サ カ タ の ブ ロ グ 

やぁ、みんな。サカタだよ。

あったような、なかったような

2023年09月01日 | サカタだよ

駅でエスカレーターに長蛇の列ができていたら、階段を使うのが健康のためになると世の中の人は口を揃える。だがしかし、それは一種の洗脳ではあるまいかと考えて、行列してるエスカレーターにも階段にも背を向けてホームの端に歩いていき、空いているエスカレーターで快適に改札階まで上がり、遠くの出口から遠回りして出勤するのが自分のやり口。そのほうが渋滞なく心地よく歩くことができるし、さまざまな感染症のリスクも低い。システムのいいなりにならず自分のアタマで考えるとはこういうことだとつぶやいても、そんなシステムなかった。

 



このタコさん顔ついてるし、みんなで立ち上がってバビロンシステムと戦うんじゃないかと期待したのに、そんなシステムなかった。
 

 



ダボスに集まりSDGsによる支配を進めるシステムとの戦いが済んだら環境のことなんて考えないで屋台のソース焼きそばをプラスチック容器と割りばしで思いきり頬ばろうってあいつと約束した(←死亡フラグ)んだけど、やっぱりそんなシステムなかったしフラグも立たなかった。

 



俺の出番だと思ったのに、そんな出番なかった。
 

 



人類が新型コロナに打ち勝った証として無観客でもオリンピックで談合と中抜きをやり遂げるまでは、どこの劇場もこんなふうに大真面目でアクリル板を設置してなお興行中止になったりしてたけど、いまにして思えばこんな仕掛けに感染を防止する効果なかった。

 

 



スカイツリーは東京タワーと違ってエレベーターから外が見えないので、階数の表示がフェイクだったら上昇したか下降したか判然としないし展望台からの眺めも地下室のガラスに映された精巧な映像かもしれない。だから高度計を持参してみたら350mぐらいを示したので、気圧を操作してるのでなかったらフェイクも精巧な映像トリックもなかった。

 

 



「貴重品は忘れずにお持ちください」といわれるとフラッシュバックが起こり、千人針を貫通した鬼畜の銃弾で落命した前世で赤紙を受け取り宇都宮へ貴重品袋を持って旅立つわたしを見送る人たちのバンザイが耳朶にこだまするが、そんなバンザイも前世もなにもなかった。

 



こんな天気のいい日はミニクロワッサンでもリュックに詰めて小高いところへ歩いていき、小腹がすいたところで食べるとおいしいんだろうけど、いまは雨降りだし会社で仕事中だしミニクロワッサンもなかった。

 

 



コンビニがなかったころは酒屋が閉まって自販機が深夜のアルコール販売を停止したら翌朝5時に再開するまで缶ビールも買えなかったけど今やコンビニがあれば24時間いつでも飲めるから心強い…しかし日本にコンビニがなかったころは児童だったので飲酒癖なかった。
 
 


幼少のころは成長したら大人になって、あとは変化なく死ぬものだとばかり思い、おばちゃん、おじちゃん達はあれで完成形というか完全体なので何年も変わらず生きており、死が訪れる前にちょっとシワが増えたり腰が曲がったりするんだと理解していた。ところが大きくなるにつれて周囲のおばちゃん、おじちゃん達もどんどん変化してゆく。そして死んでゆく。あの人たちとて完成形じゃなかったし、完全体でもなかった。いわんやこのわたしをや。
 
 


涙袋にコンシーラーを塗って顔の印象を明るくしたらラインで涙袋のぷっくり感を強調し、仕上げにラメを乗せなくちゃと思っても、それどころの顔じゃなかった。(まずヒゲ剃れよ)
 

 



トーストをかじった瞬間、大学の山岳部の仲間と集ったあの頃を思い出しかけたけど、よく考えたら山岳部じゃなくて偽アメフト部だった。偽アメ(ギアメ)はつらいよ、とつぶやいても、つらいことなど何もなかった。

 



毎朝こうして文机に向かってSNSを更新してると自分がまるで遊び回ってるかのように思われるかもと心配になることがないと言ったら嘘になりますが、遊び回ってないと言ったらそれも嘘になるのでいっそ嘘しか投稿してないことにしてはどうかと文机に向かって思案するのが日課になってます。しかし残念ながら、嘘はひとつもなかった……文机に向かってSNSにそう投稿したのは、当然のことながら事実のはずもなかった。
 
