夕風桜香楼

旧『薩軍分営』。
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西南戦争における壮兵動員(1) 大阪陸軍事務所による壮兵召募

2017年06月07日 19時19分21秒 | 歴史雑談

 西南戦役(西南戦争)において、政府は即戦力として士族を登用し、これを巡査に任命して戦地に派遣した……というエピソード、警視抜刀隊の活躍などが有名になった昨今は、比較的よく知られています。
 これは基本的に、内務省警視局が関東・東北府県において実施した巡査の臨時徴募をさすものです。

 しかし一方で、陸軍のほうも、士族を主体とする「壮兵」の召募を断行し、応急戦力を確保していたことはご存じでしょうか?
 陸軍の壮兵召募と、警視局の巡査徴募は、学術書等においても往々にして混同されがちですが、本来はそれぞれ独立した別個の施策であります。

 そこで本稿では、この陸軍の壮兵召募の経緯について、やや踏み込んで解説してみたいと思います。


(1)壮兵とは


 本論に入る前に、「壮兵」という言葉についてあらかじめ説明しておきます。

 壮兵とは、兵員の種類を表す言葉で、当時の記録文書などにも頻繁に登場しますが、要するに「徴兵」の対義語です。学術的には、「志願兵」の意味で解釈されるのが通例となっています。
 明治維新当時、壮兵の大半は士族身分であったため、「士族兵」の意味で使用される場合もありますが、これは必ずしも適切ではありません。なぜなら、辛未徴兵(徴兵令施行以前の明治3年、一部の地域で施行された「徴兵規則」によって徴集された兵員)は百姓町人等の平民出身者を多く含んでいたにも関わらず、基本的に壮兵という分類で扱われるからです。
 壮兵という言葉をより誤解のないように表現するなら、「国民皆兵の兵役義務概念にもとづかない兵員」といったところでしょう。具体例を挙げれば、現在の自衛隊も一種の壮兵制を採用しているといえます。

 一般に、帝国陸軍は明治5年の徴兵令によって始動したかのように思われがちですが、実のところ御親兵(明治5年、近衛に改称)と全国の鎮台は、徴兵令に先立つ明治4年にはすでに設置されています。ではその兵員はどこから持ってきたのかというと、ずばり、主として各府県に残っていた維新以来の旧藩兵(大半が士族兵)を編入するというやり方がとられたのです。最初期の陸軍は徴兵制ではなく壮兵制だった……という事実には、よく留意しておく必要があります。

 大村益次郎や山県有朋など建軍事業の責任者たちは、封建的な壮兵制の打破と近代的な徴兵制の導入を目指していました。
 しかし、徴兵制を導入するには事実上ゼロから制度設計を行なわなければなりませんでしたし、何よりそれは士族の既得権益の全否定を意味していたため、反発も根強いものでした。陸軍の兵制をめぐる試行は、廃藩置県などと同様、「伝統的な制度を保守するか、それとも抜本的な改革を行うべきか」という、明治維新の根本方針にかかわる高度に政治的な問題という性格を濃厚に有していたわけです。
 そのため山県らとしては、やむを得ず過渡的に壮兵制を採用して国軍の整備を進め、いずれ徴兵制に切り替える……という手法をとらざるを得ませんでした。

 壮兵制から徴兵制への移行の第一弾は、近衛兵の大規模整理でした。
 当時、近衛は壮兵とりわけ薩長土の士族兵1万人弱という大兵力からなり、その人件費が政府の財政を少なからず圧迫していました。また、軍の新秩序よりも旧藩時代の家格が優先されたり、待遇への不満から暴動が発生したりするなど、指揮統制上の問題も指摘され、兵員整理の必要性が叫ばれていたのです。これを受けた政府・陸軍は近衛の改革を進め、明治6年2月、御親兵以来の壮兵の大半を免役除隊させて規模を大幅に縮小するとともに、残余の兵員についても一部の鎮台兵などをもって代え、人員刷新を実現。また、以後の兵員補充も、全国鎮台の選抜兵を毎年編入するという形に変更されました。
 このとき除隊した壮兵には、報労金として1か年あたり2人口相当額の給付金が2年間または5年間与えられました。この特典にちなんで彼らは以後「二人口」と呼ばれましたが、除隊後2年間(すなわち明治8年までの間)は、有事が出来した際の再招集に応じる義務も課せられました。その意味でこの二人口壮兵は、徴兵令における後備兵に近い扱いであったともいえるでしょう。

