桜谷慎一の STRATEGIC REVIEW

デザイン、アート、テクノロジー、インフォメーション。『情報を構造化する』仕事の源泉

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※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

吉田恭子ヴァイオリンリサイタル

2005年10月20日 | spices of life
今日は、紀尾井ホールでのヴァイオリンリサイタルを聴きにいってきました。曲目は、

 モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第34番K.378
 シューベルト:幻想曲 op.159
 イザイ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第6番ホ長調 op.27
 ドヴォルザーク:4つのロマンティックは小品 op.75
 ヴィエニャフスキ:華麗なる創作主題による変奏曲 op.15

毎年この時期に、一年間の総まとめとして開いているリサイタル。いつも難曲をセレクトし、自分にプレッシャーをかけて臨む姿勢にはとても感動します。研鑽を積むとはこういうことをいうのでしょう。
超絶技巧にプラス美音。機械的でもなく、叙情的すぎることもない、その辺りのバランスが心地よいです。

仕事の関係もあり、友人でもあり、演奏家ではない顔も知っているけれど、生粋のアーティスト。物事に対する美的センスとこだわりは、ハンパじゃないです。尊敬できる生き方をしている人の一人です。

ふと顔見知りの女性を思い浮かべたら、恭子ちゃんのような音楽家や、ライター、料理研究家、獣医、翻訳者、ミュージカル女優など個人の専門性を生業にしている人がとても多いことに気づきました。男性の方が組織に安住していたり、フリーランスをきどっていたりしていて、ピンで勝負!という侠気は、いまや女性の方が持っているのかも知れませんね。


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アエラに掲載されました

2005年10月17日 | interested ?
10月17日発売の『アエラ No.57』、”増殖するメトセク男”の記事のなかで紹介されました。
思った以上に大きく載っていて、ちょっとびっくりです。
自宅の様子だけでなく、ウサギのぜんざい♂まで掲載してもらいました。
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意気地のないデザイン

2005年10月15日 | diagnoses
久しぶりにSony Japanのウェブサイトを覗いてみた。これはソニーブループのポータルサイト、文字通り窓口となるサイト。

で、イラストを使ったFlashのインターフェースをみて、なんとも言えない違和感を覚えたので、それをどう表現しようかと考えていたら出てきたフレーズが

意気地のないデザイン

というもの。

まず、イラストそのもの。
キレイに描けたイラストだけれども、登場人物には顔がありません。
顔が無いと言うことは表情がない。そこには、驚きも感動もないということです。
『心の琴線に触れる』ということをいつも口にしていた大賀さんのポリシーからはもう遠く離れてしまったということでしょう。

カテゴリごとに対応するシーンが切り出されるのですが、それがどうにも感覚がズレているというか、古くさいセンスなのです。小舅のようですが、細かく指摘してみると、

「エレクトロニクス」にはお茶の間で一緒にテレビをみる家族、
「ゲーム」にはPSPを持った子供、
「音楽」にはウォークマンを持った女性、
「映画」には手をつないだアベック、
「金融サービス」には子どもを肩車した家族連れ
「インターネット/ライフスタイル」には、オープンカフェでNotePCを見ている女性、

いや、確かにどれも間違っているわけではないですが、あまりに無難すぎというか保守的すぎて、市場を創りあげようとする気概というのが感じられないのです。
少子化や個の時代と言われて久しい昨今に、お茶の間(あえてリビングとは言いません)で家族一緒にテレビをみるというライフスタイルを持つ人をカスタマーと思っているわけでもないと思います。PSPはそんなに子どもに売りたいのか、購買層を分析するとオトナの方が多いのではないか?などなど突っ込みどころ満載なのです。

次にインターフェース。
これがどうにも使いにくい。とても単純な仕組みなのですが、縦長に分割された6つのカテゴリのエリアにonMouseするとそこがカラーになり、上部にカテゴリ説明の帯が洗われます。
単純でわかりやすいです。。。が、
omMouseしているエリアの項目を選ぶには、上部の帯をクリックする必要があります。
6つのカテゴリのうち、4つは帯がひとつだけ、つまりサブカテゴリはひとつ。あとの2カテゴリは、サブカテゴリが2つなので帯も2つ出てきます。
「金融サービス」のエリアにonMouseしてみましょう。帯がひとつ表示されます。で、ここでエリアをクリックしたくなります。でも、クリッカブルではありません。あくまで帯がナビゲーションとなってます。
で、帯をクリックしようとするのですが、カーソルを移動させるときにちょっとでも隣の「映画」のエリアにカーソルが入ろうものなら、そっちがアクティブになってしまい、「金融サービス」の帯をクリックすることはできません。この場合、悪いことに「金融サービス」の帯の中の紹介文の文字は帯のかなり左側にあり、一般的な動作として、文字をクリックしたくなるのです。すると途端にカーソルは別のエリアに触れてしまい、肝心の情報には辿り着けません。

また、Flash右下の[最新のトピックスを見る]の脇にある矢印アイコンは、もちろんクリックをアフォードしているのですが、これが10ピクセルx10ピクセルで、まるで押せるか押せないかを競うゲームのように押しにくいのです。
[最新のトピックスを見る]もクリッカブルですが、矢印アイコンの方が強くアフォードするので、カーソルは矢印に合わせたくなります。

