2012年9月28日の高知新聞夕刊に
「尖閣」命名は本県出身者 博物学者・黒岩恒 112年前 島々を探検
と言う記事が載りました。牧野富太郎とも親交の深かった、佐川町出身の黒岩恒(くろいわ・ひさし)氏のこの件について、
佐川町出身で現在沖縄在住の沢村さんが、このことを記していたので再掲しました。
2012年9月28日の高知新聞夕刊に
「尖閣」命名は本県出身者 博物学者・黒岩恒 112年前 島々を探検
と言う記事が載りました。牧野富太郎とも親交の深かった、佐川町出身の黒岩恒(くろいわ・ひさし)氏のこの件について、
佐川町出身で現在沖縄在住の沢村さんが、このことを記していたので再掲しました。
2012年9月28日の高知新聞夕刊に
「尖閣」命名は本県出身者 博物学者・黒岩恒 112年前 島々を探検
と言う記事が載りました。牧野富太郎とも親交の深かった、佐川町出身の黒岩恒(くろいわ・ひさし)氏のこの件について、
佐川町出身で現在沖縄在住の沢村さんが、このことを記していたので再掲しました。
尖閣列島の命名者となる
黒岩氏の功績で忘れてはならないのは、尖閣(せんかく)列島を探検し、島名、地名の命名者であることだ。
尖閣列島は、八重山諸島と中国の間の東シナ海に浮かんでいて、中国と領有権をめぐり争いがある。
この島々の存在は、古くから知られてはいたようだ。琉球王国は、一四世紀から中国皇帝の臣下になり、琉球国王が中国に朝貢し、皇帝が冊封使(さっぽうし)を派遣し国王として任命していた。
冊封体制のもとで、中国との貿易も盛んだったので、琉球と中国の間を定期的に船で往来していた。海を渡る時、船が那覇港を出ると、慶良間(けらま)諸島、久米島と見ながら進み、次には尖閣列島を目印にして、中国へと航海したという。
この尖閣列島を最初に探検したのは、福岡県から沖縄に商売でやって来ていた古賀辰四郎という人物だった。古賀は、県内の無人島を探検していて、一八八四年(明治一七年)、尖閣列島を探検したという。
古賀は、まだ黒岩氏が農学校の校長になる前の教師時代に、理学士宮島幹之助とともに、尖閣列島の風土病、伝染病、ハブ、イノシシ、その他の有害動物の有無や飲料水の適否などの調査を委嘱したという。
黒岩氏らが上陸して調査した結果、マラリアや伝染病はなく、ハブ、イノシシも生息せず、四島のうち魚釣島だけ湧水があることも発見された。古賀は、尖閣列島の借地請願を政府に出して、日清戦争の後、島を三〇年間にわたる無償借地の許可を得て、開拓事業も行った。
黒岩氏はこの島々を探検して「尖閣列島探検記事」を『地学雑誌』(一九〇〇年、明治三三年発行)に掲載している。一九〇〇年五月三日に那覇港を出港して五月二〇日に帰り、往復一八日間かかったという。
宮島博士は黄尾嶼(久場島)の一島に留まり、黒岩氏は魚釣島など「他の列島を回遊せり」「余は窃(ひそ)かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり」と記す。
さらに、魚釣島の最高地点を当時の奈良原県知事の名前をとり「奈良原岳」と名付け、水流の流れているところは、八重山島司・野村道安の名前をとり「道安渓」、岬には沖縄師範学校長・安藤喜一郎の名前から「安藤岬」、さらに「イソナの瀬戸」「伊沢泊」「新田の立石」「屏風岳」などといった地名を次々に付けたそうだ。
黒岩氏は主に、島の地質や生物を調べた。鳥類はアホウドリ、クロアシアホウドリが群集してきていることを確認した。
植物は、琉球列島と異なるのは、松、沖縄松に限らずない、蘇鉄は皆無、八重山列島とも大いに異なるところがあると述べている。そして、たくさんの植物を採集し、その植物名の一覧表を掲げている。
黒岩氏の業績を顕彰するために、一九六八年秋に、名護市内の名護城跡の公園内に顕彰碑が建立された。沖縄を離れて五〇年近くも後から顕彰碑が建つというのも、その人柄と業績が沖縄、とくに山原の人々に伝えられていることを示すものだろう。
黒岩氏は、一九二〇年(大正九年)に和歌山県に移住し、高野口町で一九三〇年、七二歳で没したという。
黒岩氏が拠点としていた沖縄本島の山原(やんばる)地方は、中南部と違って、山々が連なり、深い森林におおわれ、ヤンバルクイナやノグチゲラなど固有動植物が数多く生息している。
