Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

今年もよろしく。

2017-01-01 | Weblog
今年もよろしく、とは申し上げたいと思う。
もうちょっとは、がんばる。
そのつもりだ。

元旦に発表ということで、藤井ごうさん、千田是也賞、おめでとう。
そのうち御祝いさせてください。

やれやれ。
いろんなことが面倒にも思えてくるが、そんな余裕はない。



※     ※     ※     ※     ※


おめでたいことに今年も新春早々、我らが内閣総理大臣が、ありがたい年頭所感を披露してくださった。
さすがである。
まず、「わが国の たちなほり来し 年々に あけぼのすぎの 木はのびにけり」という30年前の新春、昭和62年の歌会始における昭和天皇の歌を引きながら、「戦後、見渡す限りの焼け野原の中から、我が国は見事に復興を遂げました。昭和天皇がその歩みに思いを馳せたこの年、日本は、そして世界は、既に大きな転換期に差し掛かっていました。」と、「この年(昭和62年)」と「現在」を比較しつつ、今という時代の悲惨が「昔から繰り越された」という印象をうみだすことに、腐心している。
「出生数が戦後最低を記録します。経済はバブル景気に沸きましたが、それは、長いデフレの序章となりました。世界では、米ソが中距離核戦力の全廃に合意し、冷戦が終わりを告げようとしていました。」と、「この年(昭和62年)」の過去の事象を並べて、「あれから四半世紀の時を経て、急速に進む少子高齢化、こびりついたデフレマインド、厳しさを増す安全保障環境。我が国が直面する、こうした課題」として、「原因は私の時代にはない」と弁解しつつ、「安倍内閣は、この4年間、全力を挙げて取り組んでまいりました。」と、あたかも自身の内閣が、自分のせいではない「過去からの課題」に立ち向かってきたかのような詐術にも、怠りない。
冷戦の終わりそれ自体は、全世界が歓迎した出来事である。日米安保の傘には入れなくなったことによって「厳しさを増す安全保障環境」になったというのが、首相の本音である。自分のことしか考えていないのだ。
その後の世界情勢の変化に対応して、何かしただろうか。「アメリカ追従が愛国心」という捻れに身を委ね、アメリカの言いなりになることで強気になり、まだしもバランス感覚を持っていた自民党内リベラル派を、ほぼ壊滅に追い込んだ。
「私たちが政権を奪還する前」と、自民党野党時代にすべての原因を押しつけ、「「日本はもはや成長できない」「日本は黄昏を迎えている」といった、未来への不安を煽る悲観論すらありました」と、民主党連立政権時代に「悲観論」とその根拠があったと、決めつけている。
「しかし、決して諦めてはならない。強い意志を持ち、努力を重ねれば、未来は、必ずや変えることができる。」「安倍内閣は、さらに未来への挑戦を続けてまいります。」と無内容な宣言だけをしている。
憲法を改悪しようと企てているくせに、「本年は、日本国憲法施行70年の節目の年にあたります。」と憲法を大切にしているふりをする。
「そもそもですね、我が党において、いままで結党以来ですね、強行採決をしようと考えたことはないわけであります」と、一昨年の安保法制強行採決以来、憲法無視の強行採決を繰り返していることを、自覚していないふりをする。
「現行憲法制定にあたり、芦田均元総理はこう訴えました。」の内容、「歴史未曽有の敗戦により、帝都の大半が焼け野原と化して、数万の寡婦と孤児の涙が乾く暇なき今日、如何にして『希望の光』を彼らに与えることができるか・・・」と「憲法制定」に「救世主」のイメージを立ち上げておきながら、自分はそれを平気で裏切っているのである。
「そして、先人たちは、廃墟と窮乏の中から、敢然と立ち上がり、世界第三位の経済大国、世界に誇る自由で民主的な国を、未来を生きる私たちのため、創り上げてくれました。」と、「経済」と「自由で民主的」のイメージを自分の都合で連結している。「豊かな国が自由で民主的とは限らない」こと、「自由で民主的でなければ豊かさは失われる」ことを証明してきた張本人には、その自覚がないのである。
「今を生きる私たちもまた、直面する諸課題に真正面から立ち向かい、未来に不安を感じている、私たちの子や孫、未来を生きる世代に「希望の光」を与えなければならない。未来への責任を果たさなければなりません。」というが、「直面する諸課題」に拙い対応ばかりを繰り返し、「未来に不安」を全く解消することもできず、「私たちの子や孫、未来を生きる世代」に「希望の光」どころか、絶望を押しつけていることには、素知らぬ顔を決め込んでいる。
本当に、いつも自分のことを棚に上げている論調は、見事なものだ。
「女性も男性も、お年寄りも若者も、障害や難病のある方も、一度失敗を経験した人も、誰もが、その能力を発揮できる一億総活躍社会を創り上げ、日本経済の新たな成長軌道を描く。」と喇叭を吹く。
だが、女性差別の政策を進め、強行採決の末に成立させた年金カット法案によって年金生活者の所得を減少し、幾多の方法によって障害者・患者の権利を剥奪し費用負担を増加させておいて、どうしてそんなことが言えるのだろう。
海外からの難民を受け入れることについて「わが国はそこまで労働力に困っていない」と頓珍漢な答弁をして世界中に呆れられたことも、自覚がないのだろう。「労働力」を国内で確保する策として、「締め付けておいて、働かせよ」という原則を採用しているつもりなのだろう。
