に作られた大小のダム湖も、時とともに堆砂で埋まっていく運命にあるが、作るときに埋まった後の処方箋が用意されているわけではなかった。先が見え始めた今、あわてて堆砂の除去対策がドロナワで検討されているが、基本矛盾があるものが簡単に解決するとは思えない。
一方で、土木建築用に下流の川砂や川石が採取され、それが枯渇すると、ついには海砂にまで手をつけてきた。供給源のバルブを閉めておいて、有限の産物を取り続ければ何が起きるかは最初から自明なのに、今になって全国で砂浜が消えたと慌てふためいている。

上高地に行くと、今でも噴煙をあげる焼岳に、多くの砂防工事が施されているのを見ることができるが、次から次に崩壊する谷に砂防堰堤を作ってどれほどの意味があったのだろう。今秋、山陰の伯耆大山でも同じ光景を目の当たりにした。山頂からの崩壊がやまない谷筋に大堰堤を築き、それがあっという間に埋め尽くされてしまったため、かさ上げ工事の真最中であった。私の目には、それはただの土建業を潤すだけの公共工事にしか映らなかった。
梓川では50年来河床の上昇が著しい。その対策として、流入する多くの支流にバリケードのように砂防堰堤を築き、人目に触れる本流では、帯工と呼ばれる隠し堰堤を作ったり、護岸の強化を繰り返しているが、本質的な対策になっているとは思えない。帯工など作ってもあっという間に埋まって、その上流はいっそうの天井川と化し、更なる護岸のかさ上げが必要になる。一時しのぎの対策を繰り返していても、少し長いスパンで見れば、結果として自然破壊の上塗りをしているに過ぎない。自然の摂理に逆らって、穂高連峰や槍ヶ岳など四囲の山々から供給されつづける土石を力ずくで封じ込めるという考え方は、もうそろそろ卒業して、土石を下流にやり過ごす、川の氾濫もある程度許容するという考え方に変えていかないと、問題の基本的解決にならない。大自然に勝ち目の無いケンカを挑むのではなく、大自然とうまく折り合いをつけながら共存していく考え方への大転換が必要だと思う。

(付)
都立大の岩田教授は、梓川の氾濫を前提にして、登山道の付け替えや宿泊施設の上部への移設や高床式への建てかえを提案している。
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49.山岳競技に思う

2006-12-15 07:51:07 | Weblog
私の山仲間には山岳競技に熱を入れている人や競技団体の関係者も結構いるので、いささか言いにくいのだが、私個人の意見としては、山を競技場にはしてほしくないと思っている。
山を走ること自体を否定しているわけでは決してない。自分自身も、かつて何回も青梅マラソンを走ったりしていたので、走ることにアレルギーはない。私の山仲間でも、山を歩くことから山を走ることに喜びを見出していったひとは何人もいる。個人で、あるいは少グループで、山野を走り回るのは楽しいし、すばらしい。競技者の立場に立って考えてみると、仲間内だけでなく他流試合で力を試してみたくなる気持ちもわからないわけではない。ただ、長谷川恒男カップとか、富士登山競走とか名うって全国から大々的に選手を募集しておこなう大会には、問題が多い。昨年、奥多摩71.5キロを一昼夜かけて走る長谷川カップが大雨の中で強行され、選手に脱落者とケガ人が続出した。私の友人も、天候には勝てず、途中でギブアップしたり腕を骨折したりして帰ってきた。怪我をするのは自己責任だとしても、雨中泥道の踏みつけや踏み外しなどは、登山道をめちゃめちゃに壊す。多人数の競り合いは、一般の登山者にも大きな迷惑を及ぼす。
ちなみに、今年の長谷川カップの参加者は2018名、富士登山競走の参加者は2463名だった。

