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200人を看取ったプロでも死は怖い」だれもが迎える死をどう受け入れればいいのか

2021-10-08 15:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

ノンフィクション作家の佐々涼子さんは『エンド・オブ・ライフ』(集英社インターナショナル)で身近な友人や家族の終末期を描いた。その中では200人以上を看取った訪問看護師でも死を怖がる様子が綴られている。一体どんな死に方が「理想的」といえるのだろうか。佐々さんと鳥取大学医学部附属病院の原田省病院長の対談をお届けする――。
※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 8杯目』の一部を再編集したものです。
読了して「日本も豊かになったな」と思った
撮影=中村治
鳥取大学医学部附属病院の原田省病院長(左)とノンフィクション作家の佐々涼子氏(右)
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【原田省(鳥取大学医学部附属病院長)】もしかして、他の方々と少々違った感想かもしれません。佐々さんの『エンド・オブ・ライフ』(集英社インターナショナル)を読み終わったとき、最初に思ったのは、日本も豊かになったなということでした。
【佐々涼子(ノンフィクション作家)】(首を傾げて)豊か、ですか?
【原田】ぼくが医者になった頃、年齢、症状に関係なく、患者の容体が危なくなってきたら、とにかく救命措置を執るというのが常識でした。90年代にベストセラーになった『病院で死ぬということ』(文藝春秋)という本があります。
そこでは若手医師が亡くなった老人に強心剤を入れて、顔つきが変わってしまうほど強引に心臓マッサージをするという話がありました。亡くなることが明白であっても、延命処置を繰り返すのは当たり前でした。
そして、医師はそれに疑問も持たなかった。一方、『エンド・オブ・ライフ』に出て来る訪問看護師、医師たちは患者の死を前にして患者一人ひとりの希望や気持ちに寄り添っている。隔世の感があります。
【佐々】(微笑んで)なるほど、そういう意味ですか。
【原田】この本の取材を始めるきっかけを伺ってもいいですか。
【佐々】当時、私は『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)という本で『開高健ノンフィクション賞』を受賞した、駆けだしのノンフィクションライターでした。
在宅治療する末期がん女性の“最後の希望”
鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 8杯目』
【原田】エンジェルフライト、読みました。面白かったです。海外で客死した人たちの遺体を運ぶ仕事を描いた作品ですね。
【佐々】ありがとうございます。その頃、ある編集者から在宅医療の医師について取材をしないかと声を掛けられたんです。
京都に彼の担当する作家がいて、原稿を取りに行くと、いつもお茶を飲みながら、世間話をしている医師がいると。志のある、すごい先生だからちょっと会ってみたらと言われたんです。
【原田】それが渡辺西賀茂診療所の医院長、渡辺康介さんだった。冒頭で、渡辺さんのスタッフが在宅治療している末期がんの女性の“最後の希望”を叶える話が出てきます。
【佐々】はい、彼女は家族と潮干狩りするという約束をしていたんです。
【原田】潮干狩りに渡辺西賀茂診療所の訪問看護師たちがボランティアとして同行する。医師や訪問看護師が患者さんの気持ちを分かって、その最期を大事にしてあげたいと考えている。
そこまでスキルフル(技能のある)人が、どれだけいるだろう、京都という街だから出来ているのかと思いました。
“病気を診ずして、人を診よ”
【佐々】ええ、京都は進んでいると思います。
“緩和ケア”一つとっても地域差がありますよね。私自身、この取材を始めるまで、身体の痛みや不快感を緩和する、“緩和ケア”についてほとんど知りませんでした。患者さんの痛みって、数値化できない。
(薬物投与で)痛みを止めるかというのは、医者のさじ加減みたいなところがあります。本当に痛みをとってくれる先生に当たれば、最期までいい状態で過ごすことができる。
【原田】緩和ケアは本当に難しい。とりだい病院でも強化しなければならないと思っているんです。緩和ケア、終末期医療を考えると、“病気を診ずして、(病)人を診よ”という言葉が浮かんできます。
特に大学病院では高度医療に集中しがち。病気を治すことに注力して、人を診るという境地まで到達するのは難しい。人を診るには、患者の日常生活まで見通さなければならない。医師だけでは無理です。そこで、とりだい病院では訪問看護をやっています。
【佐々】大学病院では全国的にも珍しいのではないですか?
【原田】ええ。看護師たちが、ご自宅を訪れると発見もあるんです。例えば、トイレが洋式でなかったりする。用を足すときに足腰に負担が掛かりますよね。そうした要因も考慮しなければならない。
ぼくたち、医師はどうしても自分と同じような生活をしているという思い込みで患者さんを診る傾向がある。でも患者さんにはそれぞれの生活があるんです。
どんな人も直線的に死を受容できない
撮影=中村治
ノンフィクション作家の佐々涼子氏
【佐々】そもそも私が在宅医療に興味を持ったのは、当時、私の母が在宅で療養していたことでした。
父が付ききりで看病していたんですが、終末期の患者は家で過ごすのがいい、家で死にたい人がたくさんいるという論調の記事を見かけました。でも、そんなに単純なものではないですよね。
【原田】そんなとき佐々さんが出会ったのが『エンド・オブ・ライフ』の主人公、森山文則さん。森山さんは先ほど触れた渡辺西賀茂診療所の訪問看護師でした。彼にがんが発見され、その経過を“縦糸”、在宅医療、特に終末期医療の家族たちの姿が“横糸”として本は進んで行きます。
中では、エリザベス・キューブラー・ロスの「受容の五段階」に触れています。死が近づくと、たいていの人はまず“否認”する。次に“怒り”“取引”の感情が起こり、“抑鬱”そして“受容”の五段階を辿る。まさに森山さんはこの五段階を辿ることになりました。
【佐々】森山さんは何百人もの人を看取ってきた経験のある看護師です。自分が終末期に近いことは分かっていました。死を受け入れるのかと思ったら、そうではなかった。
『モーリー先生との火曜日』(NHK出版)という本があります。死にゆく恩師が人生を再考するという内容でした。しかし、そんな風に直線的に死を受容するという風には行きませんでした。
【原田】(深く頷いて)まずならないです。死だけでなく、がん、あるいは難病の宣告を受けても、最初はみんな信じない。それが普通の人間の反応です。
【佐々】森山さんから話したいことがあるって、呼ばれたんです。自分の病状について体系だった話をしてくれるんじゃないかと思って、京都まで行きました。
