3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

強制不妊手術の悲惨な話

2018-05-18 12:42:11 | 現代社会論
母体保護法ができる前は優生保護法という法律があった。1996年(平成8年)の法改正で優生保護法から母体保護法に法律名が変更されたが、そのときに、優生学的思想に基づいて規定されていた強制断種等に係る条文が削除された。「優生手術」の文言も「不妊手術」に改められたとのことである。

戦前は富国強兵だから、とにかく、兵隊として使い物になるかどうか、が問われる時代だった。障がいや精神的な疾病があるとか、色弱だとかというものは兵隊として働きが少ないということで、なるべく排除するという方針で、それを、ほとんどの国民がそれがよいことだと思い込んでいた。医師や看護師、方面委員(現在の民生委員)や役所の職員などもそういう風に思い込んでいた。
ただ、戦前はそれで解釈がつくが、戦後になってもなんと1990年代、平成になってもそういう考えがあったということに驚愕するのである。
世界人権宣言、子どもの権利条約・・・リプロダクトヘルスライツ・・・など、われわれは互いの人権を守ることを約束とし、合意してきたはずなのにである。
だれも、それに異をとなえる人はいなかったのだろうか。

障がいのある人たちが、俺たちはいらない存在なのか?生きる価値がないのか?と運動を通して訴えてもなかなか社会は受け入れなかった。
やっと最近になって、ハンセン病の人や精神、知的障がい、難病など当事者の人々が声を上げるようになって初めてこのような問題が白日の下にさらされるようになって、社会にある障がい者差別に対して問題を提起するようになった。
これは本当に大切なことで、社会の役に立つかどうかなどで排除するか否かで人の価値が決まってしまえば、寝たきり高齢者やがんで闘病している人や認知症にになって働けなくなっている人など、排除することになり、大問題である。われわれは人生のいつのときでも強者でいられるわけではなく、必ず死ぬまでになんらかの社会的なサポートが必要になることは自明の理なのである。

障がいがあるからといって、遺伝性の病気をもっているからといって、なぜ、不妊手術を強制的にやられる必要があるのか?
人権侵害である。遺伝性の病気のあるものは子どもを持つことは許されないのだろうか。

こういういびつな排除的状況を長らく放置してきた医療、行政、民生委員、障がい者関連施設機関、そして、何よりもそれを望み実施してきたかもしれない家族や社会の人々、すべて謝罪が必要である。この問題の本質を直視し、きちんとした議論をしなければならないのだ。

やまゆり事件を引き起こした容疑者は排除の思想に染まっていた。
そういう事件を再度引き起こしかねないのである。この問題をそのまま単なる補償の問題だけに終わらせてはならない。

出生前診断が実施され、かなりの%で障がいの有無が判明するようになった。障がいがわかると90%以上が中絶をするという。
そういう最近の状況も踏まえ、強制不妊手術の根底にある障がい者の差別と排除の思想、文化についてもっと真剣に議論する必要があり、歴史的にも探求される必要があると思うのである。
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