同じように問題があると思うのは、全国高校総体(インターハイ)の一種目になっている登山大会であろう。これは、選手4名で登山隊を編成して解散するまでの3泊4日を、行動(体力、歩行)、生活技術(装備、設営撤収、炊事)、知識(気象、自然観察、計画記録、救急)、態度(マナー)について、付き添いの審判員によって100点満点の減点法で採点されるのだが、会社の人事考課に似て、果たして、山での生活がこんな仕組みで公正に採点できるとは信じがたい。また、採点して順位をつけること自体意味があるとも思えない。登山という行為がスポーツのひとつだということを否定するつもりはないが、それは勝ち負けや評点を競うスポーツとは異質なもので、競って順位をつけること自体なじまない世界ではないか。
数年前も、早池峰でおこなわれたインターハイで、コース整備のため登山道沿いの貴重な蛇紋岩が砕かれたり、競技中の登山道の踏み外しが問題になったことがあった。
競技に参加する選手たちは、みんな熱くなっているから、それによって引き起こされる自然への影響や一般の登山者への迷惑について考えながら行動せよ言っても、多分それは無理な相談である。主催者側でありかたを再考してほしいと思っているのは、私だけではないだろう。

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48.奥鬼怒の今昔

2006-12-08 07:52:07 | Weblog
奥鬼怒は忘れえぬ場所である。私が最初に奥鬼怒を訪ねたのは、昭和32年、まだ雪深い3月初旬だったように記憶している。学生仲間5人でテントとスキーを担いで富士見峠から尾瀬沼に入り、雪の山稜をたどって八丁の湯に下り、更に根名草山、温泉(ゆぜん)岳を越えて金精峠に至り、日光の湯元に下った。そのとき、無人の八丁の湯で、雪見をしながら露天風呂を使わせてもらった記憶が今でも蘇る。
次にここを訪ねたのは、学校を卒業して数年がたち、私が渓流釣りに熱をあげはじめたころである。当時の私は、休日や休暇の大半を渓流釣りに費やしていた。今では一木一草、魚一尾捕ることが許されない尾瀬も、まだそんな制約はなく、以前山登りで訪ねたときのあのヨッピ川を悠然と泳ぐ大岩魚の姿が脳裏に焼きついて、ひとり尾瀬を訪ねたのだが、滔々と流れる豊かな水量の川での釣り方がわからず、一尾の釣果も得られなかった。後日、釣り方さえ知っていればぜったいにあの大物を手に出来たはずなのにと思ったりしたものであるが、後の祭りで、そのときの尾瀬はもう永久禁漁になってしまっていた。自分の釣技の未熟を棚に上げて、尾瀬の岩魚は釣れないものと決め込んでしまった私は、方針を変えて、その足で鬼怒沼山を超えて日光沢温泉に下った。そこでも、いくら竿を振っても一向に魚がかかる気配はなかった。釣り下って加仁湯に泊まることにしたのだが、宿の若主人曰く「本流をいくら攻めても無駄だよ。去年の秋の台風で魚がみんな流されて、あと2.3年は釣りにならないよ」とのことであった。失望している私をたぶん可哀想に思ってくれたのだろう。せっかく山越えして来たのだからと、土地の人だけが知っている支流の隠し釣り場とそこでの釣り方をこっそり伝授してくれたのだった。その小渓で手にした数尾の岩魚の感触は今でも忘れられない。
これが私の奥鬼怒詣での始まりで、それから数年間、川俣温泉をベースに鬼怒川上流域の渓を釣り歩いた。夫婦淵を過ぎると、下流から八丁の湯、加仁湯、日光沢温泉と続き、本流の川筋から外れた山の中腹に手白沢温泉がポツンと位置して、当事はみんなランプの宿だった。年を経るにしたがって電気が灯り、魚もだんだん釣れなくなって、私の足も遠のいていった。田中角栄の日本列島改造論が発表され、日本は高度経済成長真只中の時代であった。

そんなあるとき、新聞で、奥鬼怒でテンカラ釣りの講習会があることを知り、昔を思い出して参加を申し込んだ。最初に釣りに訪れたときからもう20数年が過ぎていた。私の中を懐かしい思いが駆け巡り、胸はふくらむ一方であった。しかし、思い出の地で私を待っていたのは、失望以外のなにものでもない。夫婦淵に着くと、川は護岸工事とテトラポットの投入で、昔日の清流の面影はすっかり消えうせてしまっている。夫婦淵から先は林道(奥鬼怒スーパー林道*)が通じて、宿泊者だけの特権で宿までマイクロバスで送迎してくれるという。バスに乗せてもらって到着したあの日の宿は、すっかり近代的な鉄筋コンクリートの建物に生まれ変り、仰ぎ見ると奥鬼怒スーパー林道の鉄橋が谷を堂々とまたいでいる。中にはカラオケルームもあって、それはもう秘境のイメージには程遠いものであった。ノスタルジーに過ぎないといわれるかもしれないが、私にとっては、この山奥まで来て泊まる意味もない俗な温泉旅館のひとつにしか映らなかったのである。ちなみに、秘湯の呼び名がぴったりだった手白沢温泉も、新築されてすっかり瀟洒な建物に生まれ変り、送迎バスも通じて、わずかに日光沢温泉だけが古き時代の面影を残している。

