ソールズベリーの歌舞伎愛好家としての日々

歌舞伎や読書をこよなく愛するものです。私の身の回りのできごとや興味あることについて書いていきます。

大阪松竹座 團菊祭五月大歌舞伎

2011-03-06 22:03:11 | Weblog
大阪松竹座

團菊祭五月大歌舞伎

平成23年5月2日(月)~26日(木)


昼の部


一、女暫(おんなしばらく)

             巴御前  時 蔵
            女鯰若菜  菊之助
            轟坊震斎  松 緑


二、汐汲(しおくみ)

            蜑女苅藻  藤十郎
             此兵衛  翫 雀


三、極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)

  「公平法問諍」(きんぴらほうもんあらそい)

          幡随院長兵衛  團十郎
            女房お時  時 蔵
           出尻清兵衛  翫 雀
           唐犬権兵衛  左團次
         水野十郎左衛門  菊五郎



夜の部


一、倭仮名在原系図

  蘭平物狂(らんぺいものぐるい)

        奴蘭平実は伴義雄  松 緑
    女房おりく実は音人妻明石  菊之助
            在原行平  翫 雀


二、弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)

  浜松屋見世先の場
  稲瀬川勢揃いの場

         弁天小僧菊之助  菊五郎
            南郷力丸  左團次
            忠信利平  権十郎
           赤星十三郎  時 蔵
          日本駄右衛門  團十郎


三、新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)

       小姓弥生/獅子の精  菊之助



 五月の大阪の團菊祭は配役表と演目を見つつため息がもれる。
 「またかよ。」
 正直な感想である。
 弁天小僧などおなじみの狂言は並ぶが、これを見なくては思う芝居はひとつもなかった。
 大阪のお客を相手にふざけるなとも言いたくもなる。
 そんなことをいっても拉致がないので気になるところを書いていく。
 昼の部に目が行く。
 時蔵の「女暫」
 これは歌舞伎十八番の「暫」をパロディにしたもので女形が「暫」をやる。
 役名は巴御前。めずらしいので見たい。
 藤十郎の「汐汲」
 長唄の舞踊で在原行平との恋を綴るもの。
 藤十郎なのでチェックか。
 「幡髄長兵衛」
 これは湯殿の長兵衛とも言われ、侠客の幡髄長兵衛が旗本の水野十郎左衛門に討たれる話。水野に討たれるの知っても、水野の屋敷に赴く覚悟を見せる長兵衛内が見もの。菊五郎の水野はともかく、團十郎ではなあというのが本音か。

 夜の部
 松緑の「蘭平物狂」
 立ち回りが大掛かりなのが注目であるが、芝居としてはおもしろくはない。
 カットが多く、見ていてなんのことかさっぱり分からない。
 菊五郎の「弁天小僧」
 菊五郎の弁天小僧は悪くはないが、何度も見ると飽きてくるし、もういいやというのが本音である。南郷の左團次、團十郎の駄右衛門と悪くはないがもういいやである。
 菊之助の「鏡獅子」
 團菊祭で一番の注目か。大事なのは獅子となってからの毛振りではなく、前シテの弥生で見せるものだあることを見せて欲しい。観客も役者も、この踊りのつぼを変に誤解している節がある。頭振り回したらいいというのは勘弁してほしい。
 菊ちゃんがせっかく「合邦」の玉手で当たりをとったのだから彼に時代物をというのが私個人の切ない思いです。

