Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

「御来光」は、場所を選ばなければ、「あり」である。

2017-01-02 | Weblog
基本的に、お仕着せの「初詣」を拒否している。
「初詣」に行きたがる人たちの足を引っ張る気もないし、同行すれば、手を合わせることもあるだろう。ただし心の中では、そこに祀られている対象の、「地域の守護神」としての部分への敬意と、社殿のさらに奥にたとえば裏の山上にもう一つの社殿があったりするが、そのさらに先にある「自然」「歴史」そのものへの敬意のみで行う次第。
こんな私でも、自然信仰は、おのずとある。
「御来光」は、場所を選ばなければ、ただ太陽と、自然と、出会いなおすという意味で、「あり」である。
捏造された「神様」は、関係ない。
私は「万世一系の国体」も「八紘一宇」もゴメンである。「神社本庁」が、明治維新期に確立され、戦後はGHQの「神道指令」によって解体された「国家神道」への回帰を目指し、「日本会議」と野合している現実は、拒否したい。

安倍晋三首相とオバマ米大統領がハワイの真珠湾を訪問し慰霊したことを受け、日本の「世間」はまんまと騙されて政権支持率上昇という。だが、首相が真珠湾の犠牲者を慰霊するなら、真珠湾攻撃の一時間前の日本陸軍によるマレー半島北東沿岸攻撃はもちろん、その日のうちにも続いたアジア太平洋地域への「侵攻」についてどう思っているかはっきりさせるべきだという、内外識者の意見に、大きく頷く。
平和憲法をねじ曲げ「集団的自衛権」を掲げ、「積極的平和」と称する好戦姿勢を明らかにする現政権に、自然と人間への敬意、真の歴史への尊重は、ない。
稲田朋美防衛相は年末、一個人と言いつつも記帳は「防衛大臣」の立場で靖国神社を参拝。公式参拝が憲法の保障する政教分離に反し、戦争による死についての「国家の責任」を正当化するものだということは事実だ。中韓等、諸外国からの批判は当然だが、稲田防相が安倍首相の真珠湾慰霊とのバランスを取ったと言われるのも、当然である。
自然と命への思いを、国家権力に回収しようとする装置は、見苦しいものだ。

夜、家ではない某所にいると「日本のジレンマ」というテレビ番組が聴こえてくる。
三十代の人たちの議論? ディベートのためのディベート? インテリ・エリートのひけらかし自慢?
自身のことを示して「思考停止」という言葉が出てくる。どうやらさほど否定的に言っているのでもないらしい。
そのくせ「中国脅威論」をしゃあしゃあと大前提のように話している。例外は二、三人くらいか。
「どうあるべきか」という話は皆無。意見や指摘をしあっているようで、そうでもない。「こんな考えの人もいる」とお互いに認めあって、終わる。互いの「話の仕方」について、ああだこうだ言っている堂々巡りも、多い。
印象として、問題の本質に入ることを避け、「外側にいる」。世代の特徴なのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする