眉山のふもと

徳島のくらし

アルタンオチル回顧録(19)

2014-05-23 21:50:53 | 翻訳
<国民党に投降する①>


 
1947年春、モンゴル国は私にザミンウデに行くように要求した。私はバトオチルとナムダグと一緒に行った。今回は、ウランバートル市から内務省副大臣ドルドク大将とロブサンワンダンと顧問が来て、面会した。この会見でモンゴル国からオドンチュ(羊毛の織物)や綿サージなどを羊や牛と交換することに決定した。

ドルドクとロブサンワンダンは私に一通の手紙を渡した。
「これは徳王の息子のドガルスレンが父徳王に宛てて書いた手紙だ。中には家族の写真がある。これはあなた自身が北京に行って徳王に渡すのが一番いい。八路軍の管轄地でことが起これば我々が責任を取る。これが私用ではなく政治的な要件だということはわかっているだろう。徳王と会って何を話せとは言わない。あなたは我が国の状況や、徳王の家族が我が国にどんな状況でいるか知っている。あなたは我が国が信頼する工作員だ」
このように言われて、私は帰って来た。


この時に徳王と共にあったドルジチェリンとダンバチェリンがトムルテイに行き来しているという情報があった。徳王も間もなく旗に戻って来ると言う噂が広がっていた。
こうしているうちにデルウェン・ゲンデンが寝返って、40名ほどの兵士を率いてトムルテイに入った。西の境界の警備ジャンギだったパグバが反逆し、同じくトムルテイに入った。旗西部の人々は不安になり始めた。旗政府もウンドゥル寺から東北の砂地にあるダライチョルジーン寺に移転した。
間もなく傅作義のトラック隊が、ウリジーオチルが補給所にしていたホログ寺を攻撃した。私は夜、ダライチョルジーン寺からチャガーンオスに行って、妻の兄のアルタンと弟のドルジリンチンの馬群の中から乗ることができる馬を全て集めた。そしてその馬をウルジーオチル軍の6,70人に乗らせて、彼らを砂地に入れた。

 ちょうどこの時、ウリジーオチル軍の一人が東スニット旗のチャガーンオボー村に向かって連絡を取りに行っていた。その連絡員を我が旗にいたノヤン・ゲゲーンが捕らえて殺した。そのことをウリジーオチル軍が偵察して知り私に言った。バトオチルはウリジーオチル軍の人々と共に行きノヤン・ゲゲーンおよび殺人事件と直接かかわった3人のラマを捕えて連行した。そしてその4人を銃殺した。裁判は全てをウリジーオチル軍の長官が行った。   
ウリジーオチル軍は我が旗のラクダを集めて、チャガーンオボグ寺を経由しモンゴル国から武器弾薬を運んできていた。
そのうち7月になりウリジーオチルの大軍はどこへ行ったかわからず、音信がなくなった。


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