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森進一「貧しい暮らし、集団就職…将来の夢もなかった10代。個性的な声を武器に芸能界へ」

2021-10-24 15:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論.jpからの借用(コピー)です

独特のハスキーボイスと心揺さぶる歌唱力で人々を魅了する森進一さん。数々のヒット曲を持ち、昭和・平成・令和を股にかけて活躍してきた功績が高く評価され、デビュー56年目にあたる2021年、春の叙勲において旭日小綬章を受章した。その激動の半生を振り返ると――(構成=丸山あかね 撮影=本社写真部)
賞とか紅白出場とか、意識するほうではない
この春、はからずも受章の栄に浴し、身に余る光栄と感激しました。ひとえに応援してくださる皆様のおかげと心から感謝しています。
もともと僕自身は、あまり賞とか『NHK紅白歌合戦』に出場とか、そういったことを意識するほうではないんです。ステータスにこだわり始めたらキリがないし、欲に翻弄されると心が疲弊してしまうし……。余計なことを考えずに淡々と仕事をこなすほうがいい、と若い頃から考えていました。
もちろん一時はもっともっとと高みを目指していたこともあります。歌がヒットすれば嬉しいし、周囲の期待に応えたいと夢も見た。芸能界で生きていくことに限らず、人が充実した人生を生きるうえで、夢を持って「こうなりたい」とビジョンを描くこと、そして夢に向かってエネルギッシュに邁進することは大切な経験だと思います。
でも、やがて野心の季節は過ぎ去り、僕は「こうはなりたくない」と考えるようになりました。それを一言で言えば、「無様な姿は晒したくない」ということ。人からどう見えるかではなく、たとえば声が出ていないといったことがあれば自分が一番よくわかるから、意地を張らないようにする。そこで無理をすれば、自分がつらい。
それでいつの頃からか、上り坂から平坦な道へ移行するタイミングを見計らって、73歳のいまは、欲や損得にこだわることもありません。「年だから」と諦めたわけではなく、「何にでも終わりはある」「世代交代は世の常」と自分の心を納めたという感じでしょうか。
それにしても人生というのは不思議なものですね。自分の意思とは無関係に流れていく。いまでも僕は、ステージに立っている時にふと、「これは現実だろうか?」と感じます。「どんな運命の流れで、スポットライトを浴びながら大勢の人の前で歌を歌っているのだろうか?」と……。
夢も希望もなかった貧しい子ども時代
とても貧しい少年時代を送りました。両親が離婚したのは、僕が10歳の時。病弱だった母は僕と当時3歳の妹と1歳の弟を連れて、家族で暮らしていた山梨県の家を出た。静岡などを経由して、最終的に親戚のいる山口県へ引っ越します。
でも母が計画していたとおりにはいかなかったのでしょう。市の母子寮に身を寄せ、生活保護を受けざるをえない状況になりました。仕方のないことだとはいえ、子ども心に、貧乏って嫌だなと思うことをたくさん経験しました。
たとえば中学校では、生活保護を受けている生徒には制服や教科書が支給されていたのですが、先生が無神経に僕の机の上にポンと置くんですよね。給食については名簿があって、給食代を払った人はマル、まだ払っていない人はバツと記号が書かれるのですが、僕のところには、サンカクがついていました。そんな日々を過ごすなか、誰に対しても心を閉ざしていたので、僕には友達がいませんでした。
毎日朝4時に牛乳配達、夕方は新聞配達。当時、放し飼いになっている番犬が怖くてね。それでも仕方ないから配達に行く。家計を助けるためというより、学校で使うものを買うお金がほしかった。友達が持っている筆箱とか筆記具がほしくても、苦労している母に買ってくれとは言えなかったから。
中学3年の時、僕ら一家は母の故郷である鹿児島へ引っ越し、母は乾物屋を始めましたが、相変わらず暮らし向きは苦しかった。僕は中学を卒業すると、集団就職で大阪へ行きました。
歌手になるなんていう発想もない
最初に就職した寿司店は、住み込みで月給5000円。いまの貨幣価値に換算すると5万円くらいでしょうか。あまりにも低賃金だったし、先輩からはいじめられるし。自分は長男なのだから働いて家族に仕送りするのは当然だ、というある種の正義感を持って社会に出たのに、ズルくなければ生きていけないのかと思うような出来事の連続で……。世の中、正義なんてないんだと落ち込み、こんなところにはいられないと1ヵ月で店を辞めて鹿児島へ戻りました。
その後は職を転々と。調理師見習いをしたり、キャバレーでバンドボーイをしたり、鉄工所や運送業、飲食店で働いたり、17種類くらい仕事をしたかな。住み込みで働けるなら職種は何でもよかったんです。とにかく一日も早く一人前に稼げるようになって、そして、母と一緒に暮らしたかった。
当時の僕の生活は、職場で働いているか、住み込み先で寝ているか。これといった楽しみもなければ、将来の夢もない。ただ母には、「僕が大きくなったら、門から玄関まで距離のある大きな家に住まわせてあげる。お母さんは大きな座布団に座って何もしなくていいよ」と言っていました。
歌うことは好きでしたが、テレビを観たことがなかったので歌手になるなんていう発想もない。仮に憧れていたとしても、東京はいまの感覚で言えばニューヨークくらい遠かった。第一、どうやったら芸能界に入れるのか皆目見当もつかない、そんな時代の話です。
「母には、「僕が大きくなったら、門から玄関まで距離のある大きな家に住まわせてあげる。お母さんは大きな座布団に座って何もしなくていいよ」と言っていました」
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個性的な声で勝ち抜いてデビュー
――苦労の連続だったが、人生の転機は近づいていた。再び大阪に出て串カツ店で働いていた時、お客さんから「君は東京に行けばいいのに」と言われた森さんは、芸能界に関心を持つようになり、18歳で上京。居候先の叔母に勧められ、のど自慢大会に出場すると5週連続で勝ち抜き、優勝を果たす。
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アントニオ古賀さんの「その名はフジヤマ」とか、安達明さんの「女学生」などを歌いました。のど自慢大会の審査員だったチャーリー石黒さんにスカウトされて弟子入りしたのですが、なかなかプロになれなかった。
洋楽に長けておられたチャーリーさんによれば、僕は個性的な声の持ち主。でも一般的には、僕のハスキーボイスは「ありえないかすれ声」として、当初酷評されました。
紆余曲折を経て、1966年、ポップス系の歌手ではなく、後に「演歌」と呼ばれるようになるジャンルでデビューすることになりました。でも、いまでも自分のことを演歌歌手だとは思っていません。僕は「流行歌歌手」なんです。
そういえばデビュー後に、歌番組の現場に来ていたジャニー喜多川さんから、「僕のところに来ない?」と誘われたことがありました。すでに別のプロダクションに所属しているのに変なことを言う人だなと思ったのですが、その後親しくなって交流を深めました。知り合う人たちのキャラが濃くて、みんな情熱的で……。僕の歌手としての歩みは、歌謡界の盛り上がりともにあったのですよね。

飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムを駆け上った
――66年、18歳の時に歌った「女のためいき」が80万枚を超える大ヒットとなり、翌年には「命かれても」、68年「花と蝶」がミリオンセラーに。そして同年、『紅白歌合戦』に初出場。69年、「港町ブルース」で日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞……と、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムを駆け上った。
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成功するために相当な努力をしてきたのでは、と問われても、正直なところ努力したとは思っていません。とにかく目の前のことで毎日精いっぱい。さらにいうと、僕は「努力って、重要なものなのだろうか」と疑問に思うのです。だって「努力すれば報われる」とよく言われますが、成功が保証されているわけではないし。
じゃあ、成功するためには努力以外の何が必要かという問いにもうまく答えられません。僕の場合は、目には見えない人の縁があったこと、それから時代に応援されたということが、ありがたかったとは思います。
いまになって思うのは、自分には、歌によって人の心に寄り添ったり、元気づけたりするという使命みたいなものが与えられたのかなということ。ファンの方から「森さんの歌を聴くと、家族みんなで歌番組を観ていた頃にタイムスリップして、あたたかな気持ちになります」なんて言われると、歌い続けてきた甲斐があったなと感じます。

森進一「母の死でどん底に叩き落され、息子たちの成長を喜び…一筋縄でいかないのが人生」

母がいないなら歌う意味がないと
東京・世田谷に一軒家を借りて、鹿児島から家族を呼び寄せて暮らし始めたのは、22歳の時でした。気づけば夢を叶えていたのです。でも忙しすぎたせいか、当時のことはほとんど記憶にありません。
翌71年に発表した「おふくろさん」も大ヒットして、そこでようやく成功を収めたように見えますが、いいこと100パーセントの人生というのはないんです。言うに言われぬ嫌なことがたくさんありました。なかでも母の死がつらかった。歌手にさえならなければと、失意のどん底に叩き落とされました。
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――72年3月、森さんが婚約不履行で訴えられるという騒動が起きた。のちに一面識もないファンの虚言だったことが判明するのだが、大きな悲劇を招いてしまう。訪ねてきた女性に自分がお茶を振る舞ったせいだと責任を感じた母が、73年2月、自宅で自ら命を絶った。
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僕は巡業先の長崎で母の訃報を受け取りました。とても受け入れられるものではなかった。もう歌は歌えない、母のために歌い始めたのに、母がいないなら歌う意味がないと引退を考えました。
でもその後、僕はまた歌に救われたのです。新曲として提供されたのは、岡本おさみさんと吉田拓郎さんという、フォーク界を代表するコンビによって作られた「襟裳岬」(74年)という楽曲。「日々の暮らしはいやでもやってくるけど静かに笑ってしまおう」という歌詞に心を打たれ、この歌で新たに出発しようと思ったのです。
僕が心から賞がほしいと望んだのは、後にも先にもこの時だけ。ありがたいことに日本レコード大賞をはじめ、たくさんの音楽賞をいただくことができました。きっと母も喜んでくれたと思っています。
息子たちは僕の誇りです
――80年に女優・大原麗子さんと結婚。82年、「冬のリヴィエラ」(松本隆作詞、大瀧詠一作曲)を発売、ポップス系のファンも獲得。86年に再婚した歌手・森昌子さんとの間に3児をもうける。2度の離婚、闘病を経て、デビュー50周年を迎えた2015年、『紅白歌合戦』のトリで「おふくろさん」を披露(以降の出場辞退を発表)。その後も舞台やステージで活躍を続ける。
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僕は弟の死も経験しています。11年、ハワイ公演の帰国直前、闘病中だった弟が亡くなったと連絡が入りました。家族には僕の帰国を待ってもらい、羽田空港に着いた足で向かって通夜と告別式に出席。かつて僕が働いてお金を仕送りしていたので、弟が医学部に行った時は嬉しかった。その自慢の弟との別れもつらかったです。
母の死後、いろいろと悩んでいる時に、誰かにもらって家にあったショーペンハウアーの哲学書を読んでびっくりしました。「正義が大事」と考えてきた自分を肯定してくれる言葉の宝庫だったのです。ここから哲学書にハマり、思想家・安岡さんの本などを現在に至るまで繰り返し読んでいます。
生きていくうえで、正義が大事なのは真理だけれど、それ以前に人間力が必要とも思っています。いずれにしても一筋縄ではいかないのが人生――といった話を、息子たちに会った時に説いて聞かせるのですが、伝わっているのかどうか。「お父さんがまた理屈っぽいことを言い出した」と思われているのではないでしょうか。(笑)
もっとも、僕が貧しい生活環境で1から積み上げてきたとしたら、両親が歌手で、いろいろなものが手に入る時代に育った息子たちは、7くらいから始めているわけで、何かと要領がいいんですよ。長男(ロックバンドONEOKROCKのボーカル・Takaさん)は海外で活動し、世界的に活躍する人たちを近くで見ているだけに、こちらが教えられることのほうが増えてきました。次男は会社員になりましたが、三男(ロックバンドMY FIRST STORYのボーカル・Hiroさん)は森内寛樹としてソロ活動も始め、頑張っているようです。
実のところ、息子の芸能界入りについては、諸手を挙げて賛成というわけではありませんでした。僕はたまたまヒット曲に恵まれたけれど、そんなに甘い世界ではないから。百歩譲って「学生時代は学業優先なら」と音楽活動を許していたんです。それなのに勝手に高校を中退したりすれば、それは怒りますよね。長男とは親子喧嘩になったりもしましたよ。紆余曲折のあった親子関係も、ようやく結果オーライになったと思います。
先日お墓参りに行った折に、三男が「僕たち全員、自立したね」と言うのを聞いて、親としての幸せを実感しました。みんな健康で脇道にそれずに育ってくれて、好きなことを仕事にして輝いている。息子たちは僕の誇りです。