もうひとつ、画面サイズ。
横幅がなんとも小さい。あまりに小さすぎる。
5年前ぐらいのウェブサイトのように、800x600ピクセルのディスプレイをもったユーザ向けに作ったかのような小ささです。いまどきどんなNotePCでも最低1024x768ピクセルは表示できるはずですし、PCやディスプレイを製造販売しているわけですから、ユーザーの持っているディスプレイ環境についてのマーケティングデータもあるはずです。どこから割り出したサイズなのか見当がつきません。
よくプリンタブルなページにするために横幅をA4で印刷できるサイズにしてあったりしますが、ほとんど情報らしきものが表示されていないこのページをプリントする必然性は皆無です。

まったく別の意図でこのサイズにしているのかもしれませんが、さらに追い打ちをかけるのは、これがポータルサイトなのでクリックするとソニーグループの別のページに飛び、そっちのサイトはポータルサイトより横サイズが大きいのです。試しに「音楽」→「音楽配信」をクリックしてみてください。
さすがにこのポータルサイトのサイズにウィンドウを合わせて見てるユーザーはいないと思いますが、トップページというのはウィンドウをリサイズさせる基準を与える役割もありますから、他のページをみたときに、それがグループ会社で別運営だとしても、根拠なくサイズが変わってしまうのはどうにも気持ちが悪いのです。
実は、同じポータルサイト内の「インターネット/ライフスタイル」をクリックしても、横幅は変わってしまうのですけど。。。

結論として、主張のない、勢いのない、表情のないデザインという印象になったわけです。
『意気地のないデザイン』というのがどうにもしっくりきてしまいました。
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ウェブサイトの構造化

2005年10月13日 | perceptive designs
目に見える、cosmetic designとしてのウェブページを制作できる人は、レベル問わず数多くいますが、コンテンツのメンテナンスやサーバー管理まで考慮したウェブサイトをデザインできるようになるためには、ウェブサイト、より具体的にいうとデータファイルを構造化する必要があります。

無計画にFireworksやImageReadyを使って画像のスライスをし、Dreamweaverなどでオーサリングしていくと、ファイル構造がめちゃくちゃなサイトが出来上がってしまいます。
納品してしまえば後は無関係というなら、見えるところだけきちんと作るのでも十分ですが、それではウェブデザインとは言い難いでしょう。

ファイルの構造化について、基本的なルールをまとめてみました。
最初はとまどうかもしれませんが、慣れてしまうと作業効率も上がるし、更新作業も非常に楽になります。

理想的なファイル構造は以下のようなものです。



/index.html:トップページ

/category01/:カテゴリのひとつ
  /images/       :/category01/で使用する画像はすべてここにおく
  /index.html     :カテゴリ内のトップページ
  /item1.html     :その他ページ(ファイル名は任意)
  /item2.html     :その他ページ(ファイル名は任意)
  /item3.html     :その他ページ(ファイル名は任意)

/category02/:カテゴリのひとつ
  /images/       :/category02/で使用する画像はすべてここにおく
  /index.html     :カテゴリ内のトップページ
  /item1.html     :その他ページ(ファイル名は任意)
  /item2.html     :その他ページ(ファイル名は任意)

/images/:サイト全体で共通して使うメニュー関係の画像

/css/

/shared/



基本ルールは、

・各ディレクトリは必ず画像格納用 /images/ とindex.html を持っている
・/images/は全体で共通で使うものとカテゴリで使うものを分ける
・ファイル名は、アルファベット順にソートされることを考慮し、同種の
 ものが並ぶように考慮する。たとえば、

/images/menu_btn1.gif
/menu_btn2.gif
/menu_btn3.gif
/logo_big.gif
/logo_small.gif

です。

こうすることでサイト全体の見通しが良くなり、カテゴリ毎の改変も容易になります。
この構造化は、サーバーの configuration が関係することも考慮してありますので、なぜそうするか全部の理由がわからなくとも実践することをお薦めします。
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日本盲導犬協会のスクリーンセーバー

2005年10月12日 | interested ?
10月12日から財団法人日本盲導犬協会の『M/acute|エムアキュート』サービスがスタートしました。

『M/acute|エムアキュート』は、ARSeeDが開発した技術で、スクリーンセーバーに簡単に情報を配信することができるものです。詳しくはこちらで。

デスクトップに愛らしい盲導犬の写真が次々と現れるとても素敵なスクリーンセーバーです。協会のイベントや活動についてのお知らせが配信されるようになっていて、賛同者とのコミュニケーションツールとして採用していただきました。
ハーネスをつけた盲導犬の写真が多くの人の目にとまり、いままで以上に盲導犬に対しての理解と認知が深まってくれればという想いで制作をしました。
今回、ARSeeDは『M/acute|エムアキュート』のサービス提供を通じて財団法人日本盲導犬協会をサポートすることになりました。

社会貢献活動として自分の開発した技術が活かせることはとてもうれしいことです。
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SEOは崩壊するか?