 また近衛同様、全国の鎮台にあっても、壮兵の解隊は避けられぬ既定方針でした。明治6年の徴兵令運用本格化以降、鎮台において徐々に徴兵の割合が増えていくと、前近代的な功名心が強く命令に従わない士族壮兵を非難し、従順で訓練にも十分耐えうる平民兵たちの素養を評価する声が、全国から上がり始めます。また、明治7年の佐賀征討や日清危機のあおりで全国鎮台の兵員拡充が図らずも達成されたことなどもあって、明治8年2月、政府は満を持して鎮台壮兵免役除隊の漸次実施を正式に布告。これにより、全国鎮台の壮兵は、下士に昇進して服役期間が延びていた者などを除いて順次除隊していくこととなり、おおむね西南戦役の勃発した明治10年ごろには、鎮台兵のほぼ全てが徴兵出身者に入れ替わるに至ったのでした。
 なお、この明治8年の壮兵漸次免役布告によって除隊した鎮台壮兵に対しても、近衛の「二人口」に準じた措置がとられ、報労金として1か年あたり1人口相当額の給付金が2年間保証されるとともに、同期間中の応召義務が課せられました。彼らは以後「一人口」と呼称されることとなります。


(2)兵員不足問題と壮兵召募に至った経緯

 西南戦役勃発後、政府および陸軍を大いに悩ませたのが、兵員不足問題でした。
 当時、政府に対する不満の声は全国に満ち満ちており、維新の巨星・西郷隆盛の叛乱は、そんな不平分子による武装蜂起の全国的な連鎖を招くおそれが十二分にありました。またそもそも、政府や陸軍の内部にも、西郷と縁故の深い薩摩藩出身者が多数存在していました。つまるところ政府は、背後からいつ寝首をかかれるか分からない恐怖に怯えながら、西南に最強薩摩軍団数万を殲滅しなければならなかったわけです。

 さらに、戦役勃発から間もなく、官軍は田原坂で予想外の苦戦に陥りました。そして、敵の真っただ中で孤軍奮闘する熊本鎮台の救出の目途は、まるで立ちませんでした。
「田原坂を突破するためにも、そして、全国的な叛乱連鎖に備えるためにも、もっともっと兵力が必要だ!」
 政府首脳や陸軍の焦燥は、相当なものがありました。戦役勃発後、ただちに陸軍は後備兵の動員を実行に移しますが、そんなものではしょせん焼け石に水……そこで実施されたのが、壮兵召募というアラワザだったのです。



(3)壮兵召募① 旧壮兵部隊

 高まる兵員不足の不安を受けた大阪の陸軍事務所(各種補給業務の総括を担当していた臨時設置機関。責任者は陸軍省参謀局長・鳥尾小弥太中将)は、追加兵力の確保策として、陸軍から去った元壮兵の活用を思いつきます。
 これは、明治8年以降に鎮台を除隊した「一人口」壮兵に有事の応召義務が課せられていたことに着目したものです。しかし、手続の過程で召集対象の範囲はやや錯綜しており、本来応召義務の法的効力が満了してしまっているはずの元近衛兵(「二人口」 壮兵)の招集が誤って下命され、すぐに撤回されるといった一幕も生じる始末でした。
 結局、一人口こと元鎮台兵の召集は、3月中旬頃から熊本をのぞく全国鎮台で実行に移され 、西日本の応召者は大阪鎮台、東日本の応召者は東京鎮台にそれぞれ出頭することとなりましたが、後者も最終的には大阪に回送されて順次とりまとめられました。

 この召集によって、「遊撃歩兵大隊」の隊号を冠する歩兵3コ大隊が4月ころまでには順次編成されることとなります。なお同大隊のうち、2コ大隊については早期に九州へ出動して戦列に加わりましたが、残りの1コ大隊については兵員が不足したことから、新壮兵(後述)の編入を待って出動することとされました。

 また4月上旬、陸軍事務所はいったん撤回した二人口こと元近衛兵の召集についても、あらためて着手します。そして、新壮兵の召募布告(後述)とあわせ、山口県あてに太政官布告を発して二人口の召集を下命しました。先述のとおり、二人口の召集期限はすでに満了してしまっていたため、太政官布告という体裁をとることによって特例的に法的効力を担保したわけです。
 これによって参集した山口県下の二人口壮兵は、「別働遊撃歩兵隊」の隊号を与えられ、直ちに九州へと出動していきました。

 旧壮兵の召集は後備兵の召集に近い性格を有していましたが、あくまで特例として実施されたもので、徴兵令による動員システムからすれば全く埒外の、場当たり的・応急的な施策でありました。