一人暮らしは忙しい
一人暮らしの70代になって、自分のことは自分でやるしかありません。2度目の離婚後に何でも自分でやろうと決めた。買い物にも行くし、食事も作るし、掃除や洗濯もします。だから僕、オフの日でも朝から忙しいんですよ(笑)。
今後の抱負としては、コンサートのためにも健康でいることですね。そして、いつかはわかりませんが仕事の引き際を見極めたいというのもあります。いまの心境は、「雨が降ってからでは遅い。傘が要らないうちに帰らなくては」というイメージ。そのためには、ちゃんと視野を広げて、世間の動きを読み、自分を客観的に見つめることが大切と思います。
デビューして56年目、おかげさまで昭和・平成・令和と歌い続けることができました。いまでも、歌とは不思議なものだと思います。昔の歌を聴くと「懐かしいな」と感じるのは当然としても、自分が好きだった曲を聴くと、瞬時に「あ、この曲好き」という当時の気持ちが瑞々しく湧き上がってきませんか。
引退するまでにはまだ時間がありそうなので、今後も一曲一曲を丁寧に、心を込めて歌っていきたい。聴いてくださる皆様に喜んでいただきつつ、有終の美を飾ることに努めたいと思っています。
森進一
歌手
1947年山梨県生まれ。66年にシングル「女のためいき」でデビュー。「港町ブルース」「おふくろさん」「襟裳岬」「冬のリヴィエラ」「北の螢」などヒット曲多数。日本レコード大賞など受賞多数。2020年、デビュー55周年記念シングル「昭和・平成・令和を生きる」をリリース  


