桜谷慎一の STRATEGIC REVIEW

デザイン、アート、テクノロジー、インフォメーション。『情報を構造化する』仕事の源泉

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※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

投稿画像を共有するスクリーンセーバー

2007年02月08日 | interested ?
ユーザーからの投稿作品をスクリーンセーバーとして共有するWeb2.0なサービスを始めました。

HIGH-TIDE
http://www.high-tide.jp/

以前はクリエイター向けだけだったのを、アート業界バージョン、犬バージョン、猫バージョン、そしてうさぎバージョンの5種類になり、投稿もしやすくなりました。

日めくりカレンダーを想像してもらうとわかりやすいですが、新しく投稿された画像を次々とスクリーンセーバーに表示させることができるサービスです。

投稿もスクリーンセーバーの使用も全て無料ですので、どんどん活用してください。
詳細は上記のサイトに書いてありまますが、個人情報も不要ですし、スクリーンセーバーに表示される画像は保存もコピーもできないようになっています。通常のウェブサイトの画像と違い、容易に複製ができないよう著作権保護機能を装備しています。

自慢の作品やペットの写真をどんどん投稿してください。

同じ仕組みのスクリーンセーバーを、社会貢献の一貫として財団法人日本盲導犬協会にも提供していて、そちらはすでにスクリーンセーバーの利用者が4万人を越え、1日で延べ30万回見られているという、スクリーンセーバーとしては前代未聞の規模で展開しています。
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ネットワークというエクリチュール ーアートと都市の新しい地平ー

2007年02月01日 | chronicles
『アート=ポート=デザイン―魅力ある都市を創る』(ぎょうせい、99/3/1発刊)に収録された記事のオリジナル版です。
最近、SecondLifeが話題になっているので、99年当時のマルチユーザーコミュニティ「Habitat」や「OnLive」「WorldsChat」に言及していたのを思い出して引っ張り出してきました。

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ネットワークというエクリチュール ー アートと都市の新しい地平 ー

所在、場所、居方
携帯電話の普及がすさまじい。
’99年1月1日に行われたPHSを含めた移動体電話の11桁化は、事業主の電話会社でさえ予想しなかったほどの利用の拡大を示すものだ。売り上げを伸ばす営業努力を続けた結果、はたと「番号が足りない」と気づいたときは愕然としたことだろう。いまとなっては、なぜ最初から桁数が足りなくなると考えなかったか当たり前すぎて不思議なくらいだ。業界全体で50億円もの巨費を投じて宣伝、応対することになろうとは、当時桁数を決めた担当者はさぞかし怒鳴られたことだろう。
だが電話というコミュニケーションメディアの成り立ちをよくよく考えてみれば、電話番号の不足を想定できなかったことで一概に担当者を責められないように思う。

電話は時間圧縮技術という見方をしてもいいだろう。その一方で、一種の空間移動技術とも言える。距離という空間的隔たりと時間の関係は、電話やその他のコミュニケーションメディアにとって重要な特性を与える。
かつての電話は、「どこそこの誰それお願いします」と電話交換機のオペレータに取り次いでもらっていた。ドキュメンタリーなどでよく使われる白黒映像を見た方も多いだろう。当時の電話は、直接会わずに話しが出来るという意味で時間圧縮をしても、距離の概念はそのまま固定化していたのである。電話のあるところに人が居るというのが前提だった。それが普及に伴ってオペレータでは捌けない規模になり、加入者には機械的処理が行えるように番号を割り振ることになった。それでもやはり電話番号は地域ごとの市外局番が決まっていて、普及も家庭や会社という場所が主であり、電話番号イコール住所と考えられたのがつい最近までだった。
「もしもし。今どこ?」。居所を特定できない携帯電話では必ずと言っていいほど聞かれる会話である。かくして「場所」という縛りから解き放たれた携帯電話は、その瞬間から爆発的に広まっていったのだ。