2005年10月09日 | diagnoses
この一年で、世界中のウェブページが約100億ページも増加し、およそ250億ページ以上のウェブページがネットワーク上に存在するようになりました。
つまり、WWWというものができてから10年間で100億ページに増えた状況から、たった1年で2.5倍になった計算になります。

これは、ブログの普及に起因するのは実感としてわかるでしょう。

個人にとって手軽な日記ツール(別に日記用ツールではないのですが)であり、企業もマーケティングに使えるなど様々な利点があることからブログは世界中で爆発的に普及しました。
また、ブログで書いたページは見事にSEOが適用されていて、検索結果として表示されることも大きなメリットなのです。

ところが、ここ数ヶ月、リサーチのためにいろいろなキーワードを検索していると、関係の無い個人のブログやエログが検索リストの上位に上がってくるようになりました。普通名詞の複合検索でさえ、そういった類のものがリストされてしまいます。
よくよく調べてみると、一つのエントリに200以上のトラックバックがあったり、相互リンクがわりにトラックバックをしあったりしていることがわかりました。
PageRankの特性を巧みに利用したとても正しいトラックバックの使用法であるとともに、こういう使用法が蔓延すると、SEOそのものが意味をなさなくなるのではないかと危惧していました。

この状況は1994年頃のインターネットの状況に似ています。
その頃は、検索サイトにリストされる(つまりIndexingされる)ためには、METAタグに keywordとdescription を埋め込むという手法だけが有効でした。インターネットユーザーが、大学の研究者や企業の理系の人間がほとんどであり、まだ技術的ハードルが高かった時代、METAタグのおかげで随分と検索がしやすくなり悪用する人もまったく存在していなかったのです。
ところが、徐々にアダルトサイトが増加するにつれ、アダルトサイト運営業者が自分のサイトにユーザを誘導するためにとった手法は、METAタグに普通名詞を500個も1000個も入れ、アダルトサイトとわからない description を埋め込んで油断させたのです。
この手法によって、検索サイトを利用すると、なにを入力しても上位はすべてアダルトサイトとなり(つまりそれだけ数が多いということですが…)、検索そのものが意味を成さない事態にまで発展しました。

この事態を回避するために生み出されたのが、METAタグを検索対象とするのではなく、本文を検索対象とする全文検索システム『Alta Vista』だったのです。
マーケットの進展が技術を追い越した珍しい出来事だとも言えますが、いままさにそれと同じような状況になっていると言えるでしょう。

拍車をかけていたのはこんなサービス『アダルトプラス』です。
ビジネスになるとはいえ、社会的影響力のある大手企業が手がけるサービスではないとはっきり言っておきます。
今現在はリンク先が存在せず、8月以降なにやら改変された模様。

9月29日にリリースされた Movable Type3.2では「迷惑コメント・迷惑トラックバック」対策が主な仕様となっており、これで少しは状況は改善されるでしょう。開発コードネームが「SpamFighter」というだけあって、十分効果を発揮してくれると思います。サードパーティからもスパム対策用のプラグインがいろいろと出てもいます。
Googleなどの検索サイトでもblogだけを選別できるようアルゴリズムを変更し、あまり上位には出なくなってきました。

終わりのないイタチごっことはいえ、自分のブログがこういったことに加担しないよう十分注意する必要がありますね。
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Direction Five : “アクセスを稼ぐウェブサイトにするためには?”

2005年10月05日 | perceptive designs
前回までのコラムのなかで、オリエンテーションやコンペの臨み方(Direction One : それぞれに事情はある)、インターネットのメディア特性(Direction Two : プアでリッチなメディア、それがウェブ)、クリエイティブ・テーマとメンタルモデル(Direction Three : そのデザインに必然性はあるか?)、ブランディングを意識したビジュアルアイデンティティ(Direction Four : なぜ違う?ウェブ上の企業イメージ)と、ひと通りウェブ制作の「プリプロダクション」というべきパートについて書いてきました。

優れたウェブサイトを作る心構えができたところで、今回はより実践的な内容をお届けします。

SEOがなぜ重要か?
SEOと略される「検索エンジン最適化(Search Engine Optimaization)」については、ウェブマスターもウェブデザイナーもすでに何らかの知識を持ち、実践している方も多いことでしょう。
どんなに優れたウェブサイトでも、いまやSEOなしではアクセスの増加が期待できなくなってきています。そして、ウェブデザイナーにとって、一番わかりやすい評価指標がアクセス数であるため、これはもう無視できない状況になっています。

SEOを簡単に定義すると、Googleに代表される全文検索型サーチエンジンに対し、

 ・いかに高確率でヒットさせるか
 ・上位にランキングさせるか
 
ということになります。SEOコンサルティング専門業者もここ数年で数多くできていますが、なかには悪徳業者も少なくありません。プロのウェブマスターならそれを見抜く眼力が必要です。単純ですが、SEO業者が「上位にランキングすることを保証します」と断言したら、そこは良心的な業者とは言い難いです。

先に挙げた定義は実はまだ不十分で、本来はさらに

 ・適切なサマリを表示させ
 ・クリックを誘導し
 ・ユーザの期待に沿ったページを表示させる!
 
というところまで含んでいると理解してください。

ウェブサイトを作って公開しただけではアクセスは増えません。それもそのはず、世界中には 150 億以上ものウェブページがあり、日々増加していますから当然です。さらに、ドメインの多様化によって、企業名や商品名から推測して URL を入力してみても、ユーザがお目当てのサイトに辿り着く確率はとても低くなってしまいました。
SEO 以前は、ウェブサイトの告知はバナー広告やメール広告によるものがほとんどであり、あるいは莫大な費用を投じてテレビコマーシャルを打つこともありました。ところが、バナー広告やメール広告のクリックスルーレートは下降の一途を辿り、費用対効果が見込めなくなってきたことと、ユーザが検索サイトを日常的に利用するというリテラシーの変化を背景に、検索エンジンで高スコアを得ることが重要視されはじめたわけです。