「高齢の親の容態が急変しても119番通報してはいけない」上野千鶴子がそう力説する理由

2021-10-24 13:30:00 | 日記

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高齢の親の容態が急変したとき、子供はどうするべきか。社会学者で東京大学名誉教授の上野千鶴子さんは「間違っても119番通報をしてはいけない。こんなはずではなかったと後悔することになる」という。上野さんの著書『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)より紹介する――。
かつては自宅で死んでいた日本人
いまでも日本人の多くは「死に場所は病院」と考えているようですが、病院死以前には、日本人は在宅で死んでいました。
病院死と在宅死の割合が逆転したのは1976年、そんなに昔のことではありません(図表「病院死と在宅死の割合」参照)。死にかけている年寄りを病院に担ぎ込むことを、日本の家族はながいあいだ「常識」だと思ってきました。
ですが、病院は死なす場所ではなく生かす場所。
とりわけ119番すれば延命治療は専門職の必須の使命です。ふしぎでしかたがないのは、年寄りの容態が急変したら119番し、場合によってはすでに絶命していても119番をダイアルしてしまう家族の行動です。これでは延命治療をしてくれ、蘇生処置をしてくれ、と頼んでいるのと同じ。その後で、こんなはずじゃなかった、と悔いることになります。最近ではようやくその「常識」に疑いが持たれるようになりました。
若い人が感染症や事故に遭う場合には、病院に駆け込むことには効果があるでしょう。ですが、死が予期された高齢者に無理な延命治療をしてどうなるでしょうか。「最期は病院で」という考え方には、医療が稀少資源だった過去の名残りがあるような気がします。いまわの際に一度でいいから、オヤジを医者に診せてやりたかった、と。
ですがもうそんな時代ではありません。このところ、病院死の割合がようやく減少に転じて、代わって在宅死と施設看取りが徐々に増えてきました。施設ですら、かつては終末期の年寄りを病院にかつぎこんだものですが、ようやく施設のなかで看取りを実践するようになってきました。
日本人の死因のほとんどは加齢による疾患
この在宅死の流れは、決して過去に戻る動きではありません。なにしろ「在宅」と言っても、そこにもはや家族はいないか、家族介護力をあてにすることができなくなっています。それに現在の「脱病院化」は、「病院化」が一周したあとの、新しい在宅死です。というのは、地域の医療・看護資源が、かつてなく充実してきたからです。
日本人の死因からわかることは、大量死時代の大半の死が、加齢に伴う疾患からくる死だということです。すなわち、予期できる死、緩慢な死です。幸い介護保険のおかげで、多くの高齢者がケアマネージャーにつながります。
介護保険の要介護認定率は高齢者全体では平均2割程度ですが、加齢と共に上昇し、80代後半では5割、90代では7割から8割に達します(国立社会保障・人口問題研究所、2012年)。つまり多くの高齢者は死ぬまでの間に要介護認定を受けるフレイル期間を経験しますので、たとえのぞんでも、ピンピンコロリなんてわけにはいかないのです。
要介護認定を受けた高齢者は、ケアマネがつくだけでなく、疾患があれば訪問医と訪問看護師につながります。在宅のままゆっくり下り坂を下って、ある日在宅で亡くなる……ためには、医療の介入は要りません。医療は治すためのもの、死ぬための医療はありません。医師の役目は、介入を控えること、そして死後に死亡診断書を書くことです。
救急車で運ばれてくる高齢者が増加
では、年寄りの容態が急変したり、死にかけの現場を発見したら、どうすればいいか、ですって? まちがっても119番しないことです。
都内の病院で救命救急医療に30年以上携っている浜辺祐一医師と対談したことがあります。救急現場という人生が一瞬のうちに凝縮したような現場に身を置いて、そのエピソードを洒脱なエッセイで綴ったシリーズが人気の、腕も立つし筆も立つドクターです。
交通事故などで一刻を争う瀕死の患者を、切ったり貼ったりして救命する現場で、自分のやっていることがたったいま求められる価値ある行為であることに、強烈な使命感を感じるとのこと。その快感が、彼を現場につなぎとめてきました。ドーパミンとアドレナリンが大放出するこんな緊張感あふれる現場に、アディクトする(病みつきになる)気分もわからないではありません。
救命救急現場の近年の急激な変化は、救急車で運ばれてくる高齢者が増えたこと。保もたせて数日から数週間の延命を施しながら、これが絶対に求められているという確信を持つことが難しくなり、へたに延命治療を施したばっかりに、あとから家族に恨まれることもあるとか。
そんなら最初から119番しなきゃいいんですが、気も動転した家族がつい119番してしまうんだそうです。それというのも、これまで119番する以外の選択肢を、家族が知らなかったからでしょう。
救命救急の医療現場が機能麻痺に陥る
