理想国家日本の条件 自立国家日本

日本の誇りを取り戻そう!(´・ω・`)桜 咲久也
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一般的に言われる日本人のメンタルの弱さ……

2015年11月12日 12時10分35秒 | ご紹介愛国ブログ、一般含む
http://ameblo.jp/tokma-555/entry-12093973691.html  より
:TOKMA(トクマ)

 一般的に言われる日本人のメンタルの弱さ……

2015年11月10日(火) 


骨抜きにされた日本人の
 
心を取り戻すには、
 
真なる歴史を学ばなくてはならない。
 
昨日は、
 
悔しさと…
 
自分の中から湧き出てくる
 
日本人としての誇りに
 
圧倒されました。
 
今日は
 
下記のブログを読ませてもらい
 
号泣しました!
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1046.html
 
愛知県、
 
三ヶ根山の頂上、
 
殉国七士墓へのご参拝…
 
是非、オススメします!
 
今、
 
こちらの地を、
 
伊藤弘さんは、(写真左の方)
 
英霊 東条英機閣下のお孫さん
(5年前に亡なくられました)
 
から直々に依頼され
 
受け継ぎ
 
お守りされております!
 
伊藤さんは
 
明るくてノリノリの方ですので
 
お気軽に案内してもらって下さい!
 
奥様が出すココアも絶品ですので^ ^
 
*写真右下の『うなぎコーラ』は静岡のパーキングエリアで買いました。
お味はコーラでした!
 
 
 

三ヶ根山殉国七士廟 

小名木善行ねずさんのひとりごと、ブログより転載、させていただいた記事です

三ヶ根山から蒲郡の夜景を望む
三ヶ根山の夜景

愛知県蒲郡市に、三ヶ根山という山があります。

ここには、三ケ根山スカイラインという約5kmの有料道路があり、三ケ根山の標高320メートルのの尾根を縦走することができます。
爽快なドライブコースです

夜、この道をドライブすると、山頂からは東に蒲郡市内の街灯り、その向こうには豊橋の夜景が広がり、西側には岡崎から名古屋の夜景を一望することができます。

夜景ファンにはたまらない絶景スポットです。
絶好のデートコース、かもしれない。

そしてこの三ヶ根山の山頂に、日本人なら忘れてはならない大切なところがあります。

「殉国七士廟」です。

殉国七士廟
殉国七士廟



この「殉国七士廟」に祀られているのは、先の東京裁判で、日本を背負って殉職された、板垣征四郎・木村兵太郎・東条英機・土肥原賢二・広田弘毅・松井石根・武藤章の七名です。

そうです。いわゆるA級戦犯といわれた方々です。

東京裁判は、大東亜戦争の戦争責任を追及する裁判として、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国が判事を出して行なわれた裁判でした。

起訴は昭和21(1946)年4月29日に行なわれました。
4月29日といえば、昭和天皇の誕生日です。
それだけみても意図的な報復裁判であることがあきらかです。

さらにいうと、27億円の裁判費用は、日本政府が全額供出させられています。
当時の日本が、終戦直後で、全土が焼け野原、世界の最貧国同然だったにもかかわらず、です。

東京裁判は、昭和23(1948)年11月4日に、判決の言渡が始まり、11月12日に判決言渡が終了しました。

判決は、法治社会にあってはならない事後法(事件のあとで作られた法、法律には不遡及の原則があり、法のできる前の事件は裁けないのが原則)に基づく一方的なものでした。

そして、次の七士が、A級戦犯として絞首刑の判決を受けました。

板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)
木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)
土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)
広田弘毅(文民、内閣総理大臣)
松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)
武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)
(名前五十音順)

死刑の執行は、判決の翌月である昭和23(1948)年12月23日です。
この日は、当時皇太子殿下であられた今上陛下のお誕生日です。
ここにも意図的な報復を感じます。

裁判の開廷の日、刑の執行日に、我が国のもっとも大切な陛下のお誕生日をそれぞれ宛てる。
この裁判が、いかに異常な報復行動であったかを象徴しています。

絞首刑となった七士は、即日火葬に付されています。

実は、七士の各担当弁護士たちは、刑の執行のあと、せめてご遺体を家族に引き渡そうと、マッカーサー司令部に請願していたのです。
しかしGHQは、まるで受け付けませんでした。

このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に戻されることはありません。

そこで数名の有志たちが、無法とも思える計画を立案します。
その時の模様が、「天皇と東条英機の苦悩 (知的生きかた文庫)」に書かれていますので引用します。

~~~~~~~~~~
全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。

窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。

このため骨壷は米兵の手もとへ移った。

米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。
それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。
それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。
遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。

骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。
そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。

この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。
台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。

A級戦犯の遺骨を奪う計画は、小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。
三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。

ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。

三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。
市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。
三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。
彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。

市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。
市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。

今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。
次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。

これを盗み出すのは12月25日の夜と決めた。
米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。

暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。

三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。
七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。
遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。

そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。
これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。
~~~~~~~~~~~~~