マーケティング的視点からみれば、マスメディアを通じて興味をもったモノを、ユーザは正確に URL を覚えているわけではないので、すぐに検索をすることになります。この時、ユーザが求める情報を正しく伝えることがウェブを活用したマーケティングのポイントと言えます。
このことから、広告やキャンペーンが絡む場合は、マスメディアだけでなく、ウェブも含めた5大メディアでの展開案を考えて初めて消費者に効果的な訴求ができる時代になりました。

SEO専門業者は、上位にランキングさせることを主な目的としているため、ウェブサイトのクリエイティブやメンテナンスコストについてあまりウェイトを置いて考えないケースが多く見受けられます。検索エンジンにとって魅力的に見えるサイトが、必ずしも人間が見て魅力的とは限らないわけです。ウェブデザイナーこそSEOをマスターすべきであり、アクセス増加という成果をもたらすウェブサイトを制作するのが、プロのウェブデザイナーと言えるでしょう。

Googleの秘密
社会における人間関係の相関を考えてみた場合、かならず「ハブ」となる人が思い当たるはずです。
マルコム・グラッドウェル著「ティッピング・ポイント」では「コネクター(媒介者)」ともいわれる人は、とにかく顔が広く、しかも、幅広い分野の重要人物を知っている。1つひとつの絆はそれほど強くなくても、絆の多さには右に出るものがいない。いわば「弱い絆の達人」とも言えるのです。
新しい知識を得たい、新しい関係を築きたいという場合、この「コネクター」に相談するのが多いことを、実感として誰もが感じていると思います。

「コネクター」はある程度の数の絆を持つと、それをもとに爆発的に人との関係が増えていき、同時にそれらの人間関係のリンクから常になんらかの情報が(有益、無益に関係なく)もたらされるようになるという意味で「ハブ」の役割を果たします。しかも、あらゆる情報を平等に伝えるのではなく、inbound 情報に独自のフィルタリングを行った上で outbound 情報をつくりあげ、さらにそれを適切な人に伝えていきます。結果として、「コネクター」から受け取った情報は自分にとって非常に有益であり、「コネクター」が紹介してくれた人物とは何のためらいもなく新たな絆(リンク)が持てる相手となるのです。

Googleのサービスの根幹を成す PageRank はまさにこの社会工学的なリンク構造をネットワーク上のページの相関関係に持ち込んだものなのです。
つまり、「多くの有用なページからリンクされているページは、やはり有用なページである」ということを、およそ90億ページのリンク構造によって判定しています。判定の具体的なポイントは以下の3つとなります。

 1. たくさんのページからリンクされているか(被リンク数)
 2. 人気度の高いページからのリンクか(PageRankの高いページからか)
 3. 選び抜かれた上でのリンクか(リンク元ページのフィルタリング)

被リンク数の多さというのは、やはりひとつしかリンクされていないページよりもたくさんのページからリンクされている方が情報として有用であると判断していることを意味します。

次に、人気度の高いページからリンクされているかどうかも指標となっています。YahooやAltaVistaなどのポータルサイトからのリンクや、企業のオフィシャルサイトからのリンクなどがあると「類は友を呼ぶ」的な良質のページであると判断されます。

さらに重要なアルゴリズムとして、リンク元のページが持つリンク数が少ないかどうかを判定の基準としています。これは、リンク集としてやたらに多くのサイトにリンクをもっているページからリンクされていてもランキングは高くならないことを示しています。アダルトサイトのように多数の相互リンクをもっているようなページはこのアルゴリズムによってランキングが低くなっているのです。

これらのアルゴリズムは現実のインターネット空間の性質を数学的に捉えてプログラム化したものであり、スケール・フリー・ネットワークのトポロジーを反映させた理論です。最新のトポロジー研究によってもたらされた学術的な裏付けのある仕組みのため、このアルゴリズムを越えた検索エンジンを開発するのは容易ではないこともGoogleの大きな特徴です。

SEOの基本的なテクニック
PageRankはもちろんそれ以前のアルゴリズムであっても、とにかく他のページとリンクしていないことには、インデックシングの対象になりません。しかも、自分のページから他のページにいくらリンクをしても自分のページのランキングは上がらないのです。
サイト構造すなわちリンク構造を決定する上で、以下の基本テクニックを使えなければプロのウェブデザイナーと言えません。

1. 検索ロボットが辿るのは<A></A>のみである
検索エンジンに対してリンク構造を成さないのは、Javascript での location.href による記述、<META HTTP-EQUIV="refresh"> による自動リロード、Shockwave FLASH のリンク、イメージマップ、Java Applet のリンクである。特に<META HTTP-EQUIV="refresh"> はこれが書かれたページそのものをスパムページとして削除してしまう。

2. 画像に対するリンクも有効である
<A></A> で囲まれた画像であればインデックシングの対象となる。この場合、画像ファイル名と ALT に記述されたテキストがインデックシングされる。

3. リンク関係を絞り込む
ひとつのサイト内での相互のリンク構造も PageRank の判定要素となるが、ハイスコアのためには的確なリンク指定が必要となる。このためには <meta name="robots" content="index,follow"> や、サーバー内に適切な記述の robot.txt ファイルをおくことでロボットがインデックシングしていく経路をコントロールできる。

4. 同一ドメイン、同一ファイル名を継続的に使用する
新しい URI をインデックシングするのは数週間から数ヶ月もの時間を要するため、タイムリーな話題を新規のページとして作成するとユーザが検索してアクセスしてくる頃には既に古い情報となってしまう。
また、被リンク数がランキングの判定要素となっていることから、古いページほど被リンク数が多くなる傾向があるのでこれを資産として活用するよう配慮するべきである。