浜辺さんは、多死時代を前にして、このままの勢いで高齢者の救急搬送が増えたら、救命現場が機能麻痺してしまう。何歳以上は救急車の出動を受け付けないとか、決まりをつくる必要があるんじゃないか、とすら言いそうでしたが、それでは年齢で生命の選別を行うトリアージになってしまいます。
東京都内では区内の救急病床が埋まっていれば、互いに融通し合う連携システムができあがっているそうですが、そのため各区をたらいまわしされて、病院に到着する時間が遅れる傾向があるとか。救命救急現場を機能麻痺させないためにも、利用者の側の自制が必要でしょう。
119番する前に、家族がまずすべきことは、訪問看護ステーションに連絡することです。
訪看ステーションは24時間対応を義務づけられていますから、状況を聞いてどうすればいいかを判断してくれます。必要なら主治医に連絡してくれたり、夜間の訪問もしてもらえます。ときどき耳にするのは、夜間に連絡した主治医が119番するように指示することもあるとか。もちろんそれが必要な場合もあるでしょうが、自分の出番を避けたいばかりに、安易に119番につなぐ原因を、医師が作っていることもあります。
実際にあった例では、訪問看護師が主治医に連絡したところ、どうしても連絡がつかず、代わって24時間対応を謳うたっている地域の別の在宅医に臨時の対応を要請し、夜間に往診したとのこと。後から主治医に「余計なことをしてくれた」と文句を言われたとか。いろんな医者がいるものですね。
緊急時の連絡先のメモを貼っておこう
訪看ステーションにつながらないことはまずありませんが、それがだめなら主治医に、それからケアマネに、そして訪問介護事業所の緊急対応窓口へ、順番に電話をかければOKです。もしご本人にその余力が残っていたら、自分で携帯電話で連絡すればよいだけです。らくらくホンで、ワンタッチダイヤルの1から順番に連絡先を入れておきましょう。
わたしと共著で『上野千鶴子が聞く 小笠原先生、ひとりで家で死ねますか?』(上野千鶴子・小笠原文雄、朝日新聞出版、2013年)を書いた日本在宅ホスピス協会会長の小笠原医師は、患者さんのお宅の枕元に、緊急時の連絡先として以上の電話番号を優先順位をつけて大きな数字で記したメモを貼りだしておくとのこと。
もうひとつ、わたしが不思議でならないことがあります。
それは自分で電話をかけられる力のある高齢者が、緊急時に遠く離れて住んでいる子どもに電話することです。駆けつけるのに何時間もかかる距離にいる息子や娘に知らせるより、15分で来てもらえる訪問看護師や介護職の方が緊急時にはもっと役に立つと思うのですが。
子どもたちだって医療や介護についてはしろうとです。にわかに判断はつきません。それに親が利用者になっている事業者の連絡先を知っているともかぎりません。途方に暮れるだけでしょう。そのうえ、昔なら夜中に連絡があっても、電車の始発まで動けない、ということもあったでしょうが、自動車で移動できる今日、その言い訳はききません。
親から緊急の電話があるたびに、4時間かけてクルマを走らせる孝行息子の話を聞いたことがありますが、なんでご近所のプロに頼まないのか、と釈然としません。
「そろそろですね」を受け止めよう
自治体によっては、緊急コールボタンを配布しているところもあります。
ですが、それも申請のあった高齢者だけです。その緊急コールボタンさえ、敷居が高くて押せない、だから子どもに連絡してしまう……という年寄りもいます。緊急コールボタンがそのまま119番に連動しているところさえあって、笑っちゃいました。
庶民感情としては119番するのってハードルが高いもの。そんな気軽にダイアルするわけじゃありません。それよりハードルが低いからと、自治体の緊急コールボタンがあるのに、それが119番につながっているようでは何のためにあるかわかりません。
上野千鶴子『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)
視察に訪れた北欧では、訪問介護につながる在宅の高齢者には、事業所が緊急コールボタンをわたしていました。それもトイレや風呂場で倒れたら手が届かないことを配慮して、首から下げるペンダント式でした。
あるひとり暮らしの男性高齢者をご自宅にお訪ねしたときには、ペンダントはデスクに置いてあり、たまたま訪問していた娘さんが、「首にかけておいてって言っても、言うこときかないのよ」と嘆いておられましたが。
心配いりません。加齢に伴う死は、穏やかなゆっくり死。「そろそろですね」という医療や介護職の予測は、ほぼ当たります。119番したばっかりに火事場の大騒ぎのような死に目に逢わなければならないことは、避けられます。そのためには、大量死時代の死の臨床像が変わったことを、もっと多くの人が知ること、そして病院死が決してのぞましい死ではないことを、学ぶことです。
上野 千鶴子(うえの・ちづこ)
社会学者
1948年富山県生まれ。京都大学大学院修了、社会学博士。東京大学名誉教授。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。