 昼を見て、夜は「鏡獅子」を幕見でというのがいまの予定かな。


面接、A級順位戦など。

2011-03-04 11:13:10 | Weblog
 ここ数日は暇そうでばたばたしている。
 月曜と木曜日に塾講師の面接にいく。芦屋と西宮。どちらも新設する個別塾。
 最近は集団で教える集合塾より個別の塾が増えている。
 流れ的に、集団についていけない子をターゲットとして個別で教えていくことでマーケットの拡大を目指している傾向が塾業界の流れである。チラシをみていてもはっきりとわかる。
 どこかの学校に何人というよりもテストでこれだけとれたことを強調している。
 自分の場合はどちらこというと試行錯誤しつつ独学で勉強していったほうなので、塾のメリットをあまり感じていない。行ったことはあるが、結局は自分でやっていったほうが成績がよかった。
 受験しろ勉強にしる、地道にこつこつとねばりでやっていったほうが確実である。
 塾がやれることは自分でこつこつやっていくことへレールを敷くぐらいしかできないような気はするが。ひとつは早速、だめでもうひとつは結果待ちである。
 これも地道に面接をやっていくしかなさそうである。
 火曜日は図書館と歯医者に行く。
 歯医者といい、医者にはこまめに通っておいたほうが自分にはよさそうで、いかないとたいへんなことが多々あるので行っている。歯医者に行くと、歯が少し欠けていたので削られて樹脂を埋め込まれる。あとは歯石をとってメンテナンス。
 図書館は瀬戸内寂聴の「かの子繚乱」を借りられた。これは歌人、作家である岡本かの子の評伝、はじめての寂聴の小説を読んでいる。淡々と描いているが、どことなく女性作家の激しい描写を垣間見る。長いので気長に向き合うつもり。
 あとは吉村昭の「大黒屋光太夫」。これは江戸時代にロシアに漂流した商人の話で、吉村さんの晩年の作品。あまり評判は芳しくはないが読んで見るといつもの吉村さんのこつこつ史実を描いている。ただ、あっさりとしていることは否めないか。
 水曜日は病院と将棋のA級順位戦の最終局。
 病院はデータは先月と変わらないが、体重が増えているので痩せないといけないので運動を、増やしていく予定。散歩中心になるが。
 将棋のA級順位戦は、将棋界でいちばん長い一日と言われ、将棋界のトップのA級10人が将棋界最高峰の名人挑戦をめざして戦う。全部で9回戦、その最終局が3月に行われる。
 渡辺竜王と森内九段が6勝で並び、挑戦争い。下位の二人が降級となるがこちらのほうが挑戦者争いよりも熾烈で4人くらい候補がいる。朝の10時に始まり、終わるのが日付が変わる場合が多い。いちばん長い日といわれるのはそこにあって持ち時間が双方6時間づつあるからによる。
 18時から福島の関西将棋会館で解説会があるので赴く。解説は畠山七段と山崎七段。
 いつものタイトル戦とは異なり、5局解説してくるのでありがたい。すべて解説が3時間くらいかかるのが難か。丁寧で細かい変化を説明してくれるのがよかった。畠山さんと山崎さんのやりとりが軽妙でよかった。
 解説を21時ころまで聞き、帰って22時すぎにNHKであるのでそちらを見ようとした寝てしまう。
 最終的には森内さんの挑戦、木村さん、藤井さんの降級となる。いつ見ても思うが順位戦の怖さを感じる。八百長はなさそうである。
 数学、英語を少しづつこなしつつある。他にもやるべきことがあるのが、徐々に増やしてはいきたい。

