皆さんと一緒に考えましょう

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

自室でひとり逝った父は、最期まで生きようとしていた

2021-05-07 15:30:00 | 日記

下記の記事は日経AERAプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

叔父の話で初めて知った、若き日の父のこと
 冬。遠く離れた故郷で父がひとりで死んでいたのが見つかって、警察による検視と葬儀と火葬まであっという間の2日間が過ぎた。(前回記事参照「ある寒い冬の日、遠く離れて暮らす父が孤独死していた」)
 コロナ禍なのでごく少人数ではあったけれど、母方の叔父や叔母、これまでほとんど会ったことのない父方の叔父やいとこたちが来てくれた。
 父の弟に当たる叔父は、私の知らない若い頃の父の話をしてくれた。高校時代に合唱部の部長だったこと。やけにモテていたこと。更年期障害で動けない祖母の代わりに兄弟の食事を作ってくれていたこと。まだ父の死を現実のものと受け止め切れていない私に、笑顔混じりのとりとめのない思い出話は、大きななぐさめになった。
 今、ただの物体となった父親の肉体は焼かれて、確かに世界の一角を占めていたその存在は消え去ろうとしている。そんな時に残っていくのは、こんなたわいのない記憶だけなのだろうと思った。
 すべての儀式が終わると、私はひとり取り残された。話す相手もいなかった。一緒に泣ける人もいなかった。これからの相談ができる家族もいなかった。葬儀場から骨つぼを抱えて歩いて実家へ帰った。
 日が暮れてゆく。父がいつも座っていた台所のテーブルの一角に座って、テレビを見ながら近所のチェーン店で買ってきたお弁当を食べた。
ランチの誘いには乗りたいけれど、その後が怖い
 地元の友人に、時間と気力があれば日曜日にランチでもしようと連絡をもらった。ひとりでいるのは心細すぎたから行きたかったけれど、ランチの後にまたひとりで誰もいない実家に帰るのが怖かった。
「よければ実家に来て1日一緒にいてくれる?」
 無理を承知で頼んでみると、快く受け入れてくれた。話すうち、せっかくなら少しでも家を片付けよう、手伝うよという話になった。
片付けのため意を決して入った父の部屋にあったのは
 父には何でもため込むクセがあり、それはやがて自身の部屋には収まらず、隣の和室、さらに隣の洋室と場所を侵食していった。母や私の目からはガラクタにしか見えないものも、父にしてみれば大切な思い出の品だったのだろう。
 「もののないすっきりした家に住みたい」と母はよく言っていた。片付けようとすると「僕が死んでからにしてよ」とケンカになっていた。
 お父さん。あなたは死んだのだから、片付けさせてもらうよ。
 まずは父が死んでいた部屋に向かう。実は実家に帰ってから3日間、恐ろしくてそこに足を踏み入れることができなかった。その理由は、人が死んで1週間そのままになっていた部屋であるという怖さと、父のプライベートな領域を見てしまうという怖さの両方だった。
 思い切って部屋に入る。
 真冬の寒い時期だったので、1週間たっていたにもかかわらず、父の遺体はほとんど腐敗していなかったと聞いていた。それでも、警察で見せられた現場検証の写真が頭によみがえる。このあたりに頭があって、このあたりに足があって、うつぶせだった。じっと見てみた。何もなかった。
 ふと、ベッドの傍らに、最期の日に着ていたらしい服が一式、置いてあるのが目に入った。赤いセーターだった。喉元から胸のあたりがかなり汚れていた。気分が悪くなり、嘔吐(おうと)してしまったのかもしれない。
 倒れたとき、もう父は意識を失っていたのだろうか。それとも倒れて冷えていく自分のことを分かっていたのだろうか。苦しくはなかったか。さびしくはなかったか。後悔はなかったか。またぐるぐると頭を自責の念がめぐり始めた。
 だめだ。この部屋を片付けることは、当面できそうにない。
冷蔵庫に残された1週間分のスープとおかゆの鍋