「聞く耳を持たなかった」秋篠宮さまは宮内庁長官へ思わず苦言を…悠仁さまに施す“帝王学”で真価が問われる

2021-10-24 11:00:00 | 日記

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宮内庁長官への苦言は教訓に
 秩父宮や高松宮、そして三笠宮の弟宮たちは、昭和天皇の時代にその意思を代弁する役は求められなかった。天皇は神格化されていく一方で、日常的には国民の前に姿をあらわさなくなっていくのだが、秩父宮はある時期に明治神宮体育大会などに積極的に出席を求められている。天皇にかわって視覚上の代弁者になってほしいというのであった。
 秋篠宮は新しい御代で、上皇となられる陛下や、新天皇に即位される皇太子が立場上触れにくいことを国民に伝える代弁者の役割も果たされることになるかもしれない。2021年、悠仁さまのお誕生日に際してのご近影 宮内庁提供
 そういった将来像が垣間見えたのが、お誕生日会見での「大嘗祭」(天皇の即位後最初の新嘗祭)についての発言である。
 発言は、次のような趣旨だった。
「大嘗祭は絶対にすべきものだと思う。ただ、宗教色が強いものであり、それを国費でまかなうことが適当かどうか疑問だ。平成のときの大嘗祭も国費でまかなうべきでないと考え、多少意見を言った。今回は、前回を踏襲することが決まってしまったが、今でもすっきりしない感じを持っている。私はやはり内廷会計で行うべきだと思っている。相当な費用がかかるが身の丈にあった儀式の形で行うのが本来の姿ではないか――」
 国費の負担軽減の観点から、秋篠宮の言葉は国民に好意的に受け止められた。私自身、これほど明確に発言されることに驚き、その内容には共鳴した。記者との質疑応答の中でごく自然に発せられたと聞くが、日ごろの持論だとも考えられた。
 この発言が重要だと思われるのは、費用云々のことよりも、「宗教色が強いものであり国費でまかなうことが適当か」という問いかけのほうである。秋篠宮は、より本質的に、政教分離のけじめを国民に訴えかけたのである。こういう本質的な問いかけが皇室の側からあったことを国民は重く受け止めるべきだろう。政府と対立することを恐れずに発言したことについて、私は秋篠宮を高く評価したい。
「聞く耳を持たなかった」という強い言葉
 一方、秋篠宮の発言の後半には、長官らへの苦言もあった。
 大嘗祭の費用について、「宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ、残念ながら(中略)話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」と語ったというのである。
 この発言について、私は注意して受け取る必要があると考えている。私たちは、社会生活や人間関係の中で、「聞く耳を持たない」という言葉がどれほど強い言葉かというニュアンスが分かる。しかし、皇族にはその機微を学ぶ機会は限られている。
「聞く耳を持たなかった」というのも、社会で用いる強い批判の意味はこめられていなかったのではないか。言葉の理解を私たちと共有していない可能性がある以上、天皇家が用いる言語感覚を読み解く素養は、私たちにも求められるように思う。
 秋篠宮が発言する機会は今後増えるだろう。今回のような言葉が強い意味を持ちうることは、側近の者が秋篠宮に伝えなければならない。秋篠宮と宮内庁長官の関係がどうあれ、結果的に、この発言は秋篠宮と宮内庁、そして皇室と政治の対立を印象付ける結果になってしまった。5月から迎える新しい御代には、重要な教訓となるのではないか。
職員が調べた行啓リスト
 美智子皇后の第二皇子への思いは、やはり皇太子の補佐役として、あるいは皇統を守ることへの覚悟を促し、見守ることにあるのだろう。同時に皇后ご自身の役割を歴史の中に位置づける意識を常にお持ちになっておられるようだ。
 私は昨年10月、皇后のお誕生日のおことばを受けて、朝日新聞に次のような一文を寄せた。
〈明治以降の歴代皇后は天皇を後ろから支え、積極的に目立つことを控えた。一方、美智子さまは天皇陛下から一歩引く姿勢を見せつつ、発信や姿を見せることを通し、国民に存在感を示してきた。これは、歴代皇后像の中で大きな変革を起こした〉
 私としては、昭憲皇太后、貞明皇后、香淳皇后の近代日本の三人の皇后よりはその存在意義が大きいと考えていた。しかし後日、ある宮内庁職員から、私に誤解があるようだとの指摘を受けた。
 明治時代の昭憲皇太后がどれほど社会福祉施設やさまざまな機関を行啓されているか、大正時代の貞明皇后も、昭和時代の香淳皇后もどれだけ行啓され、そしてそのような社会活動を活発に行っているか、それらを図示したものを見せられた。この施設には90回、どこそこには120回とか、とにかく具体的に正確に調べあげられたリストだった。
 その宮内庁関係者は資料を示しながら、「歴代の皇后もこのようにご公務をなさっていた。平成に入ってからこれまでと異なる、新しいことをなさっているのではない」と説明した。「なるほど」と、私は納得した。決して美智子皇后だけが特別なのではないというのであった。
 これは自戒にもなるのだが、皇室報道にはまだ充分な調査も行わないでという形が多いようにも思う。むろんそれは報道する側にも問題はあるとも考えられるが、秋篠宮はそういう状況を敏感に感じ取り、宮内庁記者会などとの会見では、代弁者の役を買って出ているのかもしれない。誰かが行わなくてはならない役を引き受けているのかもしれないと考えることもできる。
平成は「天皇と政治と災害」
 昭和という時代を表すキーワードが「天皇と戦争と国民」だとすれば、平成は「天皇と政治と災害」と総括することができるのではないか。
 それでは次の御代の特徴は何かと考えると、私は「天皇と科学技術とナショナリズム」ではないかと思う。
 科学技術については、AIやロボットなどの技術革新がさらに進み、医療や戦争において人間の手を介在する場面が少なくなる。そのときにヒューマニズムは変質するのではないか。機械化された医療や、生身の人間が戦地で戦わない戦争においては、ルネッサンス以来の「人間主義」は自然と廃れる。
 また、グローバル化が一層進展すれば、各国のナショナリズムも変化する。地球規模で国の利益を調整しながら、環境問題や経済問題を考える必要が生まれるだろう。
 実はそう考えると、皇太子や雅子妃は新時代にふさわしい存在なのかもしれない。皇太子の水の研究は、政治とは異なる次元で地球環境に貢献できる分野であろう。雅子妃の国際性は言うまでもない。
悠仁さまにも「帝王学」を施すことになるとすれば
 しかし、価値観が流動化する国際社会においては、新しい天皇が身をもって存在価値を示していくことが必要になる。平成の天皇・皇后は考えに考え抜いた末に、共に助けあい、行動する「象徴天皇」像をつくりあげたのである。
 平成最後の年、天皇は誕生日(12月23日)に向けての記者会見で16分強にわたり、自らのメッセージを国民に向けて発表した。幾つかの場面では、声をつまらせ、涙ぐんで、沖縄への思い、被災者への心配り、そして戦争の犠牲となった人たちへの追悼などを述べられた。
 そのなかで譲位することにふれ、「新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」との思いを発している。「天皇を支える皇嗣」という役割を秋篠宮にも託している。第二皇子の役割を、天皇みずから伝えたことになるが、それをどのように具現化していくかは、秋篠宮の考えや判断によることになる。
 悠仁さまにも「帝王学」を施すことになるとすれば、その役割はますます重くなり、名実ともに真価が問われることになるはずである。

