私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

止観

2021年11月30日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

私は、「私は悟りました。」とブログに書いたことはありません。
「五蘊皆空を領解したとき」などと書いています。
何となく「私は悟りました。」という言葉は、脳裏にザラッとして絡みついて気持ちが悪くて、人を不快にする反応があると思います。私もあまり好きでは在りません。

「私は悟っている、あなたは悟っていない。」
「私は覚者、あなたは凡夫。」
「私は宗教的精神の持ち主、あなたはアンポンタン。」

こういう感じが、気持ち悪くて吐き気がすると思います。

冷静に考えると、「悟りの境地」に「いつ・誰が」は存在しません。
「存在しない」という概念すら存在しません。
「悟りの境地」は、この世に存在する「全ての人という現象」が無に潜在しているので、全ての人が「悟りの境地」に至っていると見ることができます。
人が「悟りの境地」に至るという表現は、最近はあまり好きではありません。
厳密に「人という現象が滅する境地」です。

五蘊は、振動循環干渉する領域にある現象ですが、干渉によって五蘊が無に潜在し、一切が滅する地点が存在します。五蘊の展開が存在し、そこに「五蘊皆空」という地点が存在します。
一個人の「人という現象」、つまり、たった一人で独立に「悟りの境地」に至ることは、不可能な構造です。
「不覚」が存在し、不可分に「覚」が存在します。
振動循環干渉の方程式は、万物の理論、または、縁起縁滅の法です。
この法に従って、全体が干渉し、時空のある座標に「悟りの境地」は、数学的に避けようがなく必然で存在します。何回計算してもそこに「悟りの境地」が現われます。

「悟りの境地」は、人の形質や概念が滅し、それに伴う時空も存在しません。
「いつ・誰が」も滅し、存在しません。
ふと、「日本語は主語が省略される」と言われることを思いました。
「覚・不覚」「覚者・凡夫」という概念は、この世の領域のものです。これらの概念が相依相関し存在します。片方だけで存在を現わすことはありません。

「凡夫だよ(´・ω・`)」ではなく、「凡夫が存在してこその覚者だよ(`・ω・´)」です。

「貧困・裕福」「飢餓・飽食」「凡夫・覚者」は、その両極が存在しないと現われません。欲しい方だけを単独で現わすことはできません。

そして、「悟りの境地」で全てが滅して、直ぐに五蘊の展開は始まりますが、そこで私が思考したことは「この世の人は全て自分」ということです。
「全ての五蘊を唯一のものが観る」という構造になっている。
厳密には、「私」という情報は、最上位の概念として唯一として存在し、そこに不可分に「観」(有と認める物理作用)が在る。「私」が唯一という構造でも十分ですが、「観」が唯一として存在することが根本です。太陽が中心かと思ったら、その回転の中心点が中心だったというイメージです。
「私」(意識)だけでは、何も存在しない無と同じです。「観」が不可欠です。

何が言いたいかというと、悟ったから偉いとか、凡夫だから偉くないとか、全体で一つであるときに意味が無いということです。「全部自分だし」ということです。

一人一人の人は、全く個別の他人ですが、時空の全ての人は、全体で一人という構造です。「誰の五蘊?」「誰の悟り?」ではなく全時空の五蘊は「一人」のものという構造です。
ゴータマ・ブッダの五蘊の中心に開かれている「観」は、全ての人が共有している「観」です。ゴータマ・ブッダの人生を自分だと思って生きます。

一人の頭蓋内の脳のニューロンの神経パルスのきらめきの一つ一つを、一人一人の人に置き換えて考えることができます。全体で一人です。
天上天下唯我独尊は、神秘、不可思議な概念ではなく、単に物理的事実です。

全部自分が味わう五蘊なので、「貧困・裕福」「飢餓・飽食」など、格差はなるべく無くしておきたくなる構造です。ですが、欲しい方だけを享受できない構造です・・・。振り子が必ず両極に振動することと同じです。
「全て自分」という思考が常識になれば、何か変化が起きるかもしれません。
それでも、「全て自分という思考が無い状態」「全て自分という思考が有る状態」の二極の内です。何らかの状態は、永続しません。しかも、数式に従っているだけです。