吉坊の会 落語

2011-02-28 13:02:01 | Weblog
土曜日に谷町の山本能楽堂に吉坊の会の落語を聞きに行く。
 能楽堂で落語と聞いてびっくりすると思うが、以前の落語が聞ける場所があればどこでもいっていた、お寺とかを思えば気にはならない。
 初めは吉の丞の「餅屋問答」
 これは、博打打ちの男が、世話になっている餅屋の大将のすすめで寺の坊主になるが、(この餅屋の薦め方が無茶で、坊主なんかいろはにほへとに節をつければええねんという。)、ある日、禅宗の坊主が来て問答がしたいという。問答に負ければ、身包み剥がされて追い出されという。どうしようかと困って、餅屋の大将に相談して、大将がおれが僧正となって問答しようとなって。
 にわか僧正の大将と禅僧のやりとりがみものの落語。
 吉の丞の落語はすごかった。豪快といえば豪快で、あとで吉坊が「登場人物全員がやくざ」は言い得て妙。これはこれでこれからの彼の落語は見もの。米朝曰く、「吉の丞はこわい。」
 吉坊 「初音の鼓」
 これは道具屋が大名に義経が静御前に与えた鼓で、たたけば、コンと狐がなくといういわくの物を売りつける噺。はなし、うんぬんというより枕の吉坊のトークで終わった感じである。
     「たちきり」
 これは「たちきり線香」という言われ、上方落語にめづらしく、きかせる落語。江戸の人情噺に近い。
 昔、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」で噺の内容は知っていたが、聞いていて難しいと感じる。
 前半で船場の商家で若旦那が番頭に放蕩を戒めるとして、百日、蔵に閉じ込めるくだりは、船場の商家の雰囲気、番頭の人物が描けないといけない。出てくる人物を描けないと持たない。
 吉坊は丁寧に演じ、番頭がおもむろに煙草を取り出して一服する風情がよかった。後半は後半でお茶屋の女将の百日の蔵入りから出てきた若旦那になじみのお仲について語るのが見もの。
 番頭、女将と笑いを取らずに語りで聞かせるので、お客さんをひきつけるのはなかなか難しい。
 前半は、緻密な構成で噺を持っていったが後半はややばてている。
 枕の米朝に「たちきり」の稽古をみてもらうやりとりがおもしろく、なかなかつけてもらえない、どうつけてもらえるかとのやりとりがおもしろい。
 千朝 「天狗裁き」
 中入りから千朝は米朝門下のベテランの噺家。
 天狗裁きは先日、米二さんので聞いたが噺としてはこちらのほうがおもしろかった。
 人物の緩急、メリハリがついていたので、おもしろかった。
 吉坊 「小倉船」
 これは、小倉から上方へ行く船の噺で、旅の噺のひとつで、竜宮城などがでてくる華やかな噺。
 吉坊の体には合わないかも。話し手の芸風が左右する噺でうまさだけで乗り切れない噺。
 「たちきり」で体力を使い果たしたのか、散漫である。吉坊にツイッターで感想をかくと、後半は言いたい放題でやったとのコメントがあり、昼夜とやった疲れがでてきたのかと言う感じである。
 18時30分からはじまり終わったのは22時前。
 大抵は21時くらいでおわる落語会からすれば長いか。吉坊の枕が長いこともあるが、もうすこし枕を刈り込めばと思う。

今週は。メトロポリタンオペラなど。

2011-02-27 11:25:18 | Weblog
 今週は、日曜日からNHKのハイビジョンでアメリカのメトロポリタンのオペラの放送があって、週の前半はそれを見ていくことに費やす。
 メトロポリタンのオペラは、最近、ライブビューといって上演したオペラを映画館で上演している。
 世界の一流のオペラを安く見れる。映画館で3000円くらいでみれる。生で見るならその数倍は必ずかかる。メトのオペラはヨーロッパのオペラと比べて演出がオーソドックスでわかりやすい。
 で、放送されたのはルネ フレミングのR..シュトラウスの「ばらの騎士」、ロッシーニの「アルミーダ」、ガランチャのビゼーのカルメン、ドミンゴの「シモン ボッカネグラ」、「ハムレット」の5作品。 
 フレミングのばらと、ガランチャのカルメンは見た。これはよく出来ていて、おすすめ。
 フレミングのばらは、ティーレマンで見ているが、見るとするならこちらのほうがいい。
 ガランチャのカルメンは、以前のバルツアのカルメンと並ぶでき。ホセ役のアラーニャがいい。
 オペラは1作品、3時間から4時間はかかるのでみるのに体力がいる。
 学校に行きつつなので、たいへんでした。なんやかやで2日ほど休む。
 水曜日に夕方に三宮にいって先日の読者会で知り合った人とお話をする。
 海外のことが中心に話をされる、フィリピン、ガテマラなどの中南米の話などを聞く。
 日本のことの話をされるが、どうもまわりの世界のスタンダートに振り回されているような気もしないわけではない。ここ十年くらいは世界を引っ張るというより合わせていくというのが日本のスタイルの気がする。世界的に競争力などが落ちてきているのも納得がいく。といいつつ、ナショナリズムに極端に走りがちなのも否めない。政治もそれに比例して混乱を極めている。どうすればといわれても、そのときどきでの最善を尽くすのがいまのところのベストかもしれない。抱える問題は難問ばかりであるがめげずにやっていくしかない。
 話を聞いていても世界のスタンダートに合わせていくことがどうなのかが疑問で仕方がなかった。
 木曜日は学校で午前は学校の先生と生徒で懇話会でいままでのこと、これからのことについて話していく。みんなまだ、先のことは決まっていなくて、塾関係の仕事を探していくとのこと。自分自身も、なかなかたいへんではあるが。ここに来て思うこととして、付き合う人間が変われば、世界も変わるなと実感する。ここ一年くらいは、助けになってくれる人によく出会えた。このへんこのことはよくよく肝に銘じておきたい。学校の先生のこれまでの経歴が聞くとおもしろく、京大を出て、商社で働き、コンサルタント会社の経営、塾の経営などを経て、講演活動をメインにやっておられるとのこと。いろいろと苦労をされたみたいで、きったはったの人生である。ドラマになりそうな人生である。最近の先生で、こうしたスケールのある人はいない。
 としも67歳なので授業をするのはこれで最後とのこと。といいつつこの講座も一期でおわるのであるが。懇話会のあとは近くのフレンチでランチ。2000円でかなり量の料理が食べられてよかった。
 金曜日は修了式で、午後に面接に行くが、次の日に郵便で履歴書の返却と断りの手紙が添えらる。行くことがあったのかと思いつつ。
 土曜日は夕方に桂吉坊の落語会。山本能楽堂での落語、普段の寄席と一味違う落語会。教会で落語をやっていたエピソードを思うとこれもありかと。
 内容はともかく、寒くて仕方がなかった。