横浜市久保山火葬場で火葬に付されたお骨を、米兵は鉄製の鉢の中に入れて、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕いたのです。
信じられない行為です。

そして寒風吹き荒む真夜中に、三文宇正平弁護士と市川伊男(これお)住職のお二人が、ありあわせの黒装束で、飛田火葬場長の案内で目的地に出向いたのです。

場所は、火葬場の共同骨捨て場の穴の中です。
真夜中で、暗くて、灯も物音も絶対禁物です。
見張り員に見つかったら、その場で射殺され、二度と七士のご遺骨は手に入らない。

こうして取得したご遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中にご安置しました。

これが昭和23(1948)年の暮れの出来事です。

日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約を締結しました。
これにより「連合国統治領日本」となっていた日本というエリアは、ようやく独立した国家としての「日本国」となりました。

三文字正平弁護士は、この講和条約の締結と同時に、殉国七士の墓碑を建造をしようと運動を開始します。
そして昭和35(1958)年4月28日、東京の日比谷で開かれた東京裁判弁護団解散記念会で、墓碑建造計画を発表しました。

すると、猛烈な反対運動が起こりました。

三文字正平弁護士の地元の形原町役場には、「明るく楽しい観光地におくとは何事だ。平和な三河山頂に、暗い恥ずかしい思い出につながる記念碑を建てるのは、許すことは出来ない」などといった投書が殺到したのです。

いまにしてみれば、そういうことは反日のプロ市民による行動とわかるけれど、当時はそんなことはわからない。
これが民意であると誤解する人々も多く現れます。

しかし三文字正平弁護士はあきらめませんでした。
七士のご遺族、政財界での賛同者を募り、各方面の有志たちと連携し、資金と場所の確保に奔走します。

そしてようやく愛知県幡豆(はず)郡幡豆町役場の好意を得て、三河湾国定公園三ケ根山頂に、七士の墓碑とご遺骨の埋葬を実現したのは、運動を開始してから8年後の昭和35(1960)年8月16日のことでした。

この日、三ヶ根山の「殉国七士廟」の前に、関係者とご遺族が列席し、初の慰霊祭が静かに執り行われたのです。

殉国七士廟入口にある塔
(書は岸信介元内閣総理大臣。力強く実に立派な書です)
殉国七士廟入口の塔



その日以来、毎年4月29日の昭和天皇御誕生日には、この地で慰霊祭が採り行われ、今日では七士廟の周辺に、大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並ぶようになりました。
いまでは、82の慰霊碑が建立され「殉国七士廟」とともに並んでいます。

平成22(2010)年4月29日、みどりの日と名付けられた元昭和天皇誕生日において、第五七回殉国七士慰霊祭が三ケ根山でおごそかに行われました。

この日、板垣正氏が挨拶に立たれました。
板垣正氏は、元参議院議員であり、現・日本遺族会事務局長、興亜観音を守る会会長であり、故・板垣征四郎氏の次男である片です。

氏は、この日、次のように語られた。

~~~~~~~~~~~~
昭和27年4月28日に日本が独立回復をしたとき、全国で4000万の署名が集まりました。

署名は国会を動かし、東京裁判で戦犯とされた人々が「日本にとっては戦犯ではない」と名誉回復を決められた。

なのにどうして、未だにA級だのB級だの揉めるのか。

どうして事情がわかっている自民党の議員ですら、はっきり説明出来ないのか。
~~~~~~~~~~~~

生前にどんな人であったとしても、亡くなられたら「仏さん」というのが日本の心です。
すくなくとも、遺骨を鉄の棒でぐちゃぐちゃにするような冷酷さは、日本人のものではありません。

戦後を生きた私たち日本人は、先の大戦の悲惨さから、なんとはなしに戦争や戦前の様々な事柄から目をそむけてきたような気がします。

事実を認識せずに、ただなんとなく、そこに薄いベールをかけて見ないようにしてきたといえるかもしれません。

それは、戦争の悲惨さに対する大きな反省でもあったでしょうし、子や孫に対して、二度とつらい思いをさせたくないという思いやりだったのかもしれません。
あるいは、戦前の辛さや、愛する者を失った辛さよりも、戦後の「復興」を大事にしたことの裏返しだったかもしれない。

しかし、そうやって国の復興を遂げてきた一方で、日本が忘れられていき、その反対側で、反日主義者たちによって、捏造された嘘の歴史観を刷り込まれ、多くの日本人は、日本人としての誇りや自信さえも失いかけているのが、こんにちの日本であるように思います。

日本を取り戻す。
そのためには、ほんとうのところ、当時何があったのか、正しい事実を謙虚に「学ぶ」という姿勢が、いまもっとも求められているのではないかと思います。

愛知県近郊にお住まいの方は、天気の良い日に、三ヶ根山にドライブに出かけてみられたらいかが?


先帝陛下が殉国七士を親拝された事実-秘史を明らかに!


転載、させていただいた記事です


 

尖閣上陸男トクマと『尖閣ロック』監督が、早稲田祭で熱血対談 2015.11.11


 


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