あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

四国遍路道ある記(続)・高野山町石道その1

2006-12-29 19:07:24 | 初めての四国遍路
 一昨日とはうって変わり、真冬並みの寒さとなり、首都圏も1日
冷たい風が吹き荒れました。

 今年もあと2日余り、気温の変化が激しいので、お互い、風邪
などに注意しましょう。

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 ==高野山へ四国遍路のお礼参り==

 2004年11月29日、四国遍路を88番大窪寺に結願、12月
1日、1番霊山寺に戻り、四国一周の輪を結んだのだが、高野
山へのお礼参りはせずに帰宅した。

 そこで、「四国遍路道ある記(後編)」もまとまった2005年3月
末、あらためて高野山詣でをすることにした。

 この時期にしたのは、JRの「青春18きっぷ」が利用できるか
ら。新幹線ひかりで行くと東京~大阪間17,500円(ジパング
でも9,610)になるが、青春18きっぷなら2,300円で済む。

 2005年3月27日(日) 晴
 =青春18きっぷで大阪へ=
 
 6時40分に自宅を出る。連絡も良く、予定より早いJR東京駅
8時3分発熱海行きに乗れた。

 小田原駅近くで、箱根連山の上に真っ白な富士山の頭だけが
見えた。富士駅~富士川駅付近からは富士山の展望がよいはず
だが、うつらうつらしてしまい見逃した。

 静岡、大垣と普通電車を乗り継ぐ。沿線のナノハナや桃、梅など
が春の色を見せている。

 米原からは新快速電車。柏原駅付近から伊吹山が見えてきた
が、近くの山を含めまだかなりの雪が残っていた。17時14分、
大阪駅に着く。

 今日の宿は難波駅の近く。市営地下鉄で行けば早いのだが、
JRでも行けると分かったので、大阪環状線で今宮まで行き、大和
路線に乗り換えJR難波下車、18時ころ東横イン大阪なんばに
入った。

 明朝、まごつかないようにと思い、何十年ぶりかの南海難波駅
を確認に行き、ホテル近くの大衆食堂で夕食をして戻る。

 2005年3月28日(月) 曇後雨
 =町石道を上がって高野山上へ=


 
 6時起床、外を見ると雨。6時55分、サービスのおにぎりとみそ
汁の朝食を済ませ、7時35分ころ傘を差して宿を出る。

 天気予報では、降雨確率午前90%、午後40%くらいなので、
少なくとも午前中は雨を覚悟する。

 南海難波駅で、今日案内して下さる大和郡山市の、竜馬16さん
と落ち合う。竜馬さんには後半の遍路で、私の携帯メールでの報告
を、ご自分のHPの一隅に「□□さんの四国八十八か所 巡拝メー
ルDe日記」としてアップしていただいた。

 お会いするのは初めて。前々日、前日には和歌山県の果無山脈
への山行もされており、お疲れのところお出でいただき恐縮する。

 難波駅7時51分発橋本行きにて終点で乗換、9時1分に九度山
(くどやま)駅下車。車中から雲が明るくなっていたが、下りたら
幸運にも雨は止んでいた。


 駅を出て、丹生川の真田橋(標高82m)と永代橋を渡り九度山
集落へ。右手に「九和楽 柿の葉すし」の看板が出ていた。
竜馬さんは階段を上がって上の店でその柿の葉すしを求める。
ここの名物のようだ。

 すぐ先にあった真田庵にお参りする。正しくは善名称院といい、
戦国時代最後の武将、真田昌幸・幸村父子隠棲の屋敷跡だと
いう。山門には六文銭の紋が記され、境内には本堂や開山堂、
宝物資料館、天保8年(1837)銘の千度石などがあった。


 次の丹生橋からは、川向こうの高野口町の家並みの背後に広
がる山すそから、雲が上がるのが見える。


 橋を渡ると、りっぱな瓦屋根の家並みが続く入郷の里。梅、スイ
セン、レンギョウ、アセビなどが咲く道を進むと慈尊院がある。

 弘仁7年(816)、弘法大師が高野山開創に際し、表玄関として
開創、承和元年(834)大師の御母が我が子を訪ね来て翌年没し、
母公廟が造られて以来、女人結縁の寺として「女人高野」と称され
ているとのこと。

 最初の建物、弥勒堂には、安産や子授け、育児を祈願した布製
の乳型がいくつも奉納されている。

 境内の新しい弘法大師像の横には、本にもなっている高野山の
案内犬「ゴンの碑」がある。

 多宝塔横の紅梅が鮮やかな花を見せていた。


 多宝塔横の石段を上がって、丹生官省符神社にもお参りする。
弘法大師が慈尊院を開くとき、その鎮守として建立したところと
いう。


 石段の横に180町の町石(ちょういし)が立ち、ここから大門に
向かう約20㎞の高野山町石道が始まる。

 町石道は、高野山を開山のおり弘法大師空海が、木製の卒塔
婆を建てて道しるべとした道。鎌倉時代に、朽ちた木製の代わり
に20年の歳月をかけ、石造五輪塔形の町石が1町(109m)ごと
に建てられ、それが今も残っている。

 土の上り道が続き、西側の斜面は低く枝を広げた柿畑が、見上
げる山上まで広がっている。

 九度山は柿の町で、明治43年(1910)に始まった1本が大正
初期から増え続け、いまや九度山の柿は京阪神を中心に関東に
も出荷されているという。ため池のそばに、「柿の町 九度山町」
の大きな表示があった。

 179町石の先で県道を横切る。ナノハナやヒメオドリコソウが
雨上がりにしっとりとした色合い。向こうの斜面でキジが鳴いた。
高圧線下を過ぎ、170町石付近まで上がると、紀ノ川や高野口、
北方の山々などの展望がよい。


 さらに柿畑の間を166町石の先まで上がると展望台の東屋が
あり、北方の展望が広がる。周辺の柿の木には、関東ではあま
り見ない赤肌の木もある。161町石辺りで簡易歩道が終わった。

 158町石付近でいったん杉林に入り、抜けた先からは、紀ノ川
沿いの南方の展望が開けてきた。

 さらにひとしきり上って、154町石先で雨引山分岐を過ぎる。
稜線上となり、杉落ち葉がたっぷりの道は歩きやすい。


 気持ちよい尾根道はやがて平坦になり、144町石と並ぶ一里
石を通過し、さらに杉林を上がって136町石のある六本杉の
三差路へ。右に、天野の丹生都比売神社への道を分け、左手の
林に入る。真っ直ぐに伸びた杉木立の間を上がると古峠である。

 左手に、急な下り道という上古沢駅への道を分け、すぐ近くの
120町石のある2つ鳥居に着いた。石の鳥居が2つ並んでいる。

 弘法大師が建立した木製の鳥居を、慶安2年(1649)に今の
鳥居に変えたと記され、高さ約5.6m、広さ約4.7mの花崗岩
製。丹生大神を祭る丹生都比売神社の鳥居とか。国の史跡で
ある。

 そばにある展望台の東屋で昼食とする。竜馬さんから、おいし
い柿の葉すしのおすそわけをごちそうになる。午前は雨を覚悟
したのに降られず、これもお大師様のご加護かと感謝する。


 展望台からは眼下に、周囲を低い山に囲まれた天野の里が
見下ろせる。静かなたたずまいで、いつかは歩いてみたい。〈続く〉

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