(4)壮兵召募② 新壮兵部隊

 旧壮兵の召集を決行した陸軍事務所の鳥尾中将は、さらに兵力不足を補うべく、国民一般にひろく従軍志願者を募集して登用する方針を固めます。そして、太政大臣・三条実美や参議・大久保利通、同・伊藤博文ら政府首脳をも巻き込んで、4月4日、壮兵全国召募布告を発布。この召募は、維新以前の旧藩時代も含めて過去に軍役の経験があり、かつ一定の年齢を満たす者であれば誰でも応募可能とされ、明らかに士族兵の大量確保を企図したものでした。なお、表面上は自主的な志願者の募集がうたわれていたものの、実質的には義務的な召集に近く、旧藩時代の軍役経験者を各府県庁が調査・ピックアップし、半強制的に駆り出すという運用がなされたようです。

 新壮兵の召募は、太政官布告ののち西日本各府県に細部次項の伝達がなされる形で進行しました。なお、奇兵隊を始めとする長州諸隊の元兵員が多数存在した山口県と、旧藩時代にきわめて先進的なプロシア式徴兵軍を整備していた和歌山県の2県に対しては、応募者への特別給金を約束する太政官布告があらためて別個に発出されるなど、力を入れた召募が行われています。とりわけ、和歌山県での召募は徹底されており、政府・陸軍は県令に逐一指示を出して召募を主導し、旧藩常備隊出身者の大半をほぼ強制的に大挙動員しています。

 新壮兵部隊は計5コ大隊が編成され、準備ができたものから旧壮兵同様「遊撃歩兵大隊」の名で九州へと出動していきました。また、大阪で志願した剣客集団からなる「遊撃別手組」なども戦列に加えられており、新旧壮兵を合わせた壮兵部隊の最終的な兵員総数は、7千人余に及びました(図参照)。
 戦後、この壮兵部隊は順次解隊となり、大半の壮兵が手当金を渡されて郷里に帰りましたが、一部の志願者については選考のうえあらためて陸軍に採用され、下士候補生として教導団に入団したようです。




(5)壮兵全国召募断行の内情

 ところで、この新壮兵の召募は、第一義的には兵力不足問題に対応するためのやむを得ない窮余の策と解釈されるのでしょうが、それでもなお次の点において、多分に不可解・支離滅裂といわざるを得ないものでした。

①壮兵全国召募は、「士族壮兵制の否定と国民皆兵制の推進」という明治陸軍の基本理念と明らかに矛盾している。事実、木戸内閣顧問もそれを指摘し、ほぼ一貫して強硬に反対しつづけている。
②京阪の三条太政大臣、大久保参議、鳥尾中将等はいずれも当初士族動員論に否定的であったにも関わらず、突如として翻意し壮兵全国召募を断行している。
岩倉右大臣内務省警視局が、東京において同時期に(むしろ先行して)士族動員策=巡査臨時徴募を推進しているにも関わらず、京阪の三条や陸軍はそれを採用せず、それどころか完全に別個の政策として壮兵全国召募を断行している。また岩倉策は、士族壮兵を巡査として登用することによって徴兵令への抵触を(形式的とはいえ)回避するなど、三条らの壮兵全国召募よりも政策として明らかに周到・合理的であるにも関わらず、三条らはこれを採用していない。
④壮兵全国召募の実行結果は地域差が大きく、特に東日本では召募がほとんど徹底されていない。さらに、戦役中期以降、政府および陸軍は岩倉策の推進充実を図る方針に転換し、壮兵全国召募を事実上放棄している。


 これらの謎に対する答えは、各種史料の断片的な情報をつなぎ合わせて明らかにしていくほかありませんが、結局のところ、次の3点に集約されるものと思われます。

 1点目はやはり、不透明な戦局に対する焦燥と戦争運営事務のドタバタに起因する、政府・陸軍の思考混乱です。
 戦役勃発当初、「(私学校勢力を一掃できる機会を得たことに)内心笑いをこらえきれない」と漏らした大久保や、「常備軍だけで足り、3週間で片づく」と豪語したとされる鳥尾らにとって、会戦劈頭の苦戦と深刻な兵員不足は全く想定外の事態であり、その心中には相当な不安と焦燥の念が生じたことでしょう。また、戦争運営ノウハウの未熟さ膨大な事務処理に伴う過労といった要素も彼らの判断力を鈍らせ、彼らをしてなりふり構わず目先の応急策に飛びつかせる結果になったと考えても、決して不自然ではありません。