このやんばるの森を含め琉球列島が世界自然遺産の候補地にリストアップされるほど、世界的にも貴重な自然が残る場所である。
しかし、いま豊かな自然と貴重な生態系が壊されようとしている。開発の波が押し寄せ、特に必要以上に林道建設が進められている。山を削り赤土を河川と海に流し込み、自然と環境に重大な悪影響を与えている。
一方で、山原の広大な国有林が在沖米国海兵隊の北部訓練場(約七五〇〇㌶)となっている。演習場の一部返還と合わせて、東村に米軍のヘリコプターの離着陸用の軍用施設(ヘリパッド)の建設が進められようとしている。
その上、名護市辺野古には、ジュゴンの生息する美ら海(ちゅらうみ)を埋め立てて、V字型滑走路をもつ巨大な軍事基地を新たに建設しようとしている。
米軍の新たな基地建設は、いずれも貴重な自然と生活環境、平和と安全を危うくするとして、多くの住民、県内外の人々が建設反対の声を上げている。
黒岩氏が現代に生きていれば、この沖縄北部の現実をどう見るのだろうか。きっと、「なんという愚かなことをするのだろうか」と驚き、悲しみ、そして憤るだろう。
「貴重な自然と環境を守れ!」という声を上げるのではないだろうか。教育者で博物学者として、黒岩氏が打ち込んできた仕事と研究からみて、私はその思いを強くする。 (終わり) HN:沢村
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沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 追記タイトルを見ると、なんのことか意味不明だろう。元日といえば、届くのは年賀状が普通。それが、今年の元日は、なんと郵便局から年賀状とは別に、2回にわけて配達があった。こんなことは初めてなので、ビックリ。さっそく開いてみると、一つは「沖縄ジョン万次郎会」の『結成20周年記念誌』である。もう一つは、故郷の同級生が送ってくれた町発行のカレンダー。といっても、町出身の植物学者の牧野富太郎の植物画を各月に掲載したものだった。
新年に届いたプレゼントに、元日から嬉しい気持ちになった。この二つの贈り物に共通するものは、「ジョン万と富太郎」という2人とも、高知県出身の誇るべき偉人であるということだ。長くなるので、今日はジョン万次郎記念誌を紹介したい。
これを送ってくれたのは、沖縄ジョン万次郎会事務局長の名嘉真和彦氏。年末にある忘年会でたまたま一緒になり、名嘉真さんがジョン万会役員であることを知り、連れ合いが「夫は高知県出身です」と伝えたところ、「記念誌を送りますよ」と言ってくれたのだった。
中浜万次郎は、漁船で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで過ごした後、1851年に琉球の大渡海岸に上陸し、取り調べのため半年間、琉球に滞在した。滞在したのが、豊見城村翁長(トミグスクソンオナガ)の高安家だった。万次郎は、幕末の日本に西洋の事情や民主主義の思想を伝え、開国の先駆者となった。その万次郎が、滞在したさいは、村の先代たちは、温情ある接遇をしたという。この史実や万次郎に関することを広く普及していこうと、1991年に発足したのが、この会である。
記念誌は、A4版で154ページもある立派な装丁である。記念誌は、各界の人たちの祝辞から20周年の記念事業の経過報告、記念の座談会、会のあゆみ、講演会の模様、さらには市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」、ジョン万カップ少年野球交流大会、土佐清水ジョン万祭り、アメリカのジョン万祭り(フェアヘーブン)の様子まで盛り沢山の内容だ。上の写真の記念講演会には、前高知県知事の橋本大二郎氏の姿も見える。
万次郎を助けたホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州フェアヘーブンの「ホイットフィールドー万次郎友好協会」のゲラルド・ルーニー会長や万次郎直系五代目の中浜京さんの祝辞も掲載されている。中浜京さんが、万次郎が滞在した高安家を訪ね、ここで過ごした日々、地元の人たちとの交流などを聞き、「万次郎の帰国の地が、琉球でよかったとつくづく感じております」とのべているのは、興味深い。