でも、彼は大したことは言ってくれない。家族が患者さんに会いに行っても、何も話をせずに帰ってくるみたいなことがある。そういう間合いに似ていたのかもしれません。
改まって、自分の死期が近いということを言いたくない。口に出してしまうと本当になってしまうという恐れがあったのかもしれない。
在宅医療を7年かけて取材し1冊の本に結実
【原田】彼が佐々さんを呼んだのは、自分の経験を残したかったからだと思うんです。佐々さんに何かを託したかったでしょう。でも、彼ほどの経験のある医療人であっても、死と向き合うのは怖い。だから理屈に合わない行動に出てしまう。
【佐々】(自分の)本を書いてくれって言うんだけれど、行ってみると何も話さない。理屈じゃないんです。
【原田】横浜在住の佐々さんにとって、京都までの往復交通費も馬鹿にならない。無駄足を踏むことは、時間的、金銭的な負担となったはずです。それでも取材を続けた。
【佐々】私が来ることで、彼はいいところ見せなきゃいけない、って気持ちに張りが出ますよね。そういう効果もあるでしょうから、もう一緒にいるだけでいいや、本にならなくてもいいやって思った時期もあります。
森山さんの気持ちも揺れているんですが、(取材者である)私の気持ちも揺れていました。
【原田】通常の取材では、質疑応答というか、質問があって答えがある。森山さんだけでなく、死を目の前にした人に対しては、言葉を選ばなければならない。余計な口を挟むことはできない。
【佐々】だから、私はずっと聞いてました。森山さん、そして(終末期の)患者さん、家族の話をただ聞いていたんです。それですごい量の(取材)テープが溜まっていくわけです。
『エンド・オブ・ライフ』はそれをピックアップして、分かりやすいようにまとめた。ただ、書いているとき、これが商業出版として成り立つんだろうかと思っていました。でき上がったとしても、読者にとっては相当きつい内容になるだろうと。
【原田】取材開始から書き上げるまでどれぐらいの時間が掛かりましたか?
【佐々】在宅医療について書こうとして取材を始めてからは、7年間。まるで(地中に長く潜っている)蝉のようですね(笑)。その前の作品は、だいたい半年程度。
自分は早く書ける人間だと思っていたんです。ところが取材しているうちに、これもう書けないと思った。放っておいたんです。そうしたら、森山さんががんになってから再び動き出した。
【原田】そして彼が亡くなるまで追いかけ1冊の本に結実した。やはり託されたんでしょうね。
産婦人科を選んだのは病棟が一番明るかったから
撮影=中村治
鳥取大学医学部附属病院の原田省病院長
【原田】現代の日本人って、死についてあまり語らないし、子どもたちにも教えようとしない。
昔は、おじいちゃん、おばあちゃんがだんだんご飯食べられなくなって、やがて寝たきりになって、亡くなる。人間は必ず死ぬ。本来は身近にあるもの。核家族化によって、死から目を背けがちになっている。
【佐々】医師という仕事は、死と向き合う仕事でもありますよね。
【原田】ぼくが産婦人科医を選んだのは、産婦人科の病棟が一番明るかったからです。
不幸なお子さんもいるんですが、ほとんどのお母さんはみんな若くて、周囲の家族も子どもが生まれて希望にあふれている。ただ、隣りの婦人科では、子宮がんなどで悩んでいる患者さんがいる。
【佐々】その意味で産婦人科は明暗のコントラストがくっきりとしている。
【原田】とはいえ、ぼくが死に慣れているかというとそうでもない。先日、ぼくは兄弟のように思っていた親友を亡くしました。
彼は亡くなる前、大阪からわざわざ米子まで来てくれたんです。長くないことが分かっていたんでしょう。ぼくは彼の肩を抱いて「また会おうや」としか言えなかった。
ただ話を聞いて筋トレするしかない
【佐々】原田さんは医師ですから、彼の病状が冷静に分かってしまう。
【原田】ええ。彼が別れを言いに来てくれたことは分かりました。つらかったです。でも何もできない……。佐々さんは『エンド・オブ・ライフ』の扉ページで、〈これは、私の友人、森山文則さんの物語〉と書いています。
森山さんは単なる取材対象者ではなく、友人になっていた。彼のことを、患者さんから人がいいのを見透かされて、無理難題をふっかけられるような〈根っからの優しい人〉と書いています。
その友人にインタビューするのはきつかったのではないですか。インタビューするということはその人間の毒を飲み込むことだと表現する人もいます。佐々さんはその毒とどう対峙したんでしょうか?
【佐々】さっきも言ったように、もうただ聞くしかないんです。そして頭を空っぽにするために筋トレに励みました。そうすると、どんどん重い80キロ、90キロのバーベルが上がっていくんです。
【原田】それは凄い。それだけ精神的に負荷が掛かっていた。
【佐々】とにかく自分の身体を健康に保つための努力をしていましたね。筋トレを続けていると、脳みそから余計なものがそぎ落とされていくというか、自分がシンプルになっていくような気がしました。
【原田】身体がくたくたになれば、余計なことを考えない。人は必ず死ぬ、そして同じ“死”はない
【佐々】ストレス発散として、泣くために悲しい音楽や悲しいドラマを観るっていう人がいますよね。
でも、私はわざわざ落ち込むためにそうした音楽やドラマを観る気にはなれませんでした。そもそも悲しいドラマよりも、自分の目の前にある現実の方が上回っているんです。そして、その重みを抱えることなんてできません。
「Yahoo!ニュース/本屋大賞 2020年 ノンフィクション本大賞」受賞作。「看取りのプロフェッショナル」である訪問看護師の友人が癌に罹患。彼の最後の日々を主軸に、著者の母を自宅で看取った経験など終末期医療の現場に寄り添い続け、まとめられたノンフィクション。様々な死の迎え方について、深く考えさせられる一冊。
【原田】医師も同じです。患者さんの苦悩を全部抱えていたら、やってられないです。ドライじゃないと、毎日現場をこなせない。
【佐々】若い頃だったら意地悪な言葉を言われたり、誰かに嫌われたりすると、何が悪かったんだろうって悩むじゃないですか。でもどうにもならないことがある。
現実はそうなんだと、右から左に流すしかない。ただ、聞くしかなかった。そうした意味では、私の取材はカウンセラーの仕事に似ていたかもしれません。
【原田】当たり前のことですが、人は必ず死にます。しかし、同じ“死”はない。最期は、自分らしく死にたい。
自分らしく人生に幕を下ろせば、本人もご家族も幸せ。その意味で、佐々さんに最期を伴走してもらった森山さんは幸せだったんだろうなと思いました。
【関連記事】「野菜たっぷりなら良いわけではない」糖尿病患者にほぼ確実に不足している"ある食べ物"「93歳で老衰なのに40分間の心臓マッサージ」妻が泣いて止めるまで延命治療が続けられたワケ「2人に1人が5年以内に亡くなる」早死リスクを高める"絶対に折ってはいけない骨"「重症化するまで患者を放置するのはおかしい」現役医師が"コロナ専門家"に憤る理由「男性の平均寿命が1位→36位」沖縄があっという間に"短命県"になったシンプルな理由