 また2点目は、地理的な制約の問題です。
 本戦役の戦場はいうまでもなく九州であり、官軍の総括後方拠点たる陸軍事務所も大阪に位置していたことを考慮すると、東京の内務省を通じて壮兵動員を行う岩倉策は、距離的・時間的な制約と手間が大きいといわざるを得ません。そしてそうであるならば、大阪において陸軍が直接的に壮兵動員と部隊編成を実施したほうが、迅速かつ実効的に兵員を確保しやすいのは自明でしょう。
 また、政府中枢が京阪と東京とに二分されたために両者の間で意思決定上の齟齬が生じ、結果として政策が競合ないし錯綜してしまった感も否めません。もし三条・大久保・鳥尾・岩倉がいつでも直接コミュニケーションのとれる環境に身を置けていたのなら、壮兵召募がこれほど錯綜することもなかったのではないでしょうか。

 そして3点目は、壮兵全国召募の「紀州派を封じる政略」としての性格です。
 これについては、大阪で陸軍事務所を切り盛りしていた鳥尾と、後年外務大臣として辣腕をふるった陸奥宗光(紀州・和歌山出身)がキーパーソンとなります。当時、元老院議官として閣外にあった陸奥は、旧弊打破の観点から薩軍の断固征討を主張するとともに、故郷和歌山のプロシア式藩兵出身者を再招集して一軍を成し、自らそれを率いて戦列に加わらんと画策。そして、同郷の津田出少将らと協力して実行計画を詰めると、4月上旬には岩倉右大臣に直談判してその内諾を得ます。
 しかし、陸奥の智謀と反薩長思想をかねてからよく知っていた鳥尾にとってみれば、陸奥の紀州募兵出征構想はあたかも「虎に翼を与える」がごとき危険極まりないものでした。東京における陸奥の動向を何らかの方法によって事前に察知した鳥尾は、直ちに内閣の大久保・伊藤らに対する根回しを実施。そして、陸奥の機先を制するように壮兵全国召募を決行するとともに、自ら和歌山県の壮兵募集に着手したのでした。
 大久保らの正式な裁可を得るべく京阪に乗り込んできた陸奥は、自らの構想がいつの間にか横取りされていることを知って愕然とします。そして、奔走むなしく大久保・鳥尾によって自策が正式に却下されるに及んで、政府の藩閥的体質への憤慨と絶望の念をいよいよ強めたのでした。(なお、こののち陸奥は、土佐・立志社の不穏分子に接近してその武装蜂起計画に関与、結果として逮捕・投獄されることとなります。)
 『西南記伝』が伝えるこの一連のエピソードは、誇張や曲解の類を必ずしも排除できない性質のものではありますが、大いに示唆に富んでいるのは間違いないでしょう。すなわち、これに基づけば、①陸奥の機先を制して精強な旧和歌山藩兵を政府の統制下に置くためのカモフラージュとして、壮兵全国召募が急遽必要となった、②迅速かつ実効的に旧和歌山藩兵の招集を行うためには、内務省経由の巡査徴募方式(岩倉策)よりも大阪陸軍事務所の鳥尾本人の手による直接執行が望ましかった、③士族動員反対論者であったはずの三条・大久保らの突然の翻意は、陸奥の策謀を阻止するための政略的な必要性・緊急性によるものであった、といった解釈が可能となるからです。
 政府・陸軍側の公式記録にはあまり登場しない内容ではありますが、壮兵全国召募の一側面として、留意しておく必要があるかと思われます。




【本稿にかかる主要参考資料】


『征西戦記稿』 陸軍参謀本部
『陸軍省大日記 西南戦役』 陸軍省
『太政類典』 内閣文庫
『西南記伝』黒龍会
『日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想』 遠藤芳信
『近代日本における徴兵制度の形成過程』 古屋哲夫
『明治軍制史論』 松下芳男
『明治維新と陸軍創設』 淺川道夫
『竹橋事件の兵士たち』竹橋事件百周年記念出版編集委員会




 以上が、『陸軍省大日記』などの史料から読み解ける陸軍の壮兵召募の実態です。いかがだったでしょうか。

 なお、本文中でもふれたとおり、新壮兵召募は主に名古屋以西の西日本で行われ、東日本においてはほとんど形式的な布告のみにとどまりました。これは、東京留守・岩倉右大臣の内意を受けた内務省が、巡査の臨時徴募すなわち関東・東北諸県の士族の募集・警視官への登用を別個に先行して進めており、そちらが優先されたためです。

 これについてはまた別途解説しておりますので、よろしければあわせてご覧ください。⇒西南戦争における壮兵動員(2) 警視局による巡査の臨時徴募
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