何しろ昨年、首相は「日本はかなり裕福」と発言、「妻のパート月収25万円」とも言った。パート労働者の平均収入はどう工作しても月収十万以上にはならない。「ガリガリ君」さえ政治活動費で買っているような人は、その辺りの感覚が、OCDE統計で相対的貧困率はワースト6位の国で、「貧困」や「ブラック企業」の現実に直面している庶民とは、かけ離れているのだろう。
首相は6月、「「株価下落により、年金積立金に5兆円の損失が発生しており、年金額が減る」といった、選挙目当てのデマが流されています。しかし、年金額が減るなどということは、ありえません」と言っている。例年は前年度の運用成績の発表は7月上旬なのに、今年は参院選後の7月29日に、政府が約5兆3000万円の運用損を出したことを公表。「5兆円損失はデマだ!」と自らが選挙対策の保身で発言したことじたいがデマだったことがあからさまになったにもかかわらず、それを恥じない。
文字で記すだけで恥ずかしくなる「アベノミクス」なる政策の失敗は明らかなのに、それを恥じない。そのうえ伊勢志摩サミットで、G7首脳陣や海外メディアの面前で「世界経済はリーマンショック前に似ている」と言ってしまう。一般人や世界の常識とはかけ離れたあまりに深い洞察を示してくれた。「世界経済はそこそこ安定した成長を維持している」とするメルケル首相や、「安倍晋三の無根拠なお騒がせ発言がG7を仰天させた」と記す「ル・モンド」紙も、その直観には辿り着けていないのだろう。年末には「リーマンショック前」どころか「日本経済は明らかに向上している」と言わせたりしているが、奥深すぎて理解できない。
「激変する国際情勢の荒波の中にあって、積極的平和主義の旗をさらに高く掲げ、日本を、世界の真ん中で輝かせる。」
というが、国連の「核兵器禁止条約」に向けた交渉で「唯一の被爆国」である日本が反対しているのは、その「積極的」の向かう方向を端的にあらわしている。核兵器保有を肯定する発言を何度も繰り返しておきながら、オバマ大統領の広島訪問に乗っかって「我が国が核兵器を保有することはありえず、保有を検討することもありえない」と言ったことも、その場で忘れて行くのであろう。
「積極的平和」は決して「平和」の状態を求めるものでなく「自分に都合のよい戦争をすること」を意味するのだが、こんな言葉のまやかしに踊らされている国民自体も素晴らしすぎるのかもしれない。
首相は自分が嘘をついているという自覚はないのかもしれない。
「私が申し上げていることが真実であることはバッジをかけて申し上げます。私の言っていることが違っていたら、私は辞めますよ。国会議員を辞めますよ」と1月の衆院予算委員会で宣言したが、その発言が出てきた「北朝鮮拉致被害者家族会」の蓮池透氏の指摘については首相自身が嘘をついていたことが明白なのに、逃げている。
もちろん、その後のどんな嘘についても、責任をとって辞める姿勢を見せたことはない。
「そして、子どもたちこそ、我が国の未来そのもの。子どもたちの誰もが、家庭の事情に関わらず、未来に希望を持ち、それぞれの夢に向かって頑張ることができる。そういう日本を創り上げてまいります。」というが、「未来へのツケ」に充ち満ちた「TPP」を、アメリカさえ参加しないと表明したにもかかわらず、自分のメンツの問題で強行採決した。
野党時代は「TPP断固反対」としながら、与党になれば当時推進していたオバマ大統領の御機嫌うかがいと経済界の支援で正反対に鞍替え、「私自身は、TPP断固反対と言ったことは一回も、ただの一回もございませんから」と嘯いてきた。
「私たちの未来は、他人から与えられるものではありません。私たち日本人が、自らの手で、自らの未来を切り拓いていく。その気概が、今こそ、求められています。」
気概では駄目だろう。人口も減少の一途を辿り、エネルギーも食料も生産業の原料も外国に頼るしかないこの国は、自分一人では何もできない。国際協調と外交によって合理化していかなければ、このジリ貧の国の未来はないはずである。
「2020年、さらにその先の未来を見据えながら、本年、安倍内閣は、国民の皆様と共に、新たな国づくりを本格的に始動します。この国の未来を拓く一年とする。そのことを、この節目の年の年頭にあたり、強く決意しております。」
何の内容もない。空疎である。みごとだ。
締めくくりに、「最後に、本年が、国民の皆様一人ひとりにとって、実り多き、素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。」とのことだが、結局この年頭所感じたいが、「現行憲法制定」の「理想」を自らが潰し、「絶望」の時代を招こうとしていることを、隠蔽している。
首相は7月、「憲法改正は争点ではない」と言っていたはずの参院選の結果を受け、「国民の信任を得た」とし、「(自民党改憲案を)実現していくのは総裁としての責務」と発言している。
2月に総選挙があるとかないとかも、「首相の専権事項」であるわけだが、「自分が勝てるかどうか」だけを考えている。
彼が民主的な手続きによって現実に真摯に対応しているわけではないことだけは、確かである。
こんな首相でもやっていけるのだ。
国家というものがフィクションでしかないこと。愚かさも、これだけ続けてきて、周りが従ってしまうと、麻痺の感覚の中で存続してしまうことを、見事に証明してしまった。

日本国憲法の美点が失われた時代に立ち会っていた人たちの一員には、なりたくない。



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