ささやかな私の一体験についての話であるが、こんなことは特に奥鬼怒に限ったことではない。戦後のわずかな年月の間に、日本全国いたるところが、そんな風に変わっていったのである。

奥鬼怒(おくきぬ)スーパー林道*
スーパー林道は、昭和40年ころから全国23の山岳地帯で開発が進められた。開発主体は林野庁直轄の森林開発公団(現・独立行政法人緑資源機構)である。林道と言っても、実態は、景観の優れた国立公園内などの山岳地帯を選んで計画された観光道路であった。奥鬼怒スーパー林道は、奥鬼怒と尾瀬を結ぶ路線として開発されたが、平成3年に完成以来、反対運動によって、許可車以外通行禁止の措置がとられている。

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47.車社会の山歩き

2006-12-01 07:23:03 | Weblog
「霧島山の韓国(からくに)岳とその隣の獅子戸という山に登った。正直言えばこの山も、歩く道は残されているとはいえ、有料観光道路が、どうも私には未だになじめないセロテープみたいに、あっちこっちに伸びていて山の姿を見るのには都合の悪い部分がある。
もっとも私にしても、そういう道路を利用させてもらって、短時間に山を見てくる場合もないわけではないので、あんまりわるぐちをいいすぎることは謹んでおかねばならない。... どうしてこんなところに自動車道をつくらないのだろう?そんなことを考える人の方があたりまえになって来る。歩きすぎると損をしたと思う不思議な登山者が現れる。向こう側から登ればもっと上までバスがあったのにと口惜しがる人も現れる。...」
引用が少し長くなったが、これは串田孫一さんのエッセイ「山のパンセ」の中にでてくる一節である。今から45年前の文章であるが、自動車の魔力と人間の心理について言い得て妙である。 
それにしても、人間の心理とは不思議なものである。山歩きに来たというのに、何とかして少しでも歩かないですむ方策を考えてしまう。少しでも奥まで車で入りたいと思ったり、帰路は出来るだけ早く車の待っているところにたどり着きたいと思ったりしてしまう。登山家の端くれと自認している私にしたところでこんな風なのだから、観光気分で山に来る人たちが、歩かないで山を楽しみたいと考えるのはまったく不思議なことではない。そんな車社会の人間心理を味方につけて、ほとんど山頂まで山岳道路ができて、歩かないで行ける山も沢山できた。ようやく山頂にたどり着いてひょいと反対側を見たら、すぐ下にゴルフ場が広がっていたり、ロープウエーの終点があったり、駐車場があったりという山に出会うことも結構あるが、あれは興ざめだなあと思う。美ヶ原、乗鞍岳、立山、入笠山、甘利山、阿蘇山などは、いまや観光地そのもので、登山の対象としては魅力半減の二流の山になりさがってしまった。

そんなわけで、高度経済成長時代以降、山の観光地化が一気にすすんで、〇〇スカイライン、〇〇ハイウエイ、○○アルペンロードなどの名前がついた山岳道路が日本全土で次々と誕生していった。林道という名の山岳観光道路「スーパー林道」も同様である。山頂に至らないまでも、登山口と呼ばれる起点は一様に繰り上がって、車で入ることができる範囲は格段に広がり、登山の大衆化の基盤が作られていった。
さすがに、私も、山頂まで車で行けてしまう山にすすんで出かける気にはならないが、すでに自動車道があるのに車道を歩くほど偏屈者でもないから、みんなが利用している道路は利用させてもらっている。だからといって、それでよしと考えているわけではない。こんな都会生活と同等な利便を得るために、自然環境の喪失というとてつもない大きな代償を払ってきた人間の愚かさに想いを馳せるのである。

(追伸)
寒くなってきましたが皆様如何お過ごしでしょうか。今年も残すところあと一ヶ月。師も走るというくらいですから、私も悔いを残さないように、もうひとっ走りがんばって良い一年にしたいと思っています。
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