 佐々 涼子(ささ・りょうこ)
ノンフィクション作家
1968年生まれ。神奈川県出身。早稲田大学法学部卒業。2012年『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)で第10回集英社・開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『駆け込み寺の男』、『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(ともに早川書房)など。
 原田 省(はらだ・たすく)
鳥取大学医学部附属病院長
1958年兵庫県出身。鳥取大学医学部卒業、同学部産科婦人科学教室入局。英国リーズ大学、大阪大学医学部第三内科留学。2008年産科婦人科教授。2012年副病院長。2017年鳥取大学副学長および医学部附属病院長に就任。患者さんと共につくるトップブランド病院を目指し、未来につながる医学の発展と医療人の育成に努めながら、患者さん、職員、そして地域に愛される病院づくりに積極的に取り組んでいる。好きな言葉は“置かれた場所で咲きなさい”。


兄がだまし取った財産は3800万円……認知症の母と躁うつ病の兄に見た「8050問題」の壮絶

2021-10-08 13:30:00 | 日記

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です。

 近年、注目されつつある「8050問題」。高齢の親が中高年の子どもの生活を支えるというもので、親が高齢になるとともに生活破綻リスクが増えることが危険視されている。
 この問題は1980年代に始まる「ひきこもり」が原因とされるが、一方でそれとは別の原因から「8050問題」と向き合わざるを得なくなった女性もいる。関東在住の斎藤育子さん(仮名・50代)は、30代で精神障害を発症したお兄さんと、高齢化した母親との間で問題が顕在化した。
「離島に空港を作る」病気の兄が吐いた妄言
「兄は30代前半で、重いうつ病をわずらいました。当時は会社の寮に住んでいたのですが、心配した両親が実家に引き取り、3年ほどは真っ暗な部屋にひきこもる生活でした。動けない、死にたいと嘆く彼を両親が世話していたのですが、数年後、今度は躁転したことで病名が双極性障害に変わりました」
「躁転」とはうつ状態が躁状態に変わることで、「双極性障害」は躁状態とうつ状態を繰り返す脳の病気である。斎藤さんのお兄さんは激しい躁とうつ状態を繰り返す双極I型で、躁状態になると妄想を抱いたり、多弁になったり、周囲の人に暴言を吐いたりするという。
「発症して30年。普段はまじめで暗い性格の兄ですが、躁転すると手がつけられなくなるほど、過度な飲酒や浪費といった奇行に走ります。家族だけで解決できないことも多く、そんなときは精神科に入院させ、3カ月間ほど強い薬で躁状態を抑え込みます。退院したときはうつ状態で、それが数カ月から半年ほど続きます。それから数年は会社員として働き、3~5年するとまた躁状態に。どうやら毎回何らかのストレスが原因で躁転するようですが、退院さえすれば落ち着くので、両親は兄のしたことを特に反省させることもありませんでした」
 躁状態のお兄さんは現実と妄想の境がなくなり、時には予想もつかない行動に出る。ある時は「離島に空港を作ろうとする兄」を止めるため右往左往したという。
「離島へ旅行に行った兄は飲み屋で地元の人と知り合いになって、『島には空港がないから、病人が出ると大変だ』という話を聞きました。すると、なぜか自分が空港を作らなければいけないと思いこんでしまい、建設会社などに電話して空港建設を提案したそうです。もちろん誰も本気にしなかったそうですが……」
またある時は、障害者採用枠で働いた会社に寮がないことに気づき寮を建てようと奔走したり、知り合った女性が飲み屋で監禁されているという妄想を抱き、夜中に助け出そうとガラスを割って侵入したこともあるという。そうした問題行動が警察に通報され医療保護入院したこともあった。
「あんな子は死んでしまえばいいんだ」
 お兄さんが何か事件を起こすたび、斎藤さんが後始末をしてきた。購入した高額商品のキャンセルや、迷惑をかけた人への謝罪、関係各所への手続きなど、その作業量は分厚いファイルが1冊できるほどだったという。
 一方で、母親は病気のお兄さんを不憫に思ってか、事件を起こして入院したあとも、退院すれば実家に迎え入れ、食事や洗濯、掃除などあらゆることで彼を支えてきた。お兄さんと母親が暮らしていた家。キッチンの棚からは認知症の母親が買い込んだ食品が大量に出てきた
「私も結婚して実家を離れてからは、兄の不始末はすべて両親に任せていました。だから自分が口出しすることはないと思っていたのですが、一方で兄が甘やかされて成長していない、反省していないという問題は感じていました」
 それから月日が経ち、2017年にお兄さんは再び躁状態に。そこで斎藤さんに大きな不安がのしかかる。彼が風俗店で出会った中国人女性に騙されそうになったのだ。当時、世間では家の権利書や銀行口座の名義を変更させ、大金を奪うという結婚詐欺が横行していた。
「このときも精神科に医療保護入院になりました。もし今後また兄の病気が再発し浪費癖がはじまると、実家の財産にも危険がおよぶと思って、母と話して遺言書を書いてもらうことにしました。すでに父は亡くなっていましたから、母の財産を守る意図もありました。母の持っていた複数の口座を整理し、私が遺産の管理人として、いつの日か財産を平等に分配する内容で母の公正証書・遺言書を作ることにしました」