「場所」の概念は電話というメディアでは携帯電話の出現で相当希薄になってしまった。ところが、もともと「場所」というものからかけ離れ、距離という概念も伸縮自在なネットワークでは意外に重要な概念なのだ。
世界最大の規模を誇るネットワーク上のコミュニティに「Geocities」というものがある。ここでは参加者が無料で自分のホームページを持つことが出来るが、各自には「番地」が割り振られそこにアクセスするときは「番地」を入力するのだ。「Geocities」だけでなく、他のネットワークコミュニティでも内容を区分、分類するのに「エリア」「シティ」「プラザ」といった地理的表現がもっとも多く使われている。インターネットを楽しむためのソフトウェアであるWWWブラウザ普及の立役者であるネットスケープ社のシンボルは船の舵である。
インターネットで用いられる用語やシンボルは意外なほど「場所」を示す言葉が多い。「HomePage」はその最たるものだ。

インターネットはいまや世界中で2億人以上が接続している、それ自体がすでに巨大なコミュニティだ。東京大学の月尾教授が言うように、ネットワーク上のコミュニティは「通縁」で成り立っている。これまでコミュニティは、血縁や地縁といったつながりで成り立ち、その規模は自ずと限界があった。ところが、ひとたびインターネットにつながれば福島県の人だろうが、アラバマ州の人であろうが、はたまたネパールのカトマンズ(交通網よりインターネット環境の方が整っているのだ)の人であろうが、場所と全く無関係に縁を結ぶ事が出来る。
インターネットは情報によって構成された空間と考えることが出来る。ただ、そこは非ユークリッド空間であり、純粋に数学的な、分類不可能な世界であり、極度に歪曲された時空間である。数式を見て映像イメージを思い浮かべることの出来る数学者はいいとしても、そのままでは私たちにはどんなところかさっぱり想像出来ない。

コミュニケーションによって交換されるメッセージの内容は、互いにおかれている状況によってその意味に影響がでてくる。同じメッセージでも、家で風呂上がりにかける電話と、電車の中からの携帯電話でかけたときとはその意味に如実に違いがでてくる。電話というメディアを通じて相互交流するとき、どうしても相手のアイデンティティを意識しないわけにはいかないのである。それは話している相手の人間としての身体的特徴を、全ての手がかりを総合してイメージしているからに他ならない。この時、「場所」は非常に大きな役割を担っている。
同じ事がネットワークというメディアでも重要だと言うことは容易く想像できる。「場所」の概念がもともと無いからこそ、ナビゲーション(航行)、アドレス(地番)などの地理的関係を表現する用語を使い、「場所」の心的イメージを凡人でも容易に作り上げられるようなリテラシーを導入しているのだ。

相手のアイデンティティが不明なときほど不気味なものはない。親密なメッセージであればあるほど、その不気味さの度合いは高くなるものだ。姿の見えない(想像による心的イメージが作れない)人間との交流や自動販売機の「ありがとうございました」の声が不気味だったり、携帯電話での会話はどこか居心地が悪い。まるで乗り物酔いか時差ボケ(Jet Lag)のようではないか。
体内時計と外界の時間がズレたり、三半規管の感じとる揺れと視覚的な揺れのズレが生理的不快を生み出す。電子的なコミュニケーションは、メッセージ内容と発信者の身体的なアイデンティティの間のズレを引き起こしていると言える。この不快感を「Media Lag」とでも呼ぼうか。

心の中の都市空間
人の集まるところに情報は集まる。都市の原型はアラブのバザールや日本の楽市楽座だ。都市の機能は、情報と人を集めるというソフトウェア的な面を支援するためのハードウェアとして形成されていった。ハードウェア化することがすなわちコミュニティとしてのアイデンティティを確立するもっとも確実な方法だからである。そのコミュニティにいる人々には「都市(場所)のアイデンティティ」が自動的に付与され、社会的なコンテキストの中で自分のアイデンティティを確認できる。たとえば、都市のハードウェア機能だけを切り出して作られた筑波研究学園都市で自殺率が異常に高いのも、外的環境が与える個人のアイデンティティの問題とも考えられないだろうか。

