このブログ11月で終わりか~・・・
さて、どうする。困ったもんだ。今年から始めた新参者としは、どっち向いていいんだか、さっぱりわからん!!
この機会に「もうやめる」という選択肢はないんだけど、どっか移るにしても、何処へ?、いつ?、どのように?
誰か、力強い人の尻にでもついていくか(笑)。
さて、金曜日は本編を載せているのだが、80年前の4月19日は、ばあちゃんが空襲にあって、あぶなく死にかけた日だ。そのことを、戦後50年、今から30年前に市の「わたしの戦争体験手記」に投稿している。
それを今回と次回(月曜日)の2回に分けて掲載したい。原文は縦書き。
噫、戦争は恐かった。
さて、どうする。困ったもんだ。今年から始めた新参者としは、どっち向いていいんだか、さっぱりわからん!!
この機会に「もうやめる」という選択肢はないんだけど、どっか移るにしても、何処へ?、いつ?、どのように?
誰か、力強い人の尻にでもついていくか(笑)。
さて、金曜日は本編を載せているのだが、80年前の4月19日は、ばあちゃんが空襲にあって、あぶなく死にかけた日だ。そのことを、戦後50年、今から30年前に市の「わたしの戦争体験手記」に投稿している。
それを今回と次回(月曜日)の2回に分けて掲載したい。原文は縦書き。
噫、戦争は恐かった。
戦中の建物残る公園は
来るたび痛し、 わが胸の中
日立航空機時代の変電所、給水塔の残る公園の近くに住む私は散歩しながら、よくこの場所に来る。給水塔を見上げては、三十年、四十年と我が胸を押さえて来た。今年は五十年、とりわけ込み上げるものがある。
日立航空機で一緒に働いた皆さん、お元気でいるだろうか。
大和村の日立航空機工場で働くようになった親に連れられてこの地に来たのは昭和十四年だった。家事手伝いをしていた私も親にすすめられて十七年暮に入社、戦士の一員の誇りをもって働き始めた。十九年空襲警報がたまにあった。防空壕に入り解除を待つ間は休憩時間おしゃべりを楽しんだ。歌もうたった。湖畔の宿、愛染かつら、愛国行進曲、あすはお立ちか、父よあなたは強かった などなど。ああ、そうそう、若き乙女こんな歌も唄った。
大佐、中佐、少佐、じじくさい
それに大尉にや 妻がある
粋な少尉にや 金がない
女 泣かすは 中尉殿
でも、いつまでもそうはいかなかった。
昭和二十年二月十七日、空襲警報で外へ出たらもう敵機が上空にいるではないか。慌てて壕に入り身をかがめていると、ひゆうん、バシヤ、バシヤ、ひゆうん、バシヤ、バシヤと撃ってくる。壕の土がその度サラサラと落ちる一緒に入った中の一人がお母さんお母さんと泣いている。私も身を小さくし頭を手で押さえていた。敵機が去り外へ出たとき、あ、あ、命あったと思った。家へ帰ったら、母に無事だったか、工場まで見に行ったんだよと言われた。(つづく)
ばあちゃんと変電所

手記を書いた時は70歳、写真は85歳。すでに認知症が始まってたが、ここに来て、ここ知ってるか?と言うと、知ってるよ、よく覚えてるよう、この前よく通ったよ、と自慢げに言っていた。


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