 2階にある父の部屋から1階に下りて、台所を見渡した。父が、日中ほとんどの時間を過ごしていた場所だ。流しに最後の食事に使った食器が水につけられていたので、洗った。
 冷蔵庫を開けてみると、調理した野菜スープの鍋とおかゆの鍋があった。しばらくはこれを食べるつもりだったのだろう。
 父は25年前の定年直前、長く続く激しい歯痛に悩まされ、最終的には大学病院に歯肉がんと診断された。治療は下顎を取り去る大手術。下顎を取ってしまうということは、顔の形が変わるのですか?と聞いた当時の私に、担当医は「少しお顔が変わるかもしれません」と言った。結果は、少しどころではなかった。
 完全にそれまでとは変わってしまった容貌と、咀嚼(そしゃく)もできず話す言葉が聞き取れない口。娘ながらになかなかの男前だと思っていた顔はもう、そこにはなかった。1996年のことだ。医療法に「説明と同意」の義務が記載されるようになったのは、97年のことだそうだ。インフォームド・コンセントという概念は、まだ患者の側にも、もしかしたら医師の側にもなかった時代だ。
 目を背けたくなるほどの異様になってしまった顔に、食べることもほとんど話すこともできなくなった口。家族よりショックを受けたのは本人だったかもしれないけれど、死ぬまでただ一度たりとも愚痴を聞いたことはなかった。我慢強い人だった。
 流動食を流し込むようにしか口に入れられないため、好きな材料を買ってきて調理したのちにミキサーにかけてスープ状にし、おかゆにかけて時間をかけて食べるようになった。母の手は借りず、すべて自分でやっていた。
 1週間分ほども料理が残った鍋の中身を見て、父は生きるつもりだったのだと思った。命の炎が尽きていこうとしていることにおそらく気づきながらも、少なくとも、最期の瞬間まで生きようとしていたのだ。
生ものと大量のペットボトル、牛乳パックと格闘
 翌日が日曜日だった。数日後には実家を離れて東京に帰ることを思いだし、まず片付けるべきなのは台所にある生ものだと気がついた。来てくれた友人たちに、台所にある野菜や冷蔵庫に入っているものを捨ててもらうことから始めた。
 問題はペットボトルだった。飼っていた猫4匹が壁におしっこをひっかけるからと、2リットルのペットボトルに水を入れて壁という壁の際に置いてあり、その数は100本を超えるほどだった。ひとりの友人が昼から夜までそのペットボトルの処分に追われた。
 もうひとりの友人は、生ものの次に牛乳パックに取りかかってくれた。牛乳パックを切り開き、乾かして束ねて捨てるのが故郷の自治体の決まりだ。マメな性格だった父は、数え切れないほどの数の牛乳パックを切り開き乾かしていたけれど、捨てずに大量に置いてあった。
 束ねるものは他にもあった。新聞だ。日がな1日、新聞とチラシを読んでいた父はきれいに新聞を重ねて置いていたけれど、これも大量にあったのだ。なぜこんなに多くの牛乳パックや新聞を置いたままにしていたのか。その答えはおそらくただひとつ。捨てに行く気力も体力も、もはや残っていなかったからだ。
分別が済んだ大量のゴミを前に…衝撃の現実
 台所を片付けていると出てくる瓶や缶、プラスチックといったゴミも実に細かく捨て方に決まりがあり、友人たちに聞いても聞いても覚えられなかった。これらを分別して指定の袋に入れ、決まった日にゴミ捨て場に運ぶのは、老いた父にとってはかなり苦労をともなう作業だっただろう。
 1日かけてものすごい数のゴミ袋と紙類の束ができたけれど、友人たちが帰る頃になって気がついた。
 「これ、いつ捨てるんだろう……?」
 実家から少し歩いたところにあるゴミ捨て場に確認に行くと、なんということだろう。私の滞在中に紙類とペットボトルを捨てられる日がない。紙類は週に1回、ペットボトルに至っては月に2回しか捨てることができないのだ。
 この大量のゴミを実家に置いたままにして、東京に帰らなくてはならないのか。
 友人たちが帰り、また暗い夜がやってきた。私はゴミ袋に囲まれ、途方に暮れてしまった。



コメントを投稿