サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

無知の知

2017-08-28 16:00:29 | 日記
神だけが、あなたの進化において、あなたをより高い段階に連れて行くことができます。
見つけなければいけないのは上に行く道であり、あなたを下に連れて行く道ではありません。
人に多くの負の性質があるのは、エゴと執着のせいです。
エゴを取り除き、あらゆる執着を切り落とし、正しい食べ物を選び、あなたの食習慣をコントロールし、人生で成功を収めなさい。
サットウィック(浄性)な食べ物を食べなさい。そうすれば、あなたの神聖な性質が顔を出すでしょう。聖なる世界はサットウィックな食べ物からやって来ます。15/7/83

ポニョ:昨日まで動物実験や、仔牛さんが殺されるなどの、少しヘビーな話をしました。
この前、サイババさんの若かりし頃の物語を読み直していたら、十本ほどエピソードが抜けていたので、付け加えておいたぜよ。だから四十本だったシーリーズが、五十本になっちゃった。貴重なエピソードがたくさん抜けちゃっていたぜよ。もし良ければ読み直してくださいね。うっかりしてごめんなさい。
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/5f464506f2ab14e01cba9ff0c518a4a3
ヨシオ:お互い年やからな。誰にでも間違いはある。

ポニョ:おいらの場合は、そのような間違いを若い時からして来ているんだってばよ。年のせいではないズラ。だから家族から、ポニョはアルツではなく、アル3ハイマーやと言われているんや。それでその時に面白いと思った話が、サイババさんがダサラ祭だったか、何のフェスティバルか忘れたけれど、お神輿に乗って村じゅうを練り歩かれている時に、「すぐにマンディールに引き返しなさい」と指示を出されたんや。それで慌ててマンディールに帰ると、二三十人ほどの泥棒が、アシュラムの中に置いたままになっている帰依者たちの荷物を盗みに来てたんや。何人かは捕まったけれど、多くは逃げられたんや。それで彼らは、「俺たちは泥棒を稼業としてやっているわけではありません。今日たまたま、こそ泥をしようと思ってやって来ました」と言って、言い訳をしたら、サイババさんは彼らを祝福されて逃がされたんや。それって変じゃろう。どうして罰せられなかったんやろか。

ヨシオ:なんでやねん。それじゃ泥棒を逆さ吊りにして、村じゅうを引き回せばええんか?カスツーリさんがチットラヴァティ川の土手の上を、サイババさんと一緒に散歩してたら、なんと泥棒たちが盗品の分配をしているところに出くわしたんや。サイババさんは、彼らに対して何の咎めもせず、彼らを祝福して何もなかったようにそのまま歩いて行かれた、というエピソードを紹介されていたやろ。
俺たちは、サイババさんを見る時に、肉体をまとったサイババさんを見てしまいがちやけれど、サイババさんは、この俺たちが住んでいる広大な宇宙も含めて、三界の世界を創造された大元の神さんなんや。もちろんカルマの法則も作られたから、別にサイババさん御自身が「こら!コソ泥。お前らそこで何をしとるんじゃ。天誅じゃ!」と言って罰せなくても、カルマの法則が働いて、彼らは遅かれ早かれ罰せられるんや。実はサイババさんの目で俺たち人間を見ると、アートマしか見えないんや。つまりサイババさんは、ご自分で自分自身を見られているから、全てを祝福されるんや。

ポニョ:御自身で自分自身を見られているから、全てを祝福されるって、それじゃ全ての人が同じように見えるって事なんか?まるで個性が無く、のっぺらぼうの顔を持っている妖怪のように。

ヨシオ:のっぺらぼうの顔って、なんで、そこまで話が極端になるんや。この前も言ったけれど、人って綺麗な絵が描かれたランタンなんや。中にロウソクが入っていて、そのロウソクが真の自分なんや。でも他の人がそのランタンを見ると、ランタンに描かれた絵が、中のロウソクの光によって映し出されているのが見えるだけなんや。でも神さんはその映し出された絵は、単なる絵で、ランタンの中にあるロウソクが、それを映し出しているという事を知っておられるんや。

ポニョ:それじゃ、その絵っていうのが、それぞれの人の個性っていう事になるぜよ。

ヨシオ:その絵は、一人ひとりが持っているエゴであり、欲望であり、プライドなんや。そういうエゴなどによって、中のロウソクの光を遮り、それが人の個性と呼んでいるものなんや。欲望やエゴは、人によってどれくらい持っているか違うやろ。その違いに応じて、中のロウソクの光が、どれくらいランタンの外に出て来るかが違って来るんや。そして、人が霊性修行によって、もしそういったエゴや欲望、プライドといったものを払拭する事が出来たら、ランタンに描かれた絵もどんどん薄くなって消えて行き、遂には中のロウソクの光しか見えなくなるんや。

