連休も中日。今日も昨日に引き続き、Y地域の訪問活動をしました。みなさん、被災された方の心配でいっぱいでした。浅川ダムの危険性も、大きな話題となりました。地震、津波、加えて原子力発電がとどめを刺した経験したことのない大災害に、「国民揚げて応援するとき、選挙どころではない」との声も、たくさん聞かれました。共産党が国会で申し入れをしたが、公明党はじめ他の政党が反対した話しをしたら、ご存じない方もいました。
「今度は共産党だなという人がけっこういますよ。でも名前変えてよ」という方に、「それは嬉しい。名前はまずは置いておき、中身で投票してください」とお願いしました。
母が入院しました。もう一度、私たちの顔がわかってにっこりわらってくれれば、言うことはありません。経口で食事が取れなくなっていますが、家族で「もし、胃ろうを作るかどうかとなったらどうする?」との話しになりました。「作ろうと思ってもつくれないじゃん。おばあちゃん、食道ガンで胃を全摘したよ」「あ、そうだった!」
長野に来るにあたっては、沢山のみなさんのご協力がありました。心から感謝すると同時に、避難させて安心しましたが、残らざるを得ない方のご苦労を思うと、申し訳ない気持ちもいっぱいなのです。被災地の病院や施設でがんばっているみなさんや、そこで辛抱しているお年寄りのみなさんの健康と、一日も早い復興を願って、私はこちらで救援活動でがんばります。
夫が石巻で撮ってきた写真を紹介します。今度帰ったときは、きっと故郷は、まるで違った景色になていることでしょう。「故郷の廃家」の歌も過去のものになり、ノスタルジアが消えてしまいそう。切ない気持ちです。
ヨー素剤を飲んでいるところだそうです。福島の近くで。
シュラフでの睡眠。といっても2時間。
弟は一般車両で移動でしたから15時間以上かかったそうです。
北上川にかかっているうつみ橋です。船も建物も橋に乗りあげました。
町の中に船がゴロゴロとあったそうです。道だけは掃除して空けたのですね。
楽器屋さん
車がずっと向こうまで何台も倒れているのがわかるでしょうか。
ここは湊かな。
廃墟となった商店街。我が家の一本上の通りです。
我が家の通りにあるお地蔵さん。花だけが生き生きと。
我が家の一本上の通りはメチャクチャだったのに、冠水はしましたが奇跡的に崩壊はそこでストップいました。右の花づつには、この写真ではわかりにくいのですが、「村松喜一郎」と寄贈した人の名が彫ってあります。私の父です。地域には地蔵講があって、父も母も一生懸命でした。地域のコミニュティにもなっていました。
お地蔵さんのお祭りの時は、格子戸を外して、地蔵講のみなさんが座り、お参りの人にモチをくばりました。子どもたちは必ずモチをもらいにいったものです。となりには舞台を作ってのど自慢大会、商店街からいろいろな景品が出て、大変なにぎわいでした。地域の子どもを見守る拠点でもあったような気がします。
この惨事のなか、一歩手前でこの通りの家の崩壊を救えたと知ったら、母はきっとこう言うでしょう。「お地蔵さんが守ってくれた」と。ちょっとした差が、生き死にを左右した話しを聞く度に、胸が締め付けられます。