2010年9月には、ジョン万次郎記念碑が建立された。ここには、記念碑ができたことを知り、すぐ訪ねたことがある。
「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」の上演は新聞でも大きく報道された。一度、観劇してみたい。沖縄ジョン万会が多彩な活動をしていることが、よくわかる。
会の会則では、「国際交流及び青少年の健全育成に寄与する」ことを目的に掲げている。今後とも、会が発展することを期待したい。
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元日に送られてきたプレゼントの二つ目は、わが郷里の町で発行した「町民カレンダー」である。町がカレンダーを出すなんて、他ではあまり聞かない。新潟にいる同級生が送ってくれた。
大事なのは、毎月、世界的な植物学者だった牧野富太郎の植物図が使われていることである。
牧野博士は、1862年(文久2)4月24日、高知県佐川町の造り酒屋「岸屋」の一人息子として生れた。学歴は小学校中退だが、佐川には名教館(メイコウカン)という優れた私塾があり、そこで学んだ。といってもあとは、独学で植物を研究した。植物分類学を専攻した。「草を褥(シトネ)に木の根を枕 花と恋して90年」と自身が語ったように、土佐をはじめ全国の山野をかけ巡り、採取と標本作成に専念し、新種の発見命名は1000種、学名変更は約500種にのぼるそうだ。東京帝国大学の助手、講師となった。
業績は書きだすと果てしない。「約一世紀の生涯を植物に捧げつづけた牧野富太郎博士は『日本の植物学の父』として敬愛されている」。カレンダーはこう記している。95歳で亡くなったが、死後に文化勲章を受けた。牧野博士の名前は鳴り響いていたのに、なぜ生前に授与しなかったのか、ここにも日本の学歴偏重の歪みがあるのかもしれない。
牧野さんの著書『植物一日一題』が手元にあるが、これを読むと、われわれが今でもいわば常識と思っていることを「間違い」と正していることがとても多い。たとえば「ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではない」「キャベツを甘藍(カンラン)だというのは無学な行為」「アジサイは紫陽花ではない」という具合である。
紫陽花という名の出典は中国の白楽天の詩が元であるが、「アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではない」と言う。もう15年ほど前に読んだけれど、牧野さんの研究に裏打ちされたこうした明快な指摘が記憶に刻まれている。
ところで、なぜカレンダーを紹介しようと思ったのかが、本題である。それは牧野さんの書かれた植物画が、とても繊細で美術としても観賞に値すると思うからである。
カレンダーは、高知県立牧野植物園の協力で制作したものである。表紙とともに13枚の植物画が掲載されている。そのうち5枚をここでアップした。
一番上の植物画は、「ガマズミの実」。ガマズミはスイカズラ科で、高知の方言では「ヨージメ」と言う。初夏に花をつけ、実は甘酸っぱく食べられるそうだ。
2番目は「ワカキノサクラ」1892年に佐川町の旧尾川村で発見したサクラ。播種した翌年から花を咲かせるのでこう命名したそうだ。つまり若い木で花を咲かせるという意味である。このサクラは、子どもの頃から身近にあって知っていた。
3番目は「ヒメキリンソウ」。四国固有の多年草である。キリンソウによく似ていて、小さいことからこう呼ばれているとのこと。
4番目は「コオロギラン」。1889年に越知町の横倉山で発見された。和名は、円形で淡い紫色の唇弁が、コオロギの羽に似ていることによると言う。
5番目は「ジョウロウホトトギス」。これも1887年に横倉山で発見された。和名は、花の美しさを上臈(ジョウロウ=宮中に仕える女官)の上品さにたとえたものだと言う。
ここに上げた植物画は膨大な植物画のごくごく一部にすぎない。でも、今年一年、このカレンダーを掲げて、植物画を眺めたい。
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仁淀川・四国カルストジオパーク推進協議会ニュース 第7号
仁淀川町の銅鉱山と空海弘法大師
四国霊場と鉱物分布の関係