ポニョ:それが解脱であり、モークシャなんやな。でもそんな絵が描かれていないランタンなんて誰も買わないぜよ。

ヨシオ:そうなんや。ランタンに描かれている絵、つまりエゴや欲望がどんどん無くなって行くと、その人の個性もどんどん失われて、その人がしている事も、まるで水の上に書かれた字のようにすぐに跡形も無く消えてしまうんや。そういう人って、この世俗的なものには一切興味が無いので、話していてものれんに腕押しの様な感じで、面白味が無く、何事にも影響されず、落ち着いていて、心は光の元であるロウソクである神さんの方にしか向いていないんや。でも突然、その人の中にある神を思う気持ちが昂じて来ると、その人は、神さんの名前だけを叫び続け、まるで狂人の様に振る舞うんや。

ポニョ:「おお〜ロウソクよ!偉大なロウソクの光よ!」と言うんやな。

ヨシオ:そんな事は言わないっちゅうに。ロウソクはたとえ話や。だからサイババさんは人を見る時に、良い性格つまり神の光だけを見て、悪いところを見ないようにと仰っているんや。
さっきの泥棒の話に戻るけれど、サイババさんの目から見たら、泥棒ってランタンに描かれたただの絵で、サイババさんは、その泥棒の中のロウソクしか見ておられないんや。

ポニョ:なるヘソ。ようやく納得出来たぜよ。ところであんたの倉庫に押し入っている泥棒さんたちはどうなりました?

ヨシオ:また、違うグループの泥棒に入られたな。今度は手押し式水汲みポンプ幾つか盗まれたけれど、まだ沢山あるから全然大丈夫や。でも、壊されたフェンスや窓やらの修理が大変なんや。今日は一日中その仕事にかかりっきりになるやろな。

ポニョ:でもサイババさんに全てを捧げたのに、そういう事になるって納得出来ないよな。

ヨシオ:もちろん行為や物を神さんに捧げる気持ちって、その様に思わないと誰かにしてあげたと思う心が出て来るから、良い事やし、全てを神さんに捧げるという態度は大切なんや。
でもそういう考え方は、ある一面とても危険なんや。というのも神さんは、俺たちが捧げたつもりであるこの世にある物は、一切何も必要としておられないんや。

ポニョ:だって全ては元々神さんの物やからと言いたいんやろ。

ヨシオ:人は神さんに捧げるという行為をする事によって、今さっきポニョが言ったように、神さんに捧げたから、神さんが面倒みるべきやとか、これだけのものを神さんに捧げたから、何か神さんから見返りのものを期待したりするやろ。それって帰依の心から離れて行く行為なんや。

ポニョ:ラーマクリシュナさんが、僧侶として働いておられた寺院に、立派なクリシュナの像があって、ある金持ちが、その像に宝石が必要だと思い、高価な宝石を買って来て像を飾り立てたんや。しばらくするとその寺院に泥棒に入って、その像を飾り立てた全ての宝石が盗まれたんや。その金持ちは、そのクリシュナの像に向かって「あんたは、自分の宝石でさえも泥棒から守れないんか。情けない神さんや。そんな事でどうやって何万人もいるあなたの帰依者を守れるんや」と息巻いて怒ったんや。するとそれを聞いていたラーマクリシュナさんが「お前はアホか。お前が像を飾り立てた宝石は、元々クリシュナの物や。お前の物じゃない。そのクリシュナが自分の宝石を誰にやろうが、お前の知った事じゃないやろ」と反論したんや。

ヨシオ:俺たちは往々にして、サイババさんを、俺たちと一緒のレベルで見てしまうけれど、本当は全てをコントロールし、全てを為されているんや。全てという意味は、全てなんや。だから、誰か金持ちが、自分の会社が儲けて利益が出たから、恵みの水プロジェクトやホスピタルにお金を寄付しようと思うとするやろ。でもその会社を儲けさせたのも、金持ちをそういう気持ちにさせたのも、全て神さんが後ろで糸を引いておられるんや。
この世の中で、自分のものって何も無いんや。そういう事に気づいた帰依者の取る正しい態度は、「自分の身体を神聖な神の道具として使って下さい。」とお願いする事なんや。決して自分が、神さんに自分のお金や物を寄付したとか、自分の時間やエネルギーを捧げたとか思わない事や。そうすると別の意味でのエゴが出て来るんや。

ポニョ:結局、全ては彼で、その彼が全ての事をされているんやな。なのに人は、エゴを持っているから、自分がやっていると思い込んでいるんや。無知の知ってそういう事を言うんやろ。自分が今まで無知だってことに気づいた人の言葉やぜよ。さて、おいらの描かれているランタンの絵は、どんな絵かな?薄く消えかかっている絵やったら良いのにな。

ヨシオ:ポニョが描かれているランタンの絵は、ポニョが大きな口を開けてオクラの天婦羅を美味しそうに食べている絵やろな。

人間は自分自身の力など一切持ち合わせていません。
人間を動かしているのは神の力です。
しかし、無知ゆえに、人間は行為をしているのは自分だという意識に押し流されて、エゴを育てています。これは私たちが現代の世界で目撃していることです。
このような状況の下で真理と非真理を区別するのは不可能です。
それよりも、すべてのものを善と見なすほうがよいのです。
神があらゆるものに遍満しているなら、悪いものなどあり得ますか?15/3/04