 


祖父は赤紙でインパール作戦に参加させられ餓死も病死も戦死もせずにどうにか引き揚げ船で故郷の土を踏んだという。昭和の終わりまで生きていた。父は青空教室で戦後の民主教育を受けて育ち昭和平成令和を平穏に生きてきた。ぎりぎり戦争を経た世代が平和憲法の恩恵を受けて、その恩恵は恒久とされたにもかかわらず、戦争を知らない坊やたちが狼藉を働いて憲法改悪(=ほぼテロ)に手を染め、ありそうだった恒久平和はどうやらなかった。
 
 


東京湾に漕ぎ出でてみれば、羽田に着陸せんとする飛行機の空に連なり飛び来るを肉眼で確認し、次から次へ等間隔にて近づくをB29爆撃機の編隊と見まがい空襲の夜の悲惨さ、阿鼻叫喚をあたかも走馬灯のように思い出し……非ず。東京大空襲の折、まだ生まれてもなかった。
 

 



太陽が眩しかったから、パリのワイン食堂(マガジンハウス1階)に身を投げ入れた。何年ぶりだったか、私にはわからない。ママンが死んだのは2年前かな、去年じゃないし3年前でもないから……見回したら二人連れか三人連れの女性客ばかりで女一人なのは私だけかと思ったけど、よくよく考えてみると私は女じゃなかった。

 



暑熱のせいか加齢のせいか食欲がなくて朝食はサーロインぐらいしか喉を通らない……そのせいか最近ちょっと痩せたねって声かけられることがあるけど、そりゃ50過ぎれば誰だって少しは萎むし萎れるし萎える。すごいよ、「しぼむ」も「しおれる」も「なえる」も同じ字だよ兄さん! 変換して初めてわかったよ、と振り向いても自分には兄さんも姉さんもいなかった。イマジナリー執事のアルフレッドだけが家族代わりだったし、彼の用意するサーロインも幻だった。

 



1970年の大阪万博の目玉が月の石だったことを思うと、あのころ期待された科学の飛躍的な進歩は実際なかった。




せきれい石なるものが山に転がってるのを見かけて、いつも素通りする立て札の文字を読んでみたら、イザナギとイザナミがこの石で鶺鴒(せきれい)の交尾をみてムラムラして鶺鴒のやりかたをまねて夫婦になったと書いてあった。日本史上初のあれは後背位だったってことか。おそらくイザナギとイザナミになりきり交わる儀式が古来この石で行われたことにより敷島のやまとの民は栄えたことであろう。ありがたや、ありがたや、と手を合わせ涙を垂れながら拝まずにいられなかったと書いたところで、そこまでの感激も興奮もなかった。




1280円だった沖縄料理のランチがいつか1380円になり、1580円になり、1780円になったもんでグレードアップしたのかどうか写真に撮って比べてみたけど、特に変化なかった。




昨日の東奥日報を読んで、もう太宰の生家に鉄道で行けなくなるのかもと残念に思いかけたが、今別町が存廃について全世帯の意見を調査するのはJR津軽線であって金木を通る津軽鉄道じゃなかった。




こういう素っ気ないアイスコーヒーを期待しないで飲んだら思いの外おいしかったりすることが万に一つぐらいあるんだよねと思いつつ、つとめて期待しないで飲んでみたら特別おいしくなかった。




これまた味も素っ気もなさそうだからこそ案外いけるかもと思って、恐る恐る口にしてみたら何ともいえずおいしくなかった。




いざとなったら、この避難小屋で夜を明かせば大丈夫だと中を確かめたのに、全然いざとならなかった。




20年以上前に買ったときすでに内容がちょっと古い気がして読まないまま忘れてた本が出てきたので通読した。ロックンロールの誕生から語り起こしてMTVの興隆で終わるから、ビデオがロックを殺したと言いたいのかなと思ったけど、そんな主張なかった。刊行が1985年でそこまでしか書けないだけだった。



関連記事:   性懲りもなくなかった

 

 

 

 

 

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