なお、PageRank は常用対数で扱われていることに注意してください。このため、被リンク数を増やそうと相互リンクのバナーを何十個もページに載せたり、不要にリンク指定を増やしたとしてもランキングはせいぜい0.5程度しか上がらないのです。
これはインターネット上の 250億にのぼるウェブページをランキングするために最高位を10とした順位が割り振られており、被リンク数が10から100へと桁が変わって初めてランクがひとつ上がるという変化の度合いになっています。サイト内部でのリンクを増やしても PageRank にはあまり大きな影響を与えないということも覚えておいてください。

さらにプロフェッショナルを目指すなら、コンテンツそのものに眼を向ける必要があります。聞き慣れない言葉ですが「形態素解析」への理解は、2バイト言語の SEO を駆使する上でとても重要です。
形態素解析は、自然文から品詞ごとの単語に切り出す技術のことで、全文検索型データベースにとって必須の技術です。この技術は、ページ内におけるクエリとなったキーワードの出現頻度を測る際に、全文の単語数を算出するために使われます。さらに重要なのは、キーワードがどのような単語で成り立っているか、言い換えると形態素解析によってキーワードがどんなクエリとして表現されるかという点を考慮しなければなりません。
これはかならずしも人間の認知と同一ではなく、それぞれの検索エンジンがもっている専用の辞書にどのような語句が登録されているかに左右されるため、キーワードにはこの辞書のクセを反映させる必要があります。
たとえば、「母の日」は「母/の/日」に分解されることはなく、あくまで一語の「母の日」として登録されています。これはもしユーザーがクエリとして「母」を入力しても、「母の日」を含むページが検索結果として現れてこないことを示します。また接頭語、接尾語などの扱いも検索エンジンによって微妙に異なるため、コンテンツの中でキーワードの表現にさまざまなバリエーションを持たせることでスコアを改善することができるのです。

なお、キーワードの表現について実際に試してみたい方は、以下のサイトを利用するといいでしょう。

Overtureキーワードアドバイスツール
Googleキーワードアドバイスツール

SEOのより深い理解のために
PageRank の考え方として、ひとつのリンクが人気投票の一票であると考えるとわかりやすいでしょう。
自薦ではなく、あくまで外部のサイトから票を投じてもらうことで PageRank が確実に増えていきます。たくさん票をもったサイトからリンクしてもらうことは、正しい情報、有益な情報を常に発信していることに対しての票であり、PageRank の向上だけを目的とした手法ではアルゴリズム変更によってインデックスから削除されてしまいます。
少しのテクニックが必要ではありますが、やはり王道は継続的に質の高いサイトを運営し、他のウェブサイトのリファレンスとなるウェブサイトを目指すことに他なりません。
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Made on a Mac @ Apple Store, GINZA

2005年10月05日 | interested ?
10月27日(木)夜7時から、銀座のアップルストアのシアターで開かれる Made on a Macに出演します。
『Grab Your Imagination』と銘打った6回シリーズの最終回です。

今回は、「Sony Japan」ウェブサイトのリニューアルプランを例に、意匠と機能を両立させるウェブサイトの設計手法についてレクチャーします。

詳しくはこちら
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ネットワークというエリクチュール ーアートと都市の新しい地平ー

2005年10月04日 | interested ?
所在、場所、居方

携帯電話の普及がすさまじい。
’99年1月1日に行われたPHSを含めた移動体電話の11桁化は、事業主の電話会社でさえ予想しなかったほどの利用の拡大を示すものだ。売り上げを伸ばす営業努力を続けた結果、はたと「番号が足りない」と気づいたときは愕然としたことだろう。いまとなっては、なぜ最初から桁数が足りなくなると考えなかったか当たり前すぎて不思議なくらいだ。業界全体で50億円もの巨費を投じて宣伝、応対することになろうとは、当時桁数を決めた担当者はさぞかし怒鳴られたことだろう。
だが電話というコミュニケーションメディアの成り立ちをよくよく考えてみれば、電話番号の不足を想定できなかったことで一概に担当者を責められないように思う。

電話は時間圧縮技術という見方をしてもいいだろう。その一方で、一種の空間移動技術とも言える。距離という空間的隔たりと時間の関係は、電話やその他のコミュニケーションメディアにとって重要な特性を与える。
かつての電話は、「どこそこの誰それお願いします」と電話交換機のオペレータに取り次いでもらっていた。ドキュメンタリーなどでよく使われる白黒映像を見た方も多いだろう。当時の電話は、直接会わずに話しが出来るという意味で時間圧縮をしても、距離の概念はそのまま固定化していたのである。電話のあるところに人が居るというのが前提だった。それが普及に伴ってオペレータでは捌けない規模になり、加入者には機械的処理が行えるように番号を割り振ることになった。それでもやはり電話番号は地域ごとの市外局番が決まっていて、普及も家庭や会社という場所が主であり、電話番号イコール住所と考えられたのがつい最近までだった。
「もしもし。今どこ?」。居所を特定できない携帯電話では必ずと言っていいほど聞かれる会話である。かくして「場所」という縛りから解き放たれた携帯電話は、その瞬間から爆発的に広まっていったのだ。