やっと、前置きが書き終わりました。

やはり、悟ったのか悟ってないのかはっきり書かないで悟りについて書くのは難しいです。

厳密に「悟りの境地」に肉体はないので「私は悟りました。」と発言することはできません。「悟りの境地」に時空は存在しないので、「悟り続けている」ということはできません。時空内の人から見て「悟り」は、刹那です。「あれが悟りなんだ」と思考するのは、肉体のある人です。

一切が無に滅する以上の状態は不可能だと思います。無に滅する刹那、思考の背景に常に存在していた「観」(有と認める作用)(真実在)のみの状態になります。
私は、直ぐに「般若心経はこのことが書かれていたんだ」と理解しました。
「あんな書かれ方じゃわかんないよ」とも思いました。
そして、「これが悟りだ」とわかりました。
あと「何でこんな私が・・・もっとふさわしい人がいると思う・・・(´・ω・`)」となりました。

私は、悟りを経験しこのブログを書いています。(一応はっきりと書いておきます( >_<))

そこで思うことは、クリシュナムルティです。

私は、漫画家になりたかったので、本屋さんで興味を持った本は、参考のために全て購入していました。漫画の投稿先は小中学生向けの少女漫画なのに、クリシュナムルティの本を購入しました。いろいろちぐはぐです(^_^;)
そのときは悟る前であって、悟りに対して、不可思議、神秘、得がたいもの、はたまた、ただの脳内現象?というイメージを持っていました。

『いかにして神と出会うか クリシュナムルティ』という本に

「ジドゥ・クリシュナムルティは、一八九五年インドに生まれ、一三歳のとき、神智学協会という宗教教団に見出された。教団は、彼こそ教団がその出現を宣言していた救世主、つまり、世界教師となるべき器であると見たのである。」

と、いきなり序言に書かれています。
「は?(;゚ロ゚)」
2500年前にやっとゴータマ・ブッダが悟ったのに、いきなり「真実在」を悟れと課せられて、本当に悟るってすごすぎる。
もしかして、悟ったふりをして生きてたとしたら気の毒だな・・・。
と思いました。

現在の私が思うことは、

クリシュナムルティさんは、「心を静止させることは極端に難しい」としているけど、私は、比較的簡単だと思います。一寸先は悟りです。
いきなり悟れと課せられて、本当に悟ることは可能だと思います。
クリシュナムルティさんに、悟ったふりかも・・・それで生きるのはしんどいな・・・大丈夫だったのかな?と余計な心配してしまいました(*^^*ゞ。

「止観」という言葉に、最近、眼が止まるようになりました。
もしかして、私は自然と止観をしていたのか・・・と思いました。

そういえば、『図説 ブッダの道』に止観について書かれているページがあった気がする!と思い出しました。早速、本棚ゴソゴソ。

p116、「止」と「観」によってみずから経験する仏の真実
「ブッダの説いた瞑想法には2つのタイプがある。この2つを統合してサマタ・ヴィパッサナーと呼ぶ。サマタ(止)とは、心を一つの対象にくりかえし向けること。それにより、心を静めて安定させ、集中力を養うのである。」
「サマタによって十分な集中力が養われた後、ヴィパッサナー(観)の修習に入る。ヴィパッサナーは、その瞬間に起こっていることをありのまま見つめることによって洞察力を養う修行法である。サマタと異なり、ヴィパッサナーでは、対象はひとつに限定されない。マハーシ方式のように、そのときどきに最も明らかに意識されているものを観察の対象としたり、パオ方式のようにルーパ(物質)、チッタ(心)、チェータシカ(心所)のひとつひとつを順番に観察していく場合もある。そして、これらのどこを探してもアニッチャ(無常)、ドゥッカ(苦)、アナッター(無我)という三相しか見出せないことを確認する。
これは、本の中に書いてある知識などではなく、真実として自身で経験する必要がある。現象をありのままに観ることによって生まれてくる智慧なので、ヤターブータ・ニャーナ・ダッサナ(如実知見)と呼ばれることもある。」
「慈悲の瞑想」、「生きとし生けるものが幸せでありますように」
「次に、不浄観は人間の死体をイメージしその死体が腐敗し朽ち果てていくことを観察する瞑想法だ。修行が進むと、身体に対して厭離の念がわき、自分の身体に対する執着や異性への性欲が失われてくる。」
「白いカシナ(遍)の瞑想:禅定により遍く白い色が広がった後に、ひとつの特定の場所を集中して観じる」
「ふだん、私たちは無自覚的に浮かんでくる思考の流れに突き動かされて生きている。呼吸に気づきを向けることにより、その連続した思考の流れが、ほんの少しだけだが止まる。思考が止まることにより、ほんとうに自由で寂静な境地があることを感じる。」
「アーナパーナ・サティを実践することにより、習慣的な思考の奔流に突き動かされることから解放され、生まれてはじめて“ほんとうの自由”を経験することができるのだ。」