今週の私は

2011-02-20 10:20:49 | Weblog
 今週は人に会うことが多かった。
 先週の日曜、13日に神戸の北野坂のスタバにて、読書会。
 8人くらいの集まりで、各自読んだ本についてのブックレビューをしていく。
 内容はともかくとして本好きの人と何かと話せたのはうれしかった。
 愛媛から来た人で最近出た岩波新書の正岡子規を薦めた女性、赤毛のアンについて熱い思いを語ってくれた女性など、個性的な人に会えたのは良かった。
 そのあと、何人かの人と、ミクシィがらみの人にはマイミクになってもらうなどしてもらう。
 水曜日に神戸での読書会の主催者にあたる清瀬さんから三宮のカフェで海外についてお話したいので来ませんかとのお誘いをうけて、夕方からの三宮のカフェに赴く。
 清瀬さんと言う人は、鉄鋼関連の仕事をやっている人で海外の勤務の長い人で、アメリカとタイに駐在の経験のあるひと。話を聞いていると、本好きなことも分かるし、何より自分のことばで語っていることに引かれる。海外でいろいろと格闘したものを感じてならない。
 チェ・ゲバラの映画のことでいろいろと熱く語り合った。
 三宮のカフェでは先日の読書会で知り合った人、初めての人など7人くらい集まった。
 海外の話というよりめいめいの話で3時間が過ぎたというのか感想。
 清瀬さんのいまの日本への危機感を語っていた。いまの日本の方向性というものを改めて考えてしまった。そこのカフェはエキゾチックな店でオーナーの女性、20代の女性であるが、ゲバラのファンとのこと。水曜日に又そこに行くので次はそこのところを聞きたいと思う。
 金曜日に、職業訓練校のみんなと懇親会。
 年明けに枚方の学校にいった人とも会えて嬉しかった。
 2月でこの学校は終わるが、これからの進路はおのおの決まらずといったところで、厳しい現実を感じる。めげずに、前向きにである。
 学校を修了してからも、3ヶ月を目処に集まろうとのこと。
 こうした仲間とは長い付き合いで行きたい。
 そのあと、学校の人と、先生とでバーで飲む。 
 バーで、見知らぬ人たちと、話を咲かせる。
 まさか、宮本輝の「泥の河」で話が咲くとは思わなかった。
 人との縁は大事にしていきたいと感じるのであります。