「場所」の概念は電話というメディアでは携帯電話の出現で相当希薄になってしまった。ところが、もともと「場所」というものからかけ離れ、距離という概念も伸縮自在なネットワークでは意外に重要な概念なのだ。
世界最大の規模を誇るネットワーク上のコミュニティに「Geocities」というものがある。ここでは参加者が無料で自分のホームページを持つことが出来るが、各自には「番地」が割り振られそこにアクセスするときは「番地」を入力するのだ。「Geocities」だけでなく、他のネットワークコミュニティでも内容を区分、分類するのに「エリア」「シティ」「プラザ」といった地理的表現がもっとも多く使われている。インターネットを楽しむためのソフトウェアであるWWWブラウザ普及の立役者であるネットスケープ社のシンボルは船の舵である。
インターネットで用いられる用語やシンボルは意外なほど「場所」を示す言葉が多い。「HomePage」はその最たるものだ。

インターネットはいまや世界中で2億人以上が接続している、それ自体がすでに巨大なコミュニティだ。東京大学の月尾教授が言うように、ネットワーク上のコミュニティは「通縁」で成り立っている。これまでコミュニティは、血縁や地縁といったつながりで成り立ち、その規模は自ずと限界があった。ところが、ひとたびインターネットにつながれば福島県の人だろうが、アラバマ州の人であろうが、はたまたネパールのカトマンズ(交通網よりインターネット環境の方が整っているのだ)の人であろうが、場所と全く無関係に縁を結ぶ事が出来る。
インターネットは情報によって構成された空間と考えることが出来る。ただ、そこは非ユークリッド空間であり、純粋に数学的な、分類不可能な世界であり、極度に歪曲された時空間である。数式を見て映像イメージを思い浮かべることの出来る数学者はいいとしても、そのままでは私たちにはどんなところかさっぱり想像出来ない。

コミュニケーションによって交換されるメッセージの内容は、互いにおかれている状況によってその意味に影響がでてくる。同じメッセージでも、家で風呂上がりにかける電話と、電車の中からの携帯電話でかけたときとはその意味に如実に違いがでてくる。電話というメディアを通じて相互交流するとき、どうしても相手のアイデンティティを意識しないわけにはいかないのである。それは話している相手の人間としての身体的特徴を、全ての手がかりを総合してイメージしているからに他ならない。この時、「場所」は非常に大きな役割を担っている。
同じ事がネットワークというメディアでも重要だと言うことは容易く想像できる。「場所」の概念がもともと無いからこそ、ナビゲーション(航行)、アドレス(地番)などの地理的関係を表現する用語を使い、「場所」の心的イメージを凡人でも容易に作り上げられるようなリテラシーを導入しているのだ。

相手のアイデンティティが不明なときほど不気味なものはない。親密なメッセージであればあるほど、その不気味さの度合いは高くなるものだ。姿の見えない(想像による心的イメージが作れない)人間との交流や自動販売機の「ありがとうございました」の声が不気味だったり、携帯電話での会話はどこか居心地が悪い。まるで乗り物酔いか時差ボケ(Jet Lag)のようではないか。
体内時計と外界の時間がズレたり、三半規管の感じとる揺れと視覚的な揺れのズレが生理的不快を生み出す。電子的なコミュニケーションは、メッセージ内容と発信者の身体的なアイデンティティの間のズレを引き起こしていると言える。この不快感を「Media Lag」とでも呼ぼうか。

心の中の都市空間

人の集まるところに情報は集まる。都市の原型はアラブのバザールや日本の楽市楽座だ。都市の機能は、情報と人を集めるというソフトウェア的な面を支援するためのハードウェアとして形成されていった。ハードウェア化することがすなわちコミュニティとしてのアイデンティティを確立するもっとも確実な方法だからである。そのコミュニティにいる人々には「都市(場所)のアイデンティティ」が自動的に付与され、社会的なコンテキストの中で自分のアイデンティティを確認できる。たとえば、都市のハードウェア機能だけを切り出して作られた筑波研究学園都市で自殺率が異常に高いのも、外的環境が与える個人のアイデンティティの問題とも考えられないだろうか。

ネットワーク上の電子コミュニティとしてもっとも成功したものに「ハビタット」がある。これは1985年にルーカス・フィルム社がサンフランシスコで始めた実験で、今のテレビゲーム機の足元にも及ばない性能のコモドール64という貧相な通信端末を用いたサービスだった。
1995年以降は新しいテクノロジーによってサービスされた「OnLive」や「WorldsChat」など3次元の空間に複数のユーザが同時にアクセスし、チャット(おしゃべり)を行うことが出来るものが登場した。ユーザはアバタと呼ばれるネットワーク上での自分の分身を選び、そのアバタを纏って、音声で会話したりテキストによるリアルタイムチャットを楽しんだり出来た。しかし、それらのサービスは長くは続かなかったり、残念ながら反響も尻すぼみとなってしまった。
一方で「ハビタット」は社会実験とも言えるほどの有用な成果を納めている。この違いはなぜか。
「ハビタット」は参加者相互の行動を促し、彼らがコミュニケーションを交わすなかで共同して探求する目標の達成を手伝うことを運営方針としていたからだ。参加者にはコミュニティ内での役割が割り振られ、あるいは自由意思によって神父になったり裁判官になったりとコミュニティ維持のための役割を果たしていった。営みの多くの部分は参加者に任せられ、システム管理者はときおり「オラクル(神託)」あるいは「ギーク・ゴッド」としてほんの少しルール変更や提案を行うだけであった。システムに柔軟性を持たせ、参加者の行動の管理を排除した上でコミュニティが維持できた事実はとても興味深い。