 当時、斎藤さんは母親から思いがけない言葉を聞いている。
「こんな騒ぎを起こされて大変な思いをした。あんな子は死んでしまえばいいんだ。もう一緒には暮らしたくない」
 その言葉が本心かどうかは、認知症が進んでしまった今は確かめることはできない。しかし斎藤さんは、「母がそんなことを言うなんて」と切なくなったという。それをきっかけに母親との同居を決心。遺言書の作成と並行して彼女を自身の家に招き入れた。
母親の意味不明な言動の数々
 母親との同居からしばらくして、お兄さんの退院日が訪れた。退院後の彼は実家に戻り、病院側が作成した計画に則って一人暮らしをする予定だった。斎藤さんが迎えに行く準備をしていると、母親も「一緒に行くわ」という。
 そして病院に迎えに行き、退院した彼を車から降ろすため実家に立ち寄ると、なぜか母親もいっしょに降りてしまった。そして結局、斎藤さんの家に戻ることはなかった。さらに翌日には「私の金庫を返して」と電話がかかってきた。金庫には母親の証券や通帳などが保管されており、遺言書作成のために斎藤さんがずっと預かっていた。
 母親の突然の言動に戸惑いつつも申し出を受け入れた斎藤さんだったが、後日、母親とお兄さんが親戚などに「娘にだまされて知らないところに連れて行かれて遺言書を書かされた。財産も盗まれた」と電話していたことがわかった。また母親から「よくも年寄りを騙して、虎の子を持っていったね」と斎藤さんを非難する電話もかかってきた。認知症の影響から電話の子機が冷蔵庫に入れられることもあった(写真:取材者提供)
 なんとか誤解を解きたいと、母親に話し合いを持ちかけるも応じようとはしなかった。一方で、母親は銀行や証券会社などに出向き、斎藤さんが整理した財産や証券が兄に移譲されるよう契約内容の更新を繰り返していた。
 そして、今年2月。お兄さんから「遺産相続のことで話し合いたい」と言われた斎藤さんは、誤解を解くチャンスだと思い、実家へ向かう。出迎えたお兄さんに「前回はあなたがお金をたくさん使って、お母さんが不安になったから、入院中で悪いと思ったけど、公正証書を作らせてもらった」と伝えると、納得した様子だったという。
兄名義に変更された「3800万円の財産」
「2人で話し合いをした結果、遺言書と今ある資産内容が変わったこともあって、その場で遺言書をシュレッダーにかけることにしました。母と私と兄の3人で改めて話し合い、作り直そうという話になりました。ところが、これが悲劇の始まりでした。兄がいきなり『僕が財産を調べ直して、お母さんの貴重品を管理する』と言い出したのです」
 斎藤さんはお兄さんの入院中に公正証書を無断で作ったという負い目があったのと、彼が冷静な様子に見えたため、うっかり提案を承諾してしまった。しかし、そのときすでに彼は軽躁状態。以前のようにバーや風俗店などでお金を散財していたのだ。
 その後もお兄さんは認知症のため状況把握できない母親と一緒に金融機関をまわり、母親名義の定期預金や口座からお金を引き出し、自分の名義に変更していた。その総額は3800万円近くに及んだという。
警察へ通報され再び入院する事態に
 そして、またもやお兄さんが警察に通報されてしまう。ある日、母親の定期預金を引き出そうとして限度額超過から行員に拒否され、騒ぎを起こしたことが原因だった。
 そのまま精神科に医療保護入院。母親の様子を見て、ようやく認知症の進行に気づいた斎藤さんは、地域の高齢者サポートセンターの担当者に相談することにした。
「お母さんの顔が能面のように表情がなくなっていますよね。今回のことを、障害を持つ息子さんによる高齢者への精神的・経済的虐待事案だと私たちは捉えています」
 担当者の言葉を聞いて、斎藤さんは慄然としたという。これまで長女である自分を母親は疎んでおり、長男がかわいいから全財産をあげようとしていると思っていたからだ。まさか、彼女の認知症が急激に進行して判断能力を失った結果、お兄さんに財産を奪われ、苦境に追い詰められていたとは思いもしなかったという。
「家庭崩壊」はいつ起きるかわからない
「母は要介護2と認定され、これ以上、2人を一緒にいさせるわけにはいかないと、すぐ老人ホームを探しました。兄の事件と入院により、母の認知症の深刻さに初めて気づくことができたのです。それ以前の私は感情的になり、もう2人にはなるべく関わらないと決めていました。2人で好きなように生きればいいと。でも、今は母を見守ろうという気持ちに変わりました」
 最後にお兄さんに対しての思いを聞くと、次のように答えてくれた。
「兄は病気になってから、ずっと親に甘やかされて生きてきました。躁状態のときに事件を起こしても、ぼんやりとしか覚えていない。数カ月して退院してきたときには、私や両親がすべての後始末をやったことを悪びれもせず、何もなかったかのように戻ってくる。
 本当なら、自分がやったことを自覚させる必要があったと思います。自分の行いを見つめ直すことで、病気と向き合うこともできたはず。でも、両親は兄に好きなようにやらせるだけで、何も反省させることはなかった。
 ある意味ではかわいそうな人生だと思いますが、私はもう兄とは縁を切るつもりです。ただ名義変更された母の財産は全額が使われてしまったわけではないので、兄に返却を要求しています。今度こそ、退院後は1人で自立した人生を送ってほしいと願っています」