桂米二@繁昌亭

2011-02-10 10:59:50 | Weblog
月曜日に繁昌亭にて桂米二の落語会に行く。
 桂米二さんは、正統派の落語家できっちりとした噺をやる。笑いをとりに行きやすい関西の落語家では珍しいかもしれない。この会では「持参金」、「愛宕山」、「天狗裁き」とやる。
 みどころは「愛宕山」。上方落語では代表的な噺でよく演じられる。東京でもあるが、演出が異なる。この噺は幇間と京都の旦那とのやり取りが見物。
 京都の旦那が愛宕山に登ることになってそのお供にお茶屋の芸者衆とともに太鼓持ちの一八と茂八がついていく。その道中のやり取りが見物で、はめものを使って演じていく。
 はめものとは上方落語独特のもので、下座、鳴物や三味線の音楽と演者との掛け合いで噺を進めていくもので、下座との呼吸が合わないと噺が面白くなくなる。
 この噺は大阪の一八と京都の旦那の見栄の張り合いももうひとつの見もので、京都と大阪の自慢比べと言ったところか。
 上方落語を聞いていると道中を演じる噺が多く、旅の風情を感じさせる。この愛宕山もその例にもれない。このはなしのおもしろさは、後半の一八の小判欲しさに、谷底に下りるところより、愛宕山に上る道行がおもしろい。
 歌を口ずさみながら初め余裕の一八が次第にばてて、最後は仲間の茂八の力をかりてようよう愛宕山を登ってくだりが好きである。
 愛宕山の風情が出ていて、一八がよく描けている。
 「持参金」は急ぎの金を支払うために、持参金欲しさに嫁をもらう噺でお金をめぐるバスケットボールのようなやりとりが見物の噺。
 「天狗裁き」は夢についての話で男の見た夢について、奥さん、大家、町奉行、天狗にまで詮議される噺。覚えのない夢についての男の悲喜劇。
 どちらもきっちりと淡々と語ってゆく。
 初めに雀太の「時うどん」、これは評なし。
 中入り後に、米團治の「蔵丁稚」。東京では「四段目」と言われる噺。
 「蔵丁稚」は忠臣蔵の4段目をベースとした噺で、丁稚の定吉が芝居を見てサボって蔵に入れられる。押し込められて、おなかはすくので、ダダをこねてもどうにもならないので、蔵にある道具で忠臣蔵の四段目の判官のまね、切腹をする。それを見た女中がおどろいて主人に報告、主人が御櫃をもって駆けつける。
「御膳(御前)ッ」
「蔵の内(内蔵助=由良助)でかァ」
「ハハァ~!」
「待ちかねたァ……」
 十数年ぶりに米團治の落語を聞く。以前は鼻につく落語で好きになれなかったが久しぶりに見るとうまくなっていた。大学の、サークルの先輩格にあたるが、贔屓なしにうれしかった。
 最後に果物の抽選会があったが当たらなかった。いちごが欲しかった。
 来月、梅田の太融寺で米二さんの落語会があるので行くつもり。

桂吉弥、柳家三三、二人会

2011-01-29 08:07:45 | Weblog
木曜日に繁昌亭にて桂吉弥、柳家三三の二人会があったので聞きにいく。
 この会は2日あって、私が行ったのは1日目。
 東西の正統派の落語の芸のぶつかりあいが見もの。
 中入り後の吉弥の「不動坊」は、体全体を使って利吉の家に独身男たちがいたずらをしかけていくくだりが演じていく。このあたりはこの落語のやま場。三三が「鮑のし」語りでもって噺をすすめていくのは対照的、上方落語の醍醐味を堪能。
 正直、うれしかった。
 吉弥の師匠、吉朝が死んで5年、米朝以来の正統派の落語がまだ聞けるなと思いがよぎった。
 吉朝は米朝にいちばん近い芸を持っていた。
 吉弥の落語をナマできいたのは梅田の太融寺で吉朝が落語の会を開いていたとき、かけだしのころを聞いたとき以来。そのときのおとなしかった落語が、枝雀の身体で表現するパフォマンスをかもしつつ、噺は噺できっちりと語っていく、吉弥の落語ができているのかなと感じた。
 対する柳家三三は小三治の弟子で、若手の実力、正統派の落語。
 初めて聞くのであるが、本格の品格のともなう落語。
 江戸のしっかりと噺を聞かせる落語。
 吉弥の柔に、三三の剛。
 対照的であれ、力で押し出す落語。
 東西の違いを改めて感じさせる落語会。
 前座で弥太郎が「時うどん」をやるが時間を気にして噺がやや早い。