「ジンバルドの模擬監獄」という社会心理学の実験は有名で、人間にはある役割を演じているとその役割演技に含まれる価値観や態度が内面化するというのだ。この実験は役割による人格変容があまりに急速に進んだため、2週間の実験予定を倫理的見地から6日間で実験を中止したといいういわくつきの研究である。
一般市民から実験の参加者を募り、健康で常識的な、出来るだけ「普通」の市民を選び出す。次に彼らを看守と囚人という2つのグループに無作為に分け、それぞれの役割を演じてもらうだけなのだ。もちろん、テレビや映画で見かけるような監獄を実験場として利用し、囚人には囚人の格好を、看守には看守らしい格好をしてもらっただけだった。ところが、本物の監獄で繰り広げられることと全く同じ出来事がそこで起こったのだ。囚人は従順で自閉症になり、看守は傲慢で暴力を振るいだす。実験中、囚人が名前で呼ばれたことはついに無く、誰一人として囚人の名前は覚えていないほどだった。
予め用意されたのは、監獄という「場所」と2つの異なる「役割」だけにもかかわらずだ。
参加者それぞれが囚人や看守に抱く心的イメージ ー多くの場合マスメディアから得られたものだがーが自らに作用して個人のアイデンティティに変容をもたらす。「場所」のアイデンティティはそれをさらに加速させるのだ。

都市はそこに集う人たちのアイデンティティの集合体でもあり、個人のアイデンティティに深く浸透するという、ループ状の関係によって成り立っていると言える。一方、ネットワーク上のコミュニティはまさに純粋にアイデンティティの集合体そのものである。非物質的な接触ではあるが、確かに独立した実体が構成要素であることは間違いないだろう。さらに実際の現実で行われる価値交換はそのままネットワーク空間にも移行できよう。ただし、そこには社会的なコンテキストが基底条件として必要となる。
もともと物質的な構造を持たない空間だということは、その構造は個人の心的イメージによる構築物であり、そこには私たちが現実に抱くモデルが投射されて基礎となっている。

意味論的には、ネットワークは「拡張された」現実なのだ。

遍在するアート

第3世代美術館という建築家 磯崎新氏のコンセプトがある。
空間との関係において初めて作品として成り立つという60年代以降の潮流を彼はそう呼ぶ。
美術館の歴史を辿れば第1世代は19世紀初頭に出来上がった王様や貴族のコレクションを公開するもので、作品は動かせるというのが前提にあった。モダンアート以降1950年代ぐらいまでが第2世代。既に制度化してしまったものに反抗するデュシャンのような作品が出来上がってきた時代だ。制度としては変わっても、依然として絵画と彫刻という形式であり、作品を置く台座や背景となる壁があれば美術館として成り立っていた。
第3世代美術館はインスタレーションのように人間と作品、作品と空間という関係性の上に成り立つ芸術を享受する場所だと磯崎氏は言う。

限定性が芸術的価値をもたらしていたこれまでは、美術館の床や壁や、オリジナルであることが作品には不可欠であった。版画やマルティプル作品、ビデオアートなど新しい表現が生まれてきたのは、アーティストにとってもこの限定性を乗り越えることが芸術的価値のひとつだったからだ。
インスタレーションやパブリックアートはこの限定性を克服しようという流れの中にある。作品は「私」と別の存在として「鑑賞する」ものから、鑑賞者が作品空間に実在することで初めて作品として完成する。逆に言えばアーティストが作った段階では作品は未完成なのである。これは、作品に対峙したとき、鑑賞者の心理、挙動と密接な相関を引き起こすと共に、作品が多様性を持っていることも意味している。ただ、残念ながら美術館という建築物からは離脱できても、空間を必要とする意味で空間に縛られた存在でもある。

インターネットでは世界中の数多くの美術館がウェブサイトを公開している。「Open 24hours、Admission fee free!」とまで宣伝するサイトもある。作品を紹介する場所である美術館は「メディア」として読み換えることが出来るはずだ。美術館がネットワークを媒介として作品を公開しているのも至極当然である。さらに、ニューヨーク近代美術館やカルティエ現代美術財団などは、Net Art、Online Projectあるいはバーチャルギャラリーと銘打ってウェブサイトで作品を公開し始めた。これらの作品は物理的な形状を持たず、デジタルデータとしてネットワーク上にだけ存在しているものだ。美術館自身が自らの限定性を振りほどこうとしている証拠であり、アートの「遍在」を実現させる展開として革命的と言えよう。
ピーター・ハリー、バレリー・グランシェールらが果敢にも作品発表しているが、正直未消化の感が拭えない。ネットワークを媒材とした、既存の表現を越えたアートに到達できていないのだ。

オーストリアの美術史家であり、レンブラント研究の第一人者であるオットー・ベネシュは「種々の文化活動の根底にはある一つの時代に同一の精神的要素が横たわっていることを理念の歴史が教えてくれる。理念史的方法は、美術現象と科学現象との相関関係を引き出し、そこから両者の相互解明が期待できる。」と著書「北方ルネッサンスの美術」で述べている。コペルニクスの地動説というダイナミックな世界観は、ほぼ時を同じしてアルトドルファーからブリューゲルに到る絵画において発展していった、宇宙内の中心からそれた地点に人間を置くことで宇宙の広大さを暗示するという空間の概念の理論的体系化を果たした。このように技術と芸術が同時性を持つことは、「ARS」という言葉ひとつがその両方の概念を兼ね備えていた古代ローマ時代から知られていることである。
アートも情報のひとつであり、美術館の役割は私たちにアートを伝えるメディアでもある。「Web Art」とでも呼ぶべきネットワーク空間に展開されるアートは、パブリックアートが目指す最終段階と言える。60年代から拡がったネットワークテクノロジーは、空間の限定性や美的価値の限定性を劇的に拡張するかもしれない。