とても興味深いことが書かれていました。

先ほどの『いかにして神と出会うか クリシュナムルティ』には、

p51「強勢なしに心を完全に静止させるには、大変な技がいる。そしてそれができたときだけ、神と呼び得るものを経験できる可能性がある。」
p81「真実在を知ろうと願うなら、自分自身の心の条件づけから自由にならなければならない。その条件づけは外側からも内側からも加えられている。そして心が人間関係において闘争や衝突を生み出しているようでは、真実在を知ることはできない。したがって真実在を知りたいなら、心は静止していなければならない。」
p89「判断することなく見ること、そこで起こっていることを正確に知ることが、気づきである。したがって、いまこの瞬間において、気づきことなくして神や真実を探そうとしても無駄である。」
p149「瞑想は人生からに引退ではない。瞑想は自己認識の一過程である。そして、意識されている自己ばかりでなく、自己の隠されている部分についても、それを理解しはじめることにより、そこに心の静穏さが生まれる。瞑想法、強制、順応によって静かにされた心は、静かとは言えない。心が鈍麻しているのである。それは、機敏で、無抵抗で創造的受容性を持った心ではない。瞑想には、われわれの存在の隠された部分から表層部分までの状態を表現するあらゆる言葉、思考、感情についての、絶えざる注意と気づきが必要とされる。」
「したがって、自己認識は瞑想の始まりである。自己認識がなければ瞑想はあり得ない。自己認識の問題に深く沈潜するにつれ、表層の心が静まり、静寂になるだけでなく、心の隠されたさまざまな層が暴露される。表面の層が静まると、無意識の、意識の隠された層が現われてその内容を露呈し、暗示を与える。その結果、人の存在の全課程はすっかり明らかになる。心は極度に静寂になり、静寂なのであって、静寂にされたのではなく、報酬や恐怖によって静寂を強いられたのではない。そして、真実在が現われる静けさが生まれる。」
p155「この自己認識とはいかなるものであるかを理解することが重要である。つまり、記憶の塊の中にその発生源がある「わたし」について、いかなる選択もなしに気付いていることが重要である。気付いているとは、何の解釈もせずに意識していること、ただひたすら心の動きを観察することである。」
「自己としての生きた心の動きを終わらせることになる。」
p170「そこで、心はいかなる抑制も強制も受けることなく、完全に鎮静する。この鎮静の状態は、思考によって作られたものではない。なぜなら、思考はすでに終焉しており、思考の全てのメカニズムは終了しているからである。思考は、終わらなければならない。そうでなければ、思考が、さらなるイメージ、観念、幻想をこれでもかと作り出すからである。したがって、いかにして思考をやめるかではなく、この思考の全メカニズムについて理解する必要がある。もし、記憶、連想および認識、命名、比較、判断などの反応である思考の全メカニズムがわかったならば、思考は自然に終わりを迎える。そして、心が完全に鎮静したとき、その鎮静の中に、まったく異なる動きが生まれるのである。」
「完全に沈黙状態にある心は、動いていく、未知なるもの、名づけられないものの中へ動くのである。」
p199「われわれが思考の全課程を理解し、もはや自分の考えに囚われなくなったときにだけ、心は静かになることができる。そしてそのときだけ、あの永遠なるものが現われる。」
p101「その真実こそが、それまでとはまったく異なる文化を実現するような独自の行動をとるのである。」

一冊まるごと繰り返し、心の静寂と真実在について書かれています。これは止観と同じ内容です。

「五蘊の仮和合である身心を恃んで、仏となることはできない。むしろ、それを放ち忘れて全面的に「仏の家」に投げ入れなさい、その後は、仏の方より行われて生死を離れ、仏となるときを待つのだ。というのも、その時をわれわれは引き寄せることはもちろん、いつなのか前もって知ることもできない。今、この時かもしれないし、死の時なのかもしれない。否、今生では終に起こらないかもしれない。ともあれ、身も心も解き放ち、かのもの(仏)の到来を待つのだ。その時、われわれは計らずして(心をも費やさずして)仏となる。その消息を空海は「入我我入」と表わした。」(可藤豊文)