ネットワーク上の電子コミュニティとしてもっとも成功したものに「ハビタット」がある。これは1985年にルーカス・フィルム社がサンフランシスコで始めた実験で、今のテレビゲーム機の足元にも及ばない性能のコモドール64という貧相な通信端末を用いたサービスだった。
1995年以降は新しいテクノロジーによってサービスされた「OnLive」や「WorldsChat」など3次元の空間に複数のユーザが同時にアクセスし、チャット(おしゃべり)を行うことが出来るものが登場した。ユーザはアバタと呼ばれるネットワーク上での自分の分身を選び、そのアバタを纏って、音声で会話したりテキストによるリアルタイムチャットを楽しんだり出来た。しかし、それらのサービスは長くは続かなかったり、残念ながら反響も尻すぼみとなってしまった。
一方で「ハビタット」は社会実験とも言えるほどの有用な成果を納めている。この違いはなぜか。
「ハビタット」は参加者相互の行動を促し、彼らがコミュニケーションを交わすなかで共同して探求する目標の達成を手伝うことを運営方針としていたからだ。参加者にはコミュニティ内での役割が割り振られ、あるいは自由意思によって神父になったり裁判官になったりとコミュニティ維持のための役割を果たしていった。営みの多くの部分は参加者に任せられ、システム管理者はときおり「オラクル(神託)」あるいは「ギーク・ゴッド」としてほんの少しルール変更や提案を行うだけであった。システムに柔軟性を持たせ、参加者の行動の管理を排除した上でコミュニティが維持できた事実はとても興味深い。

「ジンバルドの模擬監獄」という社会心理学の実験は有名で、人間にはある役割を演じているとその役割演技に含まれる価値観や態度が内面化するというのだ。この実験は役割による人格変容があまりに急速に進んだため、2週間の実験予定を倫理的見地から6日間で実験を中止したといいういわくつきの研究である。
一般市民から実験の参加者を募り、健康で常識的な、出来るだけ「普通」の市民を選び出す。次に彼らを看守と囚人という2つのグループに無作為に分け、それぞれの役割を演じてもらうだけなのだ。もちろん、テレビや映画で見かけるような監獄を実験場として利用し、囚人には囚人の格好を、看守には看守らしい格好をしてもらっただけだった。ところが、本物の監獄で繰り広げられることと全く同じ出来事がそこで起こったのだ。囚人は従順で自閉症になり、看守は傲慢で暴力を振るいだす。実験中、囚人が名前で呼ばれたことはついに無く、誰一人として囚人の名前は覚えていないほどだった。
予め用意されたのは、監獄という「場所」と2つの異なる「役割」だけにもかかわらずだ。
参加者それぞれが囚人や看守に抱く心的イメージ ー多くの場合マスメディアから得られたものだがーが自らに作用して個人のアイデンティティに変容をもたらす。「場所」のアイデンティティはそれをさらに加速させるのだ。

都市はそこに集う人たちのアイデンティティの集合体でもあり、個人のアイデンティティに深く浸透するという、ループ状の関係によって成り立っていると言える。一方、ネットワーク上のコミュニティはまさに純粋にアイデンティティの集合体そのものである。非物質的な接触ではあるが、確かに独立した実体が構成要素であることは間違いないだろう。さらに実際の現実で行われる価値交換はそのままネットワーク空間にも移行できよう。ただし、そこには社会的なコンテキストが基底条件として必要となる。
もともと物質的な構造を持たない空間だということは、その構造は個人の心的イメージによる構築物であり、そこには私たちが現実に抱くモデルが投射されて基礎となっている。

意味論的には、ネットワークは「拡張された」現実なのだ。

遍在するアート

第3世代美術館という建築家 磯崎新氏のコンセプトがある。
空間との関係において初めて作品として成り立つという60年代以降の潮流を彼はそう呼ぶ。
美術館の歴史を辿れば第1世代は19世紀初頭に出来上がった王様や貴族のコレクションを公開するもので、作品は動かせるというのが前提にあった。モダンアート以降1950年代ぐらいまでが第2世代。既に制度化してしまったものに反抗するデュシャンのような作品が出来上がってきた時代だ。制度としては変わっても、依然として絵画と彫刻という形式であり、作品を置く台座や背景となる壁があれば美術館として成り立っていた。
第3世代美術館はインスタレーションのように人間と作品、作品と空間という関係性の上に成り立つ芸術を享受する場所だと磯崎氏は言う。