ここに暖炉がある。これを伝えようと写真を撮ってみる。写真に撮った暖炉の火の視覚的イメージは私たちを暖めることは出来ない。外観を越えた内奥の本質を伝えきれないのだ。このとき、熱こそが真のメディアなのだ。たとえ眼が塞がれていても、熱を感じることで私たちは炎の心的イメージを描くことが出来る。
今のところ「Web Art」はあまりに視覚に頼りすぎている。五感のうち、視覚が受け持つ情報量は確かに全体の情報量の7割にも及ぶが、視覚が主導的役割を果たしているわけでもない。テクノロジーが稚拙でも、私たちはラジオで野球の試合を観たり、白黒テレビでも記憶は彩色が施されていたりと、豊かな心的イメージが描くことができる。
美的価値を担う対象をつくるために、それが迫真的である必要はないのだ。むしろ細部を削ぎ落とし、意識の集中すべき部分を際立たせる必要がある。この時、表現媒材の選択も重要だ。たとえば、人体彫刻を行うのに人体と物理的性質のよく似たロウやラテックスを用いて迫真的に作ることは、美的価値よりも不気味さを感じさせてしまう。迫真的だからこそ実物を連想してしまう。実物とのズレだけしか認識できなくなるのだ。逆に木材、石材、金属材のように人体と全く異質の媒材を用いるのは、作品に対する純粋な静観態度を導くためである。
芸術作品はその時に見えている視覚的形態ではなく、アーティストの理念と作品実現のプロセスが内包されていることで芸術的価値を生み出す。どちらがかけても芸術性を失ってしまう。作品に対峙することで喚起される美的世界は、個人個人の五感と知性が心の中に築き上げたイメージ空間に他ならない。

新しい表記法(エリクチュール)

高層ビルの上から地上を見下ろした時、どんな風景が眼に入るだろう。
人々は道路を行き交い、建物の中に入り、何かを携えて出てきてはまた他の建物へと移動していく。なんの変哲もない、ごく普通の営みに見える。この映像をビデオに録画してテレビに映してみよう。その時、ひとりの人の動きに注目すると、途端にコンピュータディスプレイの画面に表示されるカーソルの動きに見えてくる。頭の中で、ビルはフォルダーに、そのビルの中のテナントはファイルに段々と思えてくる。机の上のコンピュータには自分しかいないが、そのコンピュータ同士をつなげるネットワークは人との架け橋でありコミュニティを紡ぎ出す。ネットワークの中にも都市は存在するのだ。梁の構造やコンクリートの圧縮強度といった構造工学、材料力学と無縁でも、都市空間が確かに拡がっている。
コンピュータの使いやすさを考えるときに必要なのは、ヒューマンインターフェースという考え方である。人間の視覚特性や知覚、認知の観点からコンピュータと人間の親和性を高めようというアプローチだ。アフォーダンス、ビジビリティ、マッピングなどの概念があるが、根幹となるのは機能統合されたコンピュータというシステムモデルと、それを使った時に人の脳内に出現する心的イメージ(ユーザモデルと呼ばれる)の間のズレをどれだけ小さくすることが出来るか、ということだ。もちろん、そのズレが小さければ使いやすく優れたインターフェイスを持っていることになる。
盲目の人はどんな都市空間に住んでいるだろう。
点字タイルや点字プレート、「通りゃんせ」のメロディなどが彼らにどんな心的イメージをもたらしているか、そしてその想像の都市空間が現実の都市の構造や機能と果たして一致しているだろうか。現実と心的イメージのズレは生理的不快感を誘発し、立っている場所が曖昧だとアイデンティティは揺らいでしまう。盲目の人にとっての現実の都市空間と、そうでない人にとってのネットワーク空間は、実は等価であると言えるのではないだろうか。
ネットワーク空間そのものを構造として見ることは出来ない。ネットワークを通じてコンピュータディスプレイが放つ情報の光の粒子は、私たちの心の中に透明な空間構造を組み上げる。人と情報の集まるその空間は、都市の原型である。都市の未来もそこにある。

同時に、芸術はこれまでギャラリー、美術館、学校などの権威構造が存在することで「アート」というラベルとつけることが出来た。個人と個人、個人と大衆が直接交流し、マスメディアによる未必の操作や権威主義の対極にあるネットワークコミュニティでは、権威による価値評価を排し作品のもつ芸術的価値がより厳しく問われることになるだろう。芸術作品が内包するアーティストの理念と作品実現のプロセスを伝えるのは、美術館というメディアでもネットワークというメディアでも本質的に差違は無いように思う。作品の芸術的価値はメディアによって変わるはずはないのだ。作品が私たちの心の中にそれぞれの美的世界を形作るか、そうでないか。今まで隠されていたアートと都市の相互関係を表出させるネットワークは、新しい表記法であり新しい場所なのだ。

芸術的価値を享受する場所は、美術館や、都市や、ネットワークに遍在している。

1999年5月 ぎょうせい発刊
『アート=ポート=デザイン ー魅力ある都市を創る』掲載
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