《なぜPTSDを発表?》眞子さま結婚会見へ「ロン毛の小室圭さん」に宮内庁関係者が感じた“ギャップ”

2021-10-08 11:00:00 | 日記
下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です。

「秋篠宮家の長女・眞子さまが複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)との診断を受けられたと宮内庁が発表したのには、本当に驚きました」
 ある皇室担当記者はこう振り返る。
 宮内庁は10月1日、秋篠宮家の側近トップ、加地隆治皇嗣職大夫が定例記者会見を行い、眞子さまが同月26日に小室圭さんと入籍し、その後、記者会見に臨まれると発表した。その中で眞子さまが、ご自身と小室さん、その家族に対する誹謗中傷が行われていると感じ、PTSDを発症されたと公表した。
秋篠宮ご夫妻はPTSDを「大変心配なさっている」
 宮内庁関係者が語る。
「女性皇族が結婚して皇籍を離れるに際して支払われる最大1億5250万円に上る一時金について、眞子さまは以前から高額すぎるとしてためらいを感じていらしたそうです。このため一時金については眞子さまの、辞退したいとのお考えを尊重し、不支給が決まりました。
 また、秋篠宮さまが昨年の誕生日会見で『決して多くの人が納得し喜んでくれている状況ではない』と述べられたことを踏まえ、その後も状況に大きな変化はないと判断して一般の結納に当たる納采の儀などの儀式や結婚式、披露宴は執り行わないことも合わせて発表されました。秋篠宮は2018年の会見で、「多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちはいわゆる婚約にあたる納采の儀というのを行うことはできません」と発言(宮内庁提供)
 これは戦後の皇室としては異例中の異例なことです。眞子さまはご入籍後、小室さんとともに渡米し、現地で新婚生活を始められることになります。眞子さまのPTSDについて、加地大夫は秋篠宮ご夫妻が『大変心配なさっていると見受けられました』と説明しています。加地大夫は『絶対に結婚する』という眞子さまの強い思いを完遂させるため、ほかの様々な事柄をそぎ落として入籍実現の一点に絞って計画を進めてきたようです」
PTSDを発表した宮内庁の手法には違和感を抱く人も
 公務に支障が出るほどではないということだが、PTSDを発症するまで追い込まれていた眞子さまに対する同情や心配の声が噴出している。ただ、結婚の発表と同時にPTSDを発表した宮内庁の手法には違和感を抱く人も多い。「もうおふたりの好きにさせてあげて欲しい」といった言外の意図が感じられるように思う向きも少なくなく、小室家への追及自粛ムードを演出するためではないかという穿った見方も出てきているからだ。
 そもそも借金トラブルや遺族年金など小室家側が抱えてきた様々な問題に対する国民の不信感は依然として根深いものがあることも事実だろう。
「帝国憲法下では現人神だった昭和天皇は戦後、敗戦にふさぐ国民を励ますため全国巡礼の旅に出て国民に寄り添われました。そのお姿は『私』よりも『公』を優先する象徴天皇の在り方そのものでした。上皇陛下はプロポーズの際、上皇后陛下に『公的なことが最優先であり、私事はそれに次ぐもの』と述べられたと伝えられています。天皇陛下はコロナ禍の中、今年の元日に当たって国民に向けて異例のビデオメッセージを発せられ、国民に寄り添われました。戦後の皇室の核心は私より公を優先するというものなのです。
 しかし、眞子さまのご姿勢は公よりも私です。眞子さまは昨年11月13日に公表されたお気持ちの文章の中でも『結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択』と綴られています。心ない誹謗や中傷は許されるものではありませんが、ご結婚に否定的な意見が国民の中に根強い原因から目を背けるべきではないはずです。
 国民が小室さんとその母・佳代さんについて、どうして不信感を抱いているのかを考えるべきではないでしょうか。PTSDも根本的には、それを誘発した小室母子に原因があるはずです。小室さんは説明を尽くしてきたとは言い難いですし、佳代さんもほっかむりをしたままですから。果たして小室さんはおふたりで臨む記者会見で、何を語るつもりなのでしょうか」(同前)
直撃取材でポケットに手を突っ込んだままの小室さんは…
 小室さんの記者会見は、宮内庁の仕切りで宮内記者会を相手に行われる予定だ。吉本興業の社長が2019年7月、芸人の闇営業問題で記者会見を行った際、集まった大勢の記者たちから激しい追及を受けて異例のロングラン会見となったことなどを考慮すれば、静謐を保って会見を行う環境としては宮内庁の判断は当然と言えるだろう。