吉原十二月

2011-01-24 10:33:59 | Weblog
松井今朝子さんの直木賞受賞作「吉原手引草」につづく吉原ものの第2作。
 前作は、吉原の最高位ある花魁の失踪をめぐるミステリー仕立ての作品であったが、今回は、舞鶴屋という遊女を抱えるお店の二人の禿、あかね、みどりが、成長して、花魁、小夜衣と胡蝶として名を張るサクセスストーリーであり、吉原の遊郭の四季の変化を織り交ぜた作品。
 この作品、吉原を舞台にした作品なので、松井さんがかなり考証して書き込んでいる、(といっても傍目からは見えてこない)、のでなかなかイメージがわきにくい。
 呼出し昼三、(花魁の最高位、昼に会うだけで5万か6万くらいのお金がかかる)、番頭新造、(30過ぎからの遊女、年季明けで借金か返し終えた遊女がそのまま居続ける)、紋日、(衣替えで自分が衣装を仕立てる、結構お金がかかるので、贔屓の旦那に頼んでお金を出してもらう。でないとお店がたてかえるが、その分、自分たちの借金が増えていく)、といった専門用語がでてくるので、知っているとおろしろいが知らないとわけが分からなくなるので、家にあった吉原関係の本、三谷一馬さんの「江戸吉原図しょう」を取り出して全体像が見えてきた。
 読んでみて、松井さんという人が女性ではあるが、男性的な人だなと感じるし、あっさりとばっさばっさと書いていくので、読むには気が楽といっとところである。
 吉原というと、遊女、男の買い物、性の道具のイメージはあるが、男をもてなすために、お茶から書道とかいろいろな習い事をして、教養を身につけた上でもてなす、割とハイクオリティが求められる仕事であります。女たちは年季、借金を抱えて苦労はしているというイメージを感じるが、それは案外男の思い込みの部分かあった、あったらあったなりにしたたかに生きていくのが遊女たちであり、それが女性なのかなと感じなくもなかった。今の女性たちよりはしっかりしているのかなと感じなくもなかった。
 悲しいのは後半で小夜衣が身ごもるのであるが、花魁という手前、流すことがなくても、子として育てることはなく、里子して出されるのは、読んでいてつらい。
 小夜衣と胡蝶は性格も容貌もまったく異なり二人で、成長して、花魁としてお職を張るって行くが、意識して、喧嘩したりいがみあるなどいろいろありますが、女の友情は切れないで続いていく。
 前半は、吉原の世界を描こうとして、いろいろと書き込んで、展開がぼけて戸惑うが、後半にむけて内容は良くなっている。二人のお店の主人を語りに話を進めることで、二人の人物象が立体的に見えてくる。

松竹座 寿初春大歌舞伎 昼の部

2011-01-17 23:33:38 | Weblog
正月の松竹座の歌舞伎の昼の部は、「土屋主税」と「男の花道」の2本。
 芝居物2本立て。
 どちらもコンパクトに芝居としてのつぼ、役者の見せ場はよくできている。
 芝居のおもしろさが楽しめたのが正直な感想。
 「土屋主税」は、忠臣蔵のスピンオフに当たる。
 吉良邸のとなりにあった土屋主税の討ち入り前後の動きに討ち入りメンバーの大高源吾の逸話をからめての話。
 鴈治郎家の家の芸であり、東京の松浦の太鼓の対にあたる。
 松浦の太鼓は、芝居がばたばたとして落ち着きがないがこちらは、シンプルでコンパクト。
 時代が大正期にあたるのでいささか、教養主義じみていて古臭さがある。
 かん雀の土屋は、土屋主税そのものであり、この殿様ならこうなるなと感じさせる。
 うまさ、下手さより、当たり役で芝居を見せられるのは役者の冥利である。
 藤十郎の主税ではうまさがあだで、照れくさかったが、かん雀にはそれはない。
 源吾に染五郎、落合に薪車、其角に橘三郎と、かん雀とのバランスのとれたいい配役。
 橘三郎の芝居を見つつ、師匠の富十郎に見せてやりかかった。
 かん雀なら、鴈治郎の家の芸、椀久末松山などの作品が日の目に見れそうである。
 次は、藤十郎、幸四郎の「男の花道」。
 これは三世中村歌右衛門と土生玄碩との友情を描いた作品。
 歌舞伎というよりも、娯楽作品に近い。
 芝居のつぼ、見せ場はよく出来ていて、藤十郎がよく舞台にかけるのは良く分かる。
 玄碩がやむに止まれぬ事情で歌右衛門を呼ばなくてならなくなる。それを伝えたの時が芝居の最中。事情を知り、芝居を一旦幕を閉め、観客を前に、事情を説明して、断りを述べて許しを得て、玄碩のもとへ駆けつける。この場面がこの芝居の見せ場であり、緊迫感がある。
 藤十郎の歌右衛門、幸四郎の玄碩ともにニンのある役で、寸法に叶う配役。
 芝居としては今月の芝居の一番の出来。
 脇に、座元に竹三郎が出ていて、一役だけというのは寂しいが、芝居に厚みが出てくる。
 あと、松之助、吉弥が脇を固めていく。
 薪車、吉弥といい、脇にいい役者が揃いつつある。いっときの歌舞伎の廃れていたころのことを思うと嬉しい限りである。