保阪 正康3時間前
source : 文藝春秋 2019年2月号


眞子さまの"複雑性PTSD"、「中学時代のトラウマ」とは何か? そこから見えること

2021-10-24 10:00:00 | 日記

下記の記事は現代ビジネスオンラインからの借用(コピー)です。

秋篠宮家の長女眞子さま(29)と小室圭さん(30)の結婚が正式決定し、婚姻届提出と2人の記者会見が10月26日に迫っている。小室さんの母親の金銭トラブルや疑惑、それへの対応が世間の強い批判を受ける中での結婚。眞子さまはバッシングが原因で、複雑性心的外傷後ストレス障害(複雑性PTSD)という精神疾患を患っていたという。
病気を抱えながらの記者会見で何を語るのか、トラブルや疑惑に対する説明はあるのか、注目が集まるが、その一方で私が気になるのは「眞子さまが"中学生の頃から"誹謗中傷に精神的負担を感じていた」と発表された点だ。
長期にわたる反復的トラウマ
結婚決定の正式発表は、10月1日、秋篠宮家のお世話をする宮内庁「皇嗣職」のトップである加地隆治皇嗣職大夫によって行われた。そこに見慣れぬ医師が同席したため、記者たちの間に緊張が走ったという。長期にわたる週刊誌やインターネット上での批判により、眞子さまが体調を崩すのではないかという心配は、以前からあった。
同席したのは、NTT東日本関東病院の精神科医秋山剛氏で、「眞子内親王殿下は、ご結婚に関する、ご自身とご家族およびお相手とお相手のご家族に対する誹謗中傷と感じられる出来事を、長期にわたり反復的に体験された」結果、複雑性PTSDと診断される状態に至った、と説明した。
複雑性PTSDは、日常的に繰り返されるトラウマにより起きる症状で、虐待のような悲惨な体験を長期間続けた人に適用されることが多い。心的外傷後ストレス障害(PTSD)が、戦争や災害、事件などで直接生命の危険にさらされた人などに当てはまるのに対し、複雑性PTSDは、一つ一つはそこまで深刻な体験ではないものの長期間にわたって反復的に受けるトラウマで引き起こされるという。
眞子さまの状態がこの診断名に当てはまるのかどうか、疑問視する声も少なくないが、診断の真偽のほどについては、ここでは触れない。ただ、眞子さまが複雑性PTSDと診断された時期について、加地大夫は「説明を控えたい」としか言わなかった。
眞子さまが複雑性PTSDだったとすると、その直接の原因は結婚をめぐるさまざまな批判にあるのだろう。しかし秋山医師による説明の前に、加地大夫は「眞子さまは中学生の頃から、身近な方々やご自身に対する誹謗中傷と感じられる情報を日常的に目になさり、精神的な負担を感じておられた」と話し、いわゆる「トラウマ」が"中学生の頃から"のものであり、自分だけでなく"身近な人々への中傷"も含まれていることを明かした。
中学生時代からの誹謗中傷とは?
眞子さまが中学生だったのは2005年前後のこと。3年生だった2006年の9月には、弟の悠仁さまが生まれている。皇室にとっては、父の秋篠宮さま以来41年ぶりの男児誕生。秋篠宮家は皇統の危機を救ったとも言われ、仲の良い理想的な家族としてメディアに取り上げられていたはずだ。「身近な方々」と言われれば、まず「家族」を連想するが、当時の秋篠宮家がバッシングを受けていたとは思えない。
では、その頃誹謗中傷を受けていた「身近な方々」とは誰のことなのか。それは、当時の皇太子(現在の天皇陛下)ご一家しかないように思う。
皇太子妃時代の雅子さま(2005年)〔PHOTO〕Gettyimages
そう考えて思い当たることがあった。私が聞いた話では、眞子さまと妹の佳子さまは当時、女性として皇太子妃の雅子さまを尊敬している様子があったらしい。 
2006年ごろの雅子さまは、適応障害の長期療養が始まって4年ほど。こなせる公務は極めて少なく、「仕事をしないで私的に遊んでばかりいる」などとバッシングを受けていた。妻を支え、かばおうとする皇太子さまにも批判の矛先が向いていた。幼い愛子さまへの心ない中傷まであった。
多感な少女時代、眞子さまは身の回りにあふれるそうした理不尽なバッシングを目の当たりにし、皇室という世界に生きることを悩むようになったのではないか。眞子さまと、妹の佳子さまは、バッシングを受け続ける皇太子一家に同情し、そのことを巡って両親といさかいになることもあったと聞いている。姉妹は当時から、「早く家を出ること」を望んでいたという。
結婚という「脱出」
皇族は、まるで芸能人のように、行動や服装、容姿にまで視線を浴び続けるという現実がある。芸能人は自分の意思でその世界に入るが、皇室に生まれた人々はそうではない。どうしたらこんな世界から逃れられるのか——。眞子さまが次第にそんな思いにさいなまれていったとしても不思議ではない。
皇室典範12条は「皇族女子は、天皇および皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」と定めている。11条で、本人の意思による皇籍離脱も規定されているが、皇室会議の議決を経なければならず、あまり現実的ではない。
結婚——。それが眞子さまにとって唯一の「脱出の方法」だったとしたら、激しい批判を浴びながら、婚約内定から4年の長きにわたって結婚への意思を貫き通したのも理解できる。国際基督教大学で同級生として知り合った小室さんは、婚約内定後に家族のトラブルや疑惑が噴出し、マスコミ総出のバッシングを受けても動じない一種の「鋼のメンタル」の持ち主だ。そうした態度を見るにつけ、眞子さまはかえって「自分を救い出してくれるのは、もうこの人しかいない」との思いを強めていったように、私には思える。
比較にならぬ「雅子さまへのバッシング」
しかし、同情ばかりで済まされない部分もあると思う。複雑性PTSDという精神疾患や「バッシング」という言葉からは、雅子さまの適応障害が強く連想されるが、眞子さまと雅子さまでは決定的な違いがある。
眞子さまは「バッシングで病気になった」と主張するが、雅子さまの場合は、バッシングで病気になったわけではなく、病気で仕事ができないことがバッシングされた。病気になった原因も、男児を産むことへの圧力や周囲からのいじめに近いことだったとされている。
それなのに、「公務をしないで遊んでいる」と責められた。それはまさに理不尽な誹謗中傷であり、小室家の金銭トラブルや、多くの疑惑というはっきりしたきっかけのある今回の批判と同列に扱うことはできない。
会見で秋山医師は「誹謗中傷と感じられる出来事がなくなれば、改善が進むと考えられる」「ご結婚について周囲の方々からの温かい見守りがあれば、ご健康の回復がさらに速やかに進む」とまで話した。精神科医が記者会見という公の場に出てきて、患者の病状や、その原因について事細かに話すこと自体が、私には信じられない。
雅子さまの主治医である大野裕医師は、宮内記者会の度重なる要求を受けても一切応じることなく、表に顔を出すことはなかった。精神科医の倫理として、その態度の方が当然だと思う。今回、秋山医師がどこまで発言するかは、宮内庁側と綿密にすり合わせていたと考えるのが普通だろう。
結婚に関する報道や、インターネット、会員制交流サイト(SNS)上での中傷が過熱しすぎて異常な状態にあることはまぎれもない事実だ。だが、金銭トラブルなどが解決せず、疑惑に関する満足な説明もないままに結婚することへの批判は、国民からの声でもある。秋山医師の言いぶりは、聞きようによっては、そうした声を上げぬよう国民を恫喝しているようにも受け取れる。そしてその発言の背後には、どうしても眞子さま自身を含む秋篠宮家の意思を感じてしまう。
そもそも、批判の矢面にさらされ続ける娘を本当に守ろうとする気持ちがあるのなら、秋篠宮さま自身が公に説明したり、心を鬼にしてでも、当人たちにきちんと説明させたりして、国民に受け入れられるようにするのが親心というものではないだろうか。現代の皇室に「国民からの敬愛」は必須であり、敬愛される皇室を守るためには、この際、皇室の側からの説明も必要だと思う。秋篠宮ご夫妻が親や皇族としての責務を果たし、眞子さまを守っているようには、私には見えない。
宮内庁も皇室自身も、病気への同情で国民の批判を封じるより、誰もが納得できる説明を、2人にさせるべきだ。国民の疑問に、誠実さを持って答えるべきだ。本人たちが何を語るのか、10月26日の会見に注目したい。
共同通信社編集委員
大木 賢一
KENICHI OHKI
1967年、東京都生まれ。1990年、早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。共同通信社入社。鳥取支局、秋田支局などに勤務し、大阪府警と警視庁で捜査1課担当。2006年から2008年まで社会部宮内庁担当。大阪支社、東京支社、仙台支社を経て2016年11月から本社社会部編集委員。


