中野さなえ活動日誌

花には太陽を こどもらには平和を

お久しぶりです。今日からまたブログを再開します。

2011年05月15日 09時02分30秒 | 活動日誌

忘れな草

 みなさん、お久しぶりです。ずいぶんたったような気がしますが、4日ぶりですね。今日からまたブログを再開します。

 実は、11日に母が逝きました。震災からちょうど2ヶ月目の節目の日でした。葬儀のため、お休みしていました。「葬儀」と正直に書けなかったわけがあり、「急な仕事」だと報告してしまいました。それは母の葬儀を家族葬で行ったため、みなさんにご焼香などのご心配をおかけしてはいけないと思ったからです。申し訳ありませんでした。メールなどでお気持もちをたくさん寄せていただき、こころから御礼申し上げます。

 母は、孫が小さいときは、暖かい季節は孫の面倒をみながら父と二人で長野で暮らすことが多かったのです。私が候補者になってからは、選挙の時に家事の応援にも入ってくれましたから、長野のみなさんには本当にお世話になってきました。ありがとうございました。

 母は瀕死の重体でしたが、夫の職場の民医連・中央病院のご協力のおかげで、長野に避難させることができました。でも母は2ヶ月間、水一滴も口にすることができませんでした。点滴と輸血でがんばってくれました。

 石巻にいたら弟の家族も施設にさえ行くことができなかったのですから、誰にも会わずに、寒さと混乱のなかで不安感一杯で逝ってしまったかもしれません。暖かい病院で優しく手厚く看護されましたので、病院の仲間には心から感謝をしています。この2ヶ月間、孫や息子たちが会いに来てくれ、最後のお別れもできました。11日の早朝、最後の時は私と夫と、主治医の娘夫婦が見守る中で静かに90才の人生の幕を閉じました。

母の最後の笑顔

 被災地ではまだ遺体が見つかっていない方も多く、亡くなっても葬儀も出せない方もたくさんおいでです。荼毘にふすためにご遺体を東京都まで送ったり、土葬にせざるをえなく、亡くなった本人はもとより、ご家族の方の胸の内はいかばかりか想像に容易です。どんなに辛いことでしょう。

 私たち家族は、故郷の被災者のことを考えると、お葬式を出せるだけでありがたく、また心苦しくもありました。それに身内でゆっくりと母の人生を語り合うことが一番の供養だと考えて、相談の結果「家族葬」にしたのです。こころのこもった葬儀になって、ありがたく思っています。

 母は、並みの人では耐えられないほどの苦難に満ちた波瀾万丈の人生を送りました。今回、母の一番下の弟おじさんから聞いた話には、私のまだ知らないこともたくさんありましたが、一貫して気丈で頑張りやで弱音を吐かない人でした。共産党に入党したのは、60才近くだったと思います。

 私が教員として千葉県で働いていたときのある日、赤旗を読んで、ビックリ!そこには新入党員としての父「村松喜一郎」が載っているではありませんか。その後まもなく母も入党しました。あとで聞くと、私が学生運動に身を置いていたとき、テレビでトロツキストが暴れるニュースがあるたびに「さなえはいないか」と心配し通しだったそうですが、「共産党は貧乏人の味方」と入党を決意したのです。

 母の党員としての仕事は、候補者のタスキを縫うこと。今はビニルに変わりましたが、昔は布を縫っていたものです。それから事務所の炊き出しで自慢のおでんをこしらえることでした。ご近所のお茶のみ友達に、一生懸命票も頼んでいましたね。私の選挙の時には、私の家庭を守ってくれました。母は同志でもありました。何より、孫たちには、とっても大好きな、かけがえのない存在でした。

 私のこれからの人生は、いよいよ母と母の年代の方の人生を受けついで中身が濃くなったな、と感じるているところです。

母との最後の旅。昨年の12月。今は震災で破壊された南三陸町です。

 今朝は庭で歌を歌いました。

 年老いたあなたへ この歌をとどけよう

  こころやさしく    そだててくれた

  おれいがわりにこのうたを

わかれゆくあなたへ この歌をとどけよう

 さみしいときは  歌ってほしい

 とおいそらから この歌を

コメント (5)
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