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勝負

2008年05月23日 09時17分28秒 | 世間の話
 囲碁を嗜む人なら「秀作流」と聞けば、一局は打った事がある筈。先番・黒石で3石の小目から打ち始める布石を言う。小目に打った石は隅の地(陣地)を確実に獲得すると同時に、掛かってきた白石を次の黒石で攻める構えを持つ、所謂、二刀流の布石である。
 本因坊秀策は江戸後期の町人文化で賑わう、天下泰平の文政12年(1829年)、広島県尾道市因島に生まれる。物心付いた時から、秀策は両親が碁盤に向かい、黒白の碁石を互いに打ち合い、盤上の模様が次々と変わっていく様子に興味を抱き、毎日のように碁を見ていた。それ故、泣き出した秀策を宥めるのに碁石を与えると直ぐ、泣き止んだと言う。そんな秀策が悪戯を仕出かし、父が押入れに閉じ込めてお仕置きした時の話である。暫くは泣きじゃくっていた秀策がいつの間にか泣き止んだ。不思議に思った父がそっと押入れを開けてみると、秀策は押入れに直してあった碁を一心不乱に打っていた。こんな秀策を観て、母(カメ)は碁を教えた。秀策5歳の時だった。
 その後、秀策は三原城主(浅野氏)に碁の才能を見出され、江戸に向かう。勿論、浅野氏が資金援助を買って出たのは言うまでもない。江戸に着いた秀策は碁の家元の1つであった本因坊家に弟子入り、腕を磨く事となる。この当時、囲碁戦の最高峰と言えば、徳川将軍の前で対戦する「御城碁」であった。日本全国の家元から強豪揃いが出揃い対戦する。嘉永2年(1849年)の御城碁に秀策は始めて呼ばれ、強豪と対戦した。比類まれな碁の才能を持った秀策は強豪どもを次々と打ち負かし、優勝!鮮烈なデビューを果たす。以後、12年間、秀策は1度も負けなかった。
 秀策は自分をここまで育ててくれた両親に、まめに手紙を出していたらしく、勝負の世界に居ながら、恩を忘れない、人を気遣う性格も兼ね備えていた。文久2年(1862年)、江戸にコレラが流行した。当然の事ではあるが、本因坊家の人々も例外ではなかった。人を気遣う秀策はコレラに感染した人達の看病に余念が無い。ところが、この看病が仇となり、秀策自身がコレラに感染し、一週間後に世を去った。秀策34歳であった。
 囲碁は古代中国で4000年前、天文学や易学の道具として始まり、奈良・平安時代は天皇や貴族の最大の娯楽となり、戦国時代には戦の参考にと武将などに愛好され、現代に至った。日本棋院によると、現在、日本の囲碁人口は約500万人と言われている。
 囲碁の世界に多大な功績と影響を与えた秀策の勝負に対する考えが尾道市瀬戸田町の谷本 篤さん宅の屏風に本人直筆で書き記されている。……「対局後、お互いに碁石を片付けた後に、何も無い碁盤を見渡せば、そこには戦った跡など、ひと欠片も残っていない。全力を出して戦えば、戦いの後に、勝者も敗者も味わう事が出来るのは清々しい心地良さだけだ!」と。
 つまり、勝負や競争において「勝った」「負けた」は問題ではない。肝心なのは全力を出し尽くしたかどうかである!