限定性が芸術的価値をもたらしていたこれまでは、美術館の床や壁や、オリジナルであることが作品には不可欠であった。版画やマルティプル作品、ビデオアートなど新しい表現が生まれてきたのは、アーティストにとってもこの限定性を乗り越えることが芸術的価値のひとつだったからだ。
インスタレーションやパブリックアートはこの限定性を克服しようという流れの中にある。作品は「私」と別の存在として「鑑賞する」ものから、鑑賞者が作品空間に実在することで初めて作品として完成する。逆に言えばアーティストが作った段階では作品は未完成なのである。これは、作品に対峙したとき、鑑賞者の心理、挙動と密接な相関を引き起こすと共に、作品が多様性を持っていることも意味している。ただ、残念ながら美術館という建築物からは離脱できても、空間を必要とする意味で空間に縛られた存在でもある。

インターネットでは世界中の数多くの美術館がウェブサイトを公開している。「Open 24hours、Admission fee free!」とまで宣伝するサイトもある。作品を紹介する場所である美術館は「メディア」として読み換えることが出来るはずだ。美術館がネットワークを媒介として作品を公開しているのも至極当然である。さらに、ニューヨーク近代美術館やカルティエ現代美術財団などは、Net Art、Online Projectあるいはバーチャルギャラリーと銘打ってウェブサイトで作品を公開し始めた。これらの作品は物理的な形状を持たず、デジタルデータとしてネットワーク上にだけ存在しているものだ。美術館自身が自らの限定性を振りほどこうとしている証拠であり、アートの「遍在」を実現させる展開として革命的と言えよう。
ピーター・ハリー、バレリー・グランシェールらが果敢にも作品発表しているが、正直未消化の感が拭えない。ネットワークを媒材とした、既存の表現を越えたアートに到達できていないのだ。

オーストリアの美術史家であり、レンブラント研究の第一人者であるオットー・ベネシュは「種々の文化活動の根底にはある一つの時代に同一の精神的要素が横たわっていることを理念の歴史が教えてくれる。理念史的方法は、美術現象と科学現象との相関関係を引き出し、そこから両者の相互解明が期待できる。」と著書「北方ルネッサンスの美術」で述べている。コペルニクスの地動説というダイナミックな世界観は、ほぼ時を同じしてアルトドルファーからブリューゲルに到る絵画において発展していった、宇宙内の中心からそれた地点に人間を置くことで宇宙の広大さを暗示するという空間の概念の理論的体系化を果たした。このように技術と芸術が同時性を持つことは、「ARS」という言葉ひとつがその両方の概念を兼ね備えていた古代ローマ時代から知られていることである。
アートも情報のひとつであり、美術館の役割は私たちにアートを伝えるメディアでもある。「Web Art」とでも呼ぶべきネットワーク空間に展開されるアートは、パブリックアートが目指す最終段階と言える。60年代から拡がったネットワークテクノロジーは、空間の限定性や美的価値の限定性を劇的に拡張するかもしれない。