緑黄色野菜に含まれるカロテノイドは死亡リスク低下に関係

2021-10-24 08:30:00 | 日記

下記の記事は日経グッディオンラインからの借用(コピー)です。

 ニンジン、トマト、ほうれん草、カボチャなどの緑黄色野菜や果物に豊富に含まれるカロテノイドを積極的に摂取すると、がんや心血管疾患(心筋梗塞や脳卒中)による死亡のリスクが低下する可能性があることが、日本人を長期間追跡した研究で示されました。
カロテノイドはニンジン、トマト、ほうれん草、カボチャなどの緑黄色野菜に豊富に含まれています。(写真=123RF)
血中カロテノイド濃度を年1回測定し、死亡リスクとの関係を検討
 野菜と果物の摂取は、死亡リスクの低減に役立つことが示唆されています。そうした保護的な作用は、野菜や果物に含まれるカロテノイドに起因する可能性があると考えられていました。カロテノイドは、強い抗酸化作用を持っているからです。
 これまでにも、カロテノイドの摂取と健康の関係に関する研究は数多く行われてきました。それらの研究は、参加者の血液中に含まれるカロテノイド(血清カロテノイド値)を測定し、その後の特定の病気の発症や、死亡との関係を検討したもので、カロテノイドはがんや心血管疾患などの予防に役立つという結果が既に示されています。
 死亡とカロテノイド摂取の関係を調べた研究も複数行われていますが、それらのほとんどは、追跡を開始する時点で1回だけ測定した血清カロテノイド値とその後の病気の発症、または死亡との関係を調べていました。
 しかし、食習慣は経時的に変化します。例えば、加齢により食の好みが変わったり、食品の供給状況が変化したり、健康に良い食生活に関する知識を得たりすると、特定の食品の摂取量が増えたり減ったりする可能性があります。
 そこで藤田医科大学の藤井亮輔氏らは、日本人の成人の血清カロテノイド値を年1回測定し、そこに反映される摂取量の変化も考慮して、総死亡、がん死亡、心血管疾患死亡のリスクとの関係を検討しました。
40歳以上の日本人3000人余りの22年分のデータを収集
 対象となったのは、北海道南部の八雲町の住民です。1990年から1999年までの期間に住民健診を受けた40歳以上の人々を登録し、毎年の健診の際に採取した血液に含まれる血清カロテノイド値を2011年まで測定しました。死亡の有無に関する追跡は2017年12月まで行いました。追跡期間の中央値は22.3年になりました。
 分析対象としての条件を満たしたのは3116人(平均年齢54.7歳、60.4%が女性)でした。追跡期間中に762人(24.5%)が死亡しており、このうち253人ががんによる死亡、210人は心血管疾患による死亡でした。
 カロテノイドとして測定したのは以下の各項目で、すべてを合わせたものを総カロテノイドとしました:ゼアキサンチンとルテイン、カンタキサンチン、β-クリプトキサンチン、リコペン(リコピン)、α-カロテン、β-カロテン、総カロテン(α-カロテン、β-カロテン、リコペン)、総キサントフィル(ゼアキサンチンとルテイン、カンタキサンチン、β-クリプトキサンチン)、プロビタミンA(β-クリプトキサンチン、α-カロテン、β-カロテン)。
 測定値と死亡リスクに影響を及ぼす可能性のある要因として、全般的な健康状態、生活習慣、受診記録、食習慣、喫煙歴、飲酒習慣や、脳卒中、狭心症、糖尿病、がんの診断の有無などに関する情報を収集しました。
総カロテノイド値が25%上昇するごとに、総死亡は15%低下
 性別と年齢、喫煙歴、飲酒習慣、血圧、BMI(体格指数)などを考慮して、個々のカロテノイド値と総死亡の関係を分析した結果、上述したカロテノイドのうち、カンタキサンチンを除くすべてと、総カロテン、総キサントフィル、プロビタミンA、そして総カロテノイドの濃度が上昇すると、総死亡リスクが有意に低くなることが明らかになりました。がん死亡、心血管疾患死亡のリスクも同様でした。総カロテノイド値が25%上昇するごとに、総死亡リスクは15%低下し、がん死亡リスクは18%低下し、心血管死亡リスクは14%低下していました。
 研究開始時点の測定値のみを用いて分析しても、総カロテノイド値が25%上昇あたりの死亡リスクの低下は、いずれも統計学的に有意になりました。しかし、総死亡リスクは8%、がん死亡リスクは13%、心血管疾患死亡のリスクは7%低下となり、リスク低下幅は小さい傾向が見られました。
 複数回測定された血清カロテノイド値が高いことは、おおよそ25年間の追跡期間中の総死亡と、がん死亡、心血管死亡のリスクが低いことに関係していました。著者らによると、幸いなことに、血清カロテノイド値を25%上昇させる緑黄色野菜や果物の摂取は、比較的容易にできそうです(下記参照)。
 この研究において、血清カロテノイドの25%上昇あたりのリスクを評価した理由を、著者らは、β-カロテンを例として、以下のように説明しています。
*   *   *
 対象となった人々が研究への参加を決めた時点の血清β-カロテンの中央値は447.75 µg/Lでした。ここから25%上昇したとすると、血清β-カロテン値は、111.94 µg/L 増えて、559.69 µg/Lになります。
 皮をむいたニンジンが100gある場合、β-カロテンの含有量は7200 µgです。刻んだ生ニンジンを食べた場合に、β-カロテンが血液中に移行する割合を示す生体利用率は、41.4%と報告されていることから、皮をむいた生ニンジン100gを食べたとすると、血中に移行するβ-カロテンは2981 µgになります。成人の循環血液量は一般に5Lであることから、摂取後に血液検査を行えば、ニンジン由来のβ-カロテンは、596.16 µg/Lという数値になるはずです。
 これは、対象となった人々における血清カロテノイドの25%上昇分に相当する111.94 µg/Lと比べると、5倍以上になります。したがって、カロテノイドの摂取を25%増やすことはさほど難しくないと考えられます。
 論文は、2021年6月11日付のJAMA Network Open誌電子版に掲載されています(*1)。
*1 Fujii R, et al. JAMA Netw Open. 2021;4(6):e2113369.
大西淳子(おおにしじゅんこ)
医学ジャーナリスト
筑波大学(第二学群・生物学類・医生物学専攻)卒、同大学大学院博士課程(生物科学研究科・生物物理化学専攻)修了。理学博士。公益財団法人エイズ予防財団のリサーチ・レジデントを経てフリーライター、現在に至る