松竹座 寿初春大歌舞伎 夜の部

2011-01-13 23:11:10 | Weblog
藤十郎の「吉田屋」は、藤十郎の円熟味たっぷりの芝居。初春の歌舞伎の演目としては気楽であつ歌舞伎のおもしろさが堪能できる。
 吉田屋は松嶋屋のやり方と、今月の山城屋のやり方とではいささか異なり、松嶋屋は、廓のはなやかさを見せていくが、山城屋のやり方は、男女の情愛をこまやかに描いていく。
 吉田屋の藤屋の伊左衛門の性根はぼんぼんであり、あほのあほぼんである。
 親に勘当されても、服装が紙でまとった紙衣でまとっても、昔のぼんぼんのままであり、なよなよとゆったりと歩いて、吉田屋の店先で主人の名を呼び捨てにして呼ぶ。無礼な態度であるがまったく気にはせずに、夕霧に会いたい思いはいっぱい。
 夕霧に会いたくてまちきれずに、そわそわして、うろうろ動きまわり、こたつに上に座って夕霧を待ったり、なかなか夕霧がこないので怒って、拗ねて、不貞寝する。
 夕霧は好きでたまらないので、となりから流れる由縁の月を聞きつつ、背をもたれて、物思いにふける。
 藤十郎の伊左衛門は、お茶目でにくめないぼんぼんを演じている。
 花道の出は、上方役者の和事の味わいを充分に堪能させてくれる。
 この吉田屋では、吉田屋の女房の上村吉弥のおきさが藤十郎と充分に渡り合ういい色町の主人を演じている。藤十郎クラスでは、吉田屋の女房は、秀太郎クラスで釣り合いを取るが、吉弥のそれはまさるとも劣らない。上方にもいい役者が育ってきていることを実感する。
 扇雀が夕霧であるが、藤十郎になんとかしがみついて渡り合おうと奮闘する姿を垣間見る。
 夜の部は切に江戸川乱歩原作の「人間豹」。
 これは新作歌舞伎で、岩豪友樹子原作、幸四郎の演出。
 初演ののきは、劇評ではかなりきびしく批評されたが、見ていてそれほど悪いわけではない。
 岩豪さんは、歌舞伎をわかっている点では、野田秀樹よりは上であり、黙阿弥や南北世界をうまくとりいれている。テンポも場面展開もよく、2時間くらいでまとめている点では評価されてもいい。幸四郎も新作であるため、このひとの良さが充分に出ていて、力が出ていた。
 問題としては、初演時で渡辺保が劇評で触れていたが、演出にいくつかの問題があり、それが致命的なものを抱えていたために劇評できびしく批判があったと思う。これは仕方がないかなと見ていて感じる。
 設定を幕末に捉えているがなぜ幕末なのかが見えてこない。世紀末、不気味さ、不安定な世界を見せて生きたいのはわかるが、どうしてなのかがわからない。後半になって、が出てきて、群舞などで、ええじゃないかを思わせる、幕末を感じてくるが、それなら前半に持ってきた方がインパクトが出てくる。最初の不忍池の待合の所は、新内を使って趣向をこらしているが、なんのために乱歩の作品を使ってまで歌舞伎をしたいのかが見えてこない。
 染五郎の恩田と幸四郎の明智が対面、対決するところは、歌舞伎の趣向で出てきたが、素通りした感じで、工夫次第でおもしろくなり、この作品の見せ場になるところであった。
 前半を演出の工夫で緩急をつければ、幸四郎染五郎の新作の当たり役にはなる作品。
 再演を期待したい。
 初めは我當の八陣守護城。これは加藤清正を扱った作品で、清正のはらをみせる芝居。
 十三世仁左衛門の最後の舞台の作品で我當の所縁の作品であるが、歌舞伎を知らない人にはわかりにくい作品。我當の足の具合がよくないのを感じてしまうのが印象であった。