この文章も参考に(*^_^*)


私の話に戻ります。

先ず、止観について思うことです。
私にとって、止観はとても簡単だと感じます。世界、他者、自分自身について、機械のカメラのようになって見つめるだけだからです。
最初は、自分の記憶とそれに伴う身体感覚を消えるまで感じ続けることをしていました。それは、後悔の記憶、見たくない記憶、恥ずかしい記憶です。止観の〈観〉から始めたということになります。
〈観〉が深まっていき、止観の〈止〉に至りました。〈止〉に至れたのは、思考に対して絶望し、沈黙するしかなかっただけです。自分の思考が作り出した心持ちだけで、心をコントロールすることは不可能だと理解したからです。
自分の心地よい状態を維持し続けることは不可能で、必ず心地の良いこと悪いことは起きる。自分の善と判断した思考を打ち砕くような世界の展開が必ず起きる。心地の良いことと悪いことは不可分で片方だけを享受することはできない。苦しみと不可分の喜びなんて苦しみでしかない。
それなら、何も要らない、何も受け取らない。「ありがとう」「ごちそうさま」という響きからすら、なにも受け取らない。自己の観察も停止しました。
クリシュナムルティの言う「心のメカニズム」がわかり始めています。
「一切の現象の背後にある道理を見極める智慧が生じる」ということです。
この段階で諸行無常・一切皆苦を理解しました。苦しみと喜びが相依相関し留まることがないという構造は縁起縁滅の法の性質です。
「縁起の理法を体得する」ということです。知識ではなく、経験で理解するということです。
思考や感情などの心の動き停止すると、当時の飼い猫の元気がなくなってしまったので少しだけ思考することを許し、さらに、縁起縁滅の構造に基づいて自己を観察するということを再開しました。
自分自身の過去の経験の記憶の観察です。記憶の映像が浮かびそれに伴う身体感覚を消えるまで観じるだけです。身体感覚が消えると、直ぐに次の映像が浮かびます。その経験の記憶を快と苦に紐付けて五蘊の曼荼羅に組み込みます。何層にも重なった球状の対極図です。高次元図形に似ています。
この図鑑、お気に入りです。

 

中学生くらいまで、夢を見たときの自分の視点は、自分の外にありました。夢の中で喜んだり苦しんだりしても、沈黙し自分を外側から見ていました。
これと同じように、自分の身体の視点でありながら、外側から沈黙した状態で自分自身を見ます。
これが無我の〈観〉です。「個人の私(意識)」自体も対象化して、「個人の私」をまとわない状態で自分自身を観るということです。

そういえば以前、明晰夢が見てみたい!ということで、夢の中で夢に気づくために、起きているときに「これは夢か現実か?」と、あえて現実を観るということをしていました。夢と気づくポイントにしたことは、「文字を読んでみる」「物理法則に反しているかどうか」「自分の手を見つめてみる」です。
特に、手を見つめてみることは有効です。ジッと見つめてぼやけたり、現実感が薄いと感じるかどうか観察します。
その結果、夢の中で「夢だ!」と気づき起きているときのように自分の意思で行動できました。しかし、夢と気づくと現実感の薄さが気になりました。そして、3~5分で目が覚めてしまうので、明晰夢を見ようとする試みは直ぐにやめてしまいました。

この明晰夢を見ようとすることが、〈観〉に役立ちました。
結構、一日、心のつぶやきがない状態で過ごせるものです。例えば、料理をするときです。
カレーは、思考を沈黙したままで作れます。30歳ぐらいなら無意識の作業です。10歳の子が母の日にカレーを初めて作るのとは違います。
意外と人は、意識を使用していません。
カレーを作っている間、思考を停止して、手を視界の中にとらえ続けるということをします。
手に焦点を合わせていなくても、「あ、ここら辺」という視点を合わせておきます。
こんな感覚で観ることが〈観〉です。
自分の五蘊を対象化して、あえて観るという感じです。
自分自身を他者のように観ることは、〈観る〉以外に他者しかいない状態です。自分も他者も平等に観る位置の視点になります。