「ただ、小室さんはこの結婚で将来、天皇の義兄となることが事実上決定するわけです。小室さんは自らの口で説明を尽くす義務があるのです。生活費を支援してもらいながら『借金ではなかった』と一方的に言い張ってきた不義理な姿勢が天皇の義兄になる人物としてふさわしくないと感じた国民が多かったことを忘れてはなりません。婚約発表当時の小室圭さん 
 2018年2月に結婚の延期が決まると、元々は11月に結婚式を控えていたはずにも関わらず何の説明もないまま8月に突然渡米し、留学したことも、『ニューヨークの法律事務所に就職できたのだから結果オーライ』で済まされるものではありません。
 いわゆる“ロン毛”姿の小室さんが帰国直前の日本時間9月24日午前5時頃、FNNの直撃取材を受けた際にポケットに手を突っ込んだまま記者の質問を無視し続けた様子も印象がよくありませんでした。こうした一連の小室さんの態度が、誠実そうに見えた2017年9月3日の婚約内定会見での姿とあまりにもギャップがあり過ぎるために、多くの国民から不信感を抱かれていることは否めないでしょう。
 最愛の方がPTSDを発症する根本原因を自分が作ってしまったことを、小室さんは自省すべきではないでしょうか。小室さんにとっては、今回の記者会見が最後のチャンスと言ってもいいかもしれません。小室家に、金銭にまつわる疑惑がなぜこんなにも次々と浮上する結果となったのか、言葉を尽くして真摯に会見に臨んで頂きたいと切に願います。そうすれば国民も眞子さまのお幸せを素直に願えるわけですから」(同前)
 記者会見の時間は限られたものになるだろう。記者たちからどのような質問が投げかけられ、小室さんはどう答えるのかに、国民の注目が集まっていることは間違いない。
朝霞 保人
皇室ジャーナリスト
 
追記:PTSDとは 厚生労働省のホームページから下記です。

PTSD

PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)は、死の危険に直面した後、その体験の記憶が自分の意志とは関係なくフラッシュバックのように思い出されたり、悪夢に見たりすることが続き、不安や緊張が高まったり、辛さのあまり現実感がなくなったりする状態です。PTSDは決して珍しいものではなく、精神医療においては「ありふれた」病気のひとつであると言えます。
生死に関わる体験をすると、多くの人には不安、不眠、動悸などの症状が生じますが、多くの場合は一過性です。またフラッシュバックのような症状が生じたとしても、数ヶ月のうちに落ち着く人が少なくありません。しかし時間が経っても楽にならなかったり、かえってますます辛くなることもあります。また、数ヶ月から数年間経ってから、PTSD症状がはっきりとしてくる場合もあります。つらい症状が続いているときは、専門機関に相談しましょう。


PTSDは、とても怖い思いをした記憶が整理されず、そのことが何度も思い出されて、当時に戻ったように感じ続ける病気です

1ヶ月以上たってからも、その体験の記憶が自分の意志とは無関係に思い出され、その時と同じ感情、身体の感覚を感じたり、実際に当時の光景が見えたり、加害者がすぐ近くにいるように感じるというものです。直面というのは、自分自身の体験だけではなく、他人が死亡したり重症を負うのを目撃することを含みます。近親者や親しい友人が、突然の暴力的な出来事によって死亡したり重症を負ったことを知らされることも含まれます。

PTSDとは、命の危険を感じたり、自分ではどうしようもない圧倒的な強い力に直面したりといった、強い恐怖感を伴う体験をした人に起きやすい症状です。あまりにも強い恐怖やショックを感じたために、その体験を落ち着いて整理することができません。そのために、非常に良く覚えている部分と、覚えていない部分が混じり合ったり、体験したこと、感じたこと、考えたことの関係が混乱したり、時間的な順序や、何が原因で結果なのかといったつながりも分からなくなります。これを記憶の断片化と呼びます。そのような記憶は、「いつ、どこで、どのように、なぜ起こったのか、その結果はどうなったのか」という枠組みができていませんので、大変に不安定な状態となっています。そのために、ふとしたことで、あるいは突然に記憶が意識の中に侵入し、フラッシュバックや悪夢を生じます。トラウマ体験は断片化していますので、その一部を思い出すと、それが色々な断片的なイメージと結びついて、何もかもが怖くなってしまったりします。あたかも常に被害が生じているように感じられますので、不安や緊張が消えることがありません。時にはこうした辛さから心を守るために、現実感がなくなり、ぼんやりとしたり、記憶の一部が飛んでしまうこともあります。
また落ち着いて記憶をふりかえって考えることができませんので、必要以上に自分を責めたり、自信を失ったり、周りの人に不信感を向けたりもします。極端な場合には、世の中に安全な場所などないとか、自分には何も良いところがないと思い詰めたりもします。過去の体験についての恐怖が強くなりすぎると、過去の被害を思い出すことで、もう一度現実に被害を受けているかのように感じられます。