ここに暖炉がある。これを伝えようと写真を撮ってみる。写真に撮った暖炉の火の視覚的イメージは私たちを暖めることは出来ない。外観を越えた内奥の本質を伝えきれないのだ。このとき、熱こそが真のメディアなのだ。たとえ眼が塞がれていても、熱を感じることで私たちは炎の心的イメージを描くことが出来る。
今のところ「Web Art」はあまりに視覚に頼りすぎている。五感のうち、視覚が受け持つ情報量は確かに全体の情報量の7割にも及ぶが、視覚が主導的役割を果たしているわけでもない。テクノロジーが稚拙でも、私たちはラジオで野球の試合を観たり、白黒テレビでも記憶は彩色が施されていたりと、豊かな心的イメージが描くことができる。
美的価値を担う対象をつくるために、それが迫真的である必要はないのだ。むしろ細部を削ぎ落とし、意識の集中すべき部分を際立たせる必要がある。この時、表現媒材の選択も重要だ。たとえば、人体彫刻を行うのに人体と物理的性質のよく似たロウやラテックスを用いて迫真的に作ることは、美的価値よりも不気味さを感じさせてしまう。迫真的だからこそ実物を連想してしまう。実物とのズレだけしか認識できなくなるのだ。逆に木材、石材、金属材のように人体と全く異質の媒材を用いるのは、作品に対する純粋な静観態度を導くためである。
芸術作品はその時に見えている視覚的形態ではなく、アーティストの理念と作品実現のプロセスが内包されていることで芸術的価値を生み出す。どちらがかけても芸術性を失ってしまう。作品に対峙することで喚起される美的世界は、個人個人の五感と知性が心の中に築き上げたイメージ空間に他ならない。

新しい表記法(エクリチュール)

高層ビルの上から地上を見下ろした時、どんな風景が眼に入るだろう。
人々は道路を行き交い、建物の中に入り、何かを携えて出てきてはまた他の建物へと移動していく。なんの変哲もない、ごく普通の営みに見える。この映像をビデオに録画してテレビに映してみよう。その時、ひとりの人の動きに注目すると、途端にコンピュータディスプレイの画面に表示されるカーソルの動きに見えてくる。頭の中で、ビルはフォルダーに、そのビルの中のテナントはファイルに段々と思えてくる。机の上のコンピュータには自分しかいないが、そのコンピュータ同士をつなげるネットワークは人との架け橋でありコミュニティを紡ぎ出す。ネットワークの中にも都市は存在するのだ。梁の構造やコンクリートの圧縮強度といった構造工学、材料力学と無縁でも、都市空間が確かに拡がっている。
コンピュータの使いやすさを考えるときに必要なのは、ヒューマンインターフェースという考え方である。人間の視覚特性や知覚、認知の観点からコンピュータと人間の親和性を高めようというアプローチだ。アフォーダンス、ビジビリティ、マッピングなどの概念があるが、根幹となるのは機能統合されたコンピュータというシステムモデルと、それを使った時に人の脳内に出現する心的イメージ(ユーザモデルと呼ばれる)の間のズレをどれだけ小さくすることが出来るか、ということだ。もちろん、そのズレが小さければ使いやすく優れたインターフェイスを持っていることになる。
盲目の人はどんな都市空間に住んでいるだろう。
点字タイルや点字プレート、「通りゃんせ」のメロディなどが彼らにどんな心的イメージをもたらしているか、そしてその想像の都市空間が現実の都市の構造や機能と果たして一致しているだろうか。現実と心的イメージのズレは生理的不快感を誘発し、立っている場所が曖昧だとアイデンティティは揺らいでしまう。盲目の人にとっての現実の都市空間と、そうでない人にとってのネットワーク空間は、実は等価であると言えるのではないだろうか。
ネットワーク空間そのものを構造として見ることは出来ない。ネットワークを通じてコンピュータディスプレイが放つ情報の光の粒子は、私たちの心の中に透明な空間構造を組み上げる。人と情報の集まるその空間は、都市の原型である。都市の未来もそこにある。

同時に、芸術はこれまでギャラリー、美術館、学校などの権威構造が存在することで「アート」というラベルをつけることが出来た。個人と個人、個人と大衆が直接交流し、マスメディアによる未必の操作や権威主義の対極にあるネットワークコミュニティでは、権威による価値評価を排し作品のもつ芸術的価値がより厳しく問われることになるだろう。芸術作品が内包するアーティストの理念と作品実現のプロセスを伝えるのは、美術館というメディアでもネットワークというメディアでも本質的に差違は無いように思う。作品の芸術的価値はメディアによって変わるはずはないのだ。作品が私たちの心の中にそれぞれの美的世界を形作るか、そうでないか。今まで隠されていたアートと都市の相互関係を表出させるネットワークは、新しい表記法であり新しい場所なのだ。

芸術的価値を享受する場所は、美術館や、都市や、ネットワークに遍在している。
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