さらに、思うことは、物心ついた5歳頃には、神に見られているということを意識していました。外部の何者かに観られているという思考回路が、自分が外部にいて客観的に自分自身を観察するという回路に転用できたように思います。

一番大事なことかもしれませんが、「権威者の言いなりには、ならない。たとえ差し違えて身体が粉々になっても!」「神が与えたとされる真理を鵜呑みにしない!」と5歳頃には堅く誓っていました。

止観を続けていたある日、お弁当のおにぎりを作るためにお米を研いでいました。記憶のイメージと身体感覚を感じ尽くすという作業をしていると、ふと

「善因善果、悪因悪果だけでなく、善因悪果、悪因善果もある。」

と気づきました。例えば嫌々悪いことをしたとき、表面上は悪いことでも善の結果にむすびつくということです。行為の身体感覚が重要と言うことです。

それに気づくと、一気にイメージの洪水が視界に現われました。善悪、快苦、陰陽、受容的なものと拒否的なものが瞬間瞬間にフラッシュのように現われます。
そして、いつもの五蘊の曼荼羅がある心的空間に投げ出されました。私の球状の曼荼羅の周りに無限個の曼荼羅が存在し、それらが無限に呼応し合っていることがわかりました。

例えばこのおもちゃのイメージです。
ハンドルを回すと、全部の車輪が動きます。

これが、「一念三千」です。
「一念三千とは、天台宗の観法であり、また根本教理とする。一念の心に三千の諸法を具えていることを観ずることである。」
「日常の一瞬一瞬の心に全宇宙の一切の要素が備わっている、さらに一瞬一瞬の心の中に全宇宙の一切の要素のありかたが内包していて不可分の関係にある。」

私が思ったこと
タイムストップウォッチで止めたような「今の状態」だけを取り出しても、縁起縁滅の法(万物の理論)に従って、全時空の「今」を再現できるということです。それどころか、無次元の点さえ設定できれば、全時空の「今」を再現できる。さらに、「今」は「今」全て存在し、相依相関し不可分の関係にある。こんなことを思考しました。

そして、神に出会います。
「これが神なら、神は根本的に存在しない。」と直感しました。

その刹那、五蘊皆空を経験します。
それが悟りです。ここで、実際に五蘊が無に潜在し滅するということがわかり、「本当に五蘊は実体がないんだ」と思いました。諸法無我はこの時点で理解しました。

「仏に会ったら、仏を殺せ」
「神は死んだ」
この言葉を思い出しました。

「自分の神々を愛し、導師の周りに花輪を捧げ、決まりきった祈りの言葉を繰り返し称え、神々の前で喜びのあまり我を忘れ、涙する――こんなことを今後何千年間続けてもかまわないが、しかしけっして真実在を見つけることはないだろう。」(クリシュナムルティ)
こんな文章も参考までに(^.^)

厳密には、自分の外側にいる神を称える人が存在し、その神を存在しないと思考する人が存在できる構造です。どっちも存在しなければ、どっちも存在を現わすことはできません。そのどちらに優劣、真偽は確定しません。

「人が思うような神は根本的に存在しない」という思考は、絶対の真理ではありません。
もしかすると「人が思うような神は根本的に存在しない」が常識として存在する世界は、今後展開するかもしれませんが、永続はしない構造です。

そもそも「悟らなければならない」という思考に、冷静に接した方が良いと思います。
空の境地では、「悟らなければならない」も滅します。

「コンピュータがフリーズしないようにプログラムで守られているように、人という現象も悟らないように保護されている」という思考も持つことができます。

「真実在」「悟り」「五蘊皆空」この地点に至らないように、その周りに、「人がイメージする神」「現世利益」「仏像」「自分探し」が配置されている。「悟り」は「独立自存の個人」という魔法が解ける地点と思考できます。「全て自分」を思い出してしまいます。
「独立自存の個人」という、この世の醍醐味が失われます。
それにしても、現在の格差社会、環境破壊は心配です。
「全ては自分」は、物理的数学的に示唆することが可能だと思います。
「全てが自分」が、スピリチュアル、オカルト、宗教、道徳でなく、この世の構造の常識になりますように(*>人<)

天上天下唯我独尊は、神秘、不可思議な概念ではなく、単に物理的事実です。
与えて損はないし、奪って得もないです。
善意、慈悲ではなく、当然のこととして「人の立場」を尊重することができる・・・かもしれません。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

綺麗に咲きました

 


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