 リスク

生死に関わる体験をしたからといって、全員がPTSDになるわけではありません。では、PTSDになる人はこころの弱い人なのでしょうか?実際にはそんなことはなく、これまでは何の問題も無く生活していた人がPTSDに悩まされている例もたくさんあります。どんな人がPTSDになりやすいのかについてはいくつかのことが分かっています。まず、どのような出来事を体験したのかが重要です。一口に事故、災害、犯罪被害といっても、実際に何を体験したのかは人によってまちまちです。本当に死の危険を意識するほどのことがあったのかどうか、ということです。米国の研究ですが、被災者のうちでPTSDを発症する人は数パーセントですが、これは同じ被害者でも死の危険に直面した人は必ずしも多くは無いことによります。これに対して、レイプ、戦闘体験の場合は過半数がPTSDを発症します。これは、こうした体験は常に重度の恐怖への直面を伴っているためだと思われます。次に、被害の後の社会的サポートが足りなかったり、生活のストレスが大きかった人にはPTSDが発症しやすいことが知られています。そして恐怖反応の引き金となりやすいアドレナリンの分泌が大きい人、つまりスポーツマンタイプの人や、危機に直面して人を救出する人々もまた、PTSDのリスクが高いことが分かっています。カフェインによって不安が増強することも少なくありません。被害のあとで、元気をだすためにカフェインが増えている人は注意が必要です。最後に、以前にトラウマ体験や児童期の虐待などの逆境体験が複数ある人にはPTSDのリスクが高くなります。

その症状がPTSDだと気がつかないこともあります

生命の危機に直面するほどの体験をしていても、今悩まされている症状とその体験を結びつけることができないこともあります。
原因がわからないまま、こころの不安定な症状が続くと、原因がわかっている時以上に本人も周りの人もつらく、疲れてしまいます。それが過去の体験に関係していると気づくことができれば、それは回復への第一歩となります。

「PTSDかもしれない」と思ったら、どこに行けばいい?

その体験が犯罪被害の場合は、警察には犯罪被害についての相談窓口がありますので、カウンセリングを受けたいと警察でおっしゃってください。または行政の相談窓口でも結構です。犯罪被害者支援センター等に相談するのも良いでしょう。犯罪被害者等基本法に基づく医療費の給付金制度もあります。
地震などの大きな災害の時は、救護チームの中に精神科医や公認心理師が派遣されることもありますので、救援スタッフに相談できないかを尋ねることもひとつの手段です。 その他、地元の精神保健福祉センターや、精神科や心療内科など、PTSDに知識のある医師や公認心理師のいる施設もあります。 とはいっても、性的被害や家庭内の虐待などは人に相談しにくく、とくに女性や子供など立場の弱い人の中には誰にも相談できず一人で悩み、がまんしている人が少なくありません。
今あなたがつらい思いをしているのなら、一人でがまんせず、精神科を受診するか、保健所などの相談窓口を通じて、信頼できる精神科やカウンセラーを紹介して貰うのも良いでしょう。思い切って相談窓口のある施設に連絡をとってみてください。

 PTSDのサイン・症状

PTSDでよく見られる症状には次のようなものがあります。

突然、つらい記憶がよみがえる

事件や事故のことなどすっかり忘れたつもりでいても、ふとした時に、つらい体験の時に味わった感情がよみがえります。
それは恐怖だけでなく、苦痛、怒り、哀しみ、無力感などいろいろな感情が混じった記憶です。
周りからみると、何もないのに突然感情が不安定になり、取り乱したり涙ぐんだり怒ったりするので、理解に苦しむことになります。
その事件や事故を、もう一度体験しているように生々しく思い出されることもあります。また、同じ悪夢を繰り返し見ることもPTSDによくある症状です。

常に神経が張りつめている

つらい記憶がよみがえっていない時でも緊張が続き、常にイライラしている、ささいなことで驚きやすい、警戒心が極端に強くなる、ぐっすり眠れない、などの過敏な状態が続くようになります。

記憶を呼び起こす状況や場面を避ける

何気ない日常の中につらい記憶を思い出すきっかけがたくさん潜んでいます。多くのPTSD患者さんは何度も記憶を呼び起こすうちに、そうしたきっかけを避けるようになります。
どんなことがきっかけになるかは本人でなくてはわからず、本人も意識できないままでいることもあります。
意識できない場合でも、自分で気づかないうちにそうした状況をさけるようになるのです。 その結果、行動が制限されて通常の日常生活・社会生活が送れなくなることも少なくありません。

感覚が麻痺する

つらい記憶に苦しむことを避けるために、感情や感覚が麻痺することもあります。そのために家族や友人に対してこれまで持っていたような愛情や優しさなどを感じられなくなったり、人に心を許すこともできなくなりがちです。
これは、つらい経験の記憶からこころを守るための自然の反応なのです。

いつまでも症状が続く

こうした症状は、つらく怖い経験の直後であればほとんどの人に現れるものです。ですので、事件や事故から1か月くらいの間は様子をみて、自然の回復を待ってみます。
数ヶ月たっても同じような症状が続いたり、悪化する傾向がみられたら、PTSDの可能性を考えて専門家に相談してみてください。

PTSDの治療

こころの傷の回復と、つらい症状の軽減の2本柱で考えます

自然の回復力を引き出すことと、苦しい症状を軽減することがPTSD治療の基本となります。
PTSD治療の上で最も効果があるのは、トラウマを扱う認知行動療法です。代表的なものに持続エクスポージャー療法(PE)、認知処理療法(CPT)、眼球運動脱感作療法(EMDR)があります。
こうした特殊な治療を受けることができなくても、信頼できる先生によく話しを聞いて理解して貰えたと感じるだけでも、ある程度は良くなる場合があります。トラウマというデリケートな問題を扱う場合、特定の治療法より、治療者の能力や、相性に左右される部分もあります。特殊な技法を求めるよりもまず、自分の話をよく聞いてくれる、信頼のできる医師や公認心理師をみつけることが先決です。
またPTSDにはSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)等の抗うつ薬も有効です。その他、うつ病や不安症の症状を併発しているときには、それらの治療によってかなり楽になることがあります。


医師が実践 ヨーグルト“1食置き換え”ダイエット

2021-10-08 08:30:00 | 日記

下記の記事は日経ウーマンオンラインからの借用(コピー)です。

幼少期からのぽっちゃり体形に加え、偏った食生活で体重の増減を繰り返した富永ペインクリニック院長の富永喜代さん。
■体重の増減人生にピリオド! 富永さんのダイエット史
 「医者の不養生という言葉そのままに、当時の体調はボロボロ。特に便秘は深刻で、1週間出ないのを週末の下剤で無理に出す始末。食事制限でも体重は減らず、ひどい冷えと肌荒れ、疲労感も悩みだった」(富永さん)。
 そこで、30代半ばで一念発起。まずは腸内環境の改善を急務と考え、目をつけたのがヨーグルトだった。
■ヨーグルトには9種類の必須アミノ酸がバランスよく含まれる
トリプトファン、リジン、メチオニン、フェニルアラニン、スレオニン、バリン、ロイシン、イソロイシン、ヒスチジン
体をつくるたんぱく質を構成するアミノ酸は20種類ある。このうち、食べ物によって補う必要のある必須アミノ酸9種類をバランスよく含むのが「良質なたんぱく質」といえる。

↓加齢とともに効率のいいアミノ酸の摂取が必要に!
たんぱく質は体内でアミノ酸を材料に合成されるが、加齢とともにその働きは低下。また「消化吸収力も衰えるため、筋肉をつくる必須アミノ酸はより多く補うことが必要」と富永さん。
 「食事の量を抑えるダイエットでは、たんぱく質の摂取量が不足しやすく、筋肉が減って、代謝も落ちる悪循環に。そのため、健康的にやせるには、たんぱく質が欠かせない。ヨーグルトは腸内環境を改善するうえ、必須アミノ酸をバランスよく含む良質なたんぱく源でもあった」と富永さんは振り返る。
 多忙な富永さんは、職場の冷蔵庫にヨーグルトを常備。昼食として食べた。「すると最初の1週間で頑固な便秘が改善。体重も順調に減り、人生で初めて健康的にやせられた」(富永さん)。
ヨーグルト1食置き換えダイエットの方法
  面倒な準備やカロリーや糖質の量を考えることもない、パックごと食べるだけ! 買い置きもしやすく、コンビニでも買えるので、忙しい人も続けやすい。富永さんは多くの人に薦めており、成功者も多いという。
【Point1】
1日1食をプレーンヨーグルト1パック(400g)に置き換える
はっきりした変化を感じたいなら、1日1パック=400gは必要。回数を分けてもいいが、1食をそのまま置き換えれば簡単で続けやすい。昼食代わりにすればランチ選びのわずらわしさから解放されるうえ、安上がりで済む。
【Point2】
自分に合う菌種を見つける
ヨーグルトの菌種は商品によって異なり、向き不向きがあるようだ。そのため最初の1週間は、自分に合う菌を見つける“テスト期間”と考えよう。同じ銘柄を食べ続けてお通じに良い変化がなければ、合わない可能性大。他の銘柄を1週間トライして、合う菌種を見つけること。
【Point3】
トッピングで飽きない工夫を
続けることが大切なので、毎日でも飽きない工夫を。好みのソースやジャムを数種類そろえ、日替わりで楽しむのもいい。また、味にコクが少ない無脂肪や低脂肪タイプを、無理して選ぶ必要はない。わずかなカロリーの差を気にするより、おいしく続けられることを優先しよう。
■腸活にイチオシはハチミツをプラス
腸内細菌のエサになるオリゴ糖を含むハチミツ。「クリニックのスタッフや患者さんの間では、これにきな粉を加えるのも定番。食物繊維も補える」と富永さん。
果物と一緒に食べても。日持ちするキウイなら常備しやすく、半分に切るだけで簡単
「ブルーベリーなら、疲れ目対策で知られる抗酸化成分のアントシアニンが豊富」と富永さん
※持病がある人は医師に相談を。健康でも、不調を感じたら中止しよう。

富永ペインクリニック院長
1967年生まれ。身長160cm、体重58kg。更年期太りダイエット中。医学博士。日本麻酔科学会認定麻酔科指導医