週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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七仏通誡偈文 (中篇)

2011-01-15 00:01:21 | 法話のようなもの

   (1月のお経の会の法話より・前編の続き)



さて、この七仏通誡偈ですが、こんな逸話が残されています。

その昔、中国の唐の時代に、白居易という詩人がいました。
この白居易、またの名を白楽天と申します。
この白楽天が、40歳ごろのこと、母と娘を亡くしてことで、儒教では解決できない死への問題に直面し、仏教に関心を持ち始めます。
そして、50歳ごろ、政治的に失脚・左遷を経て、さらに仏教に傾倒します。

そんなあるとき、白楽天は高い木の上で座禅を組んでいる鳥彙道林(ちょうかどうりん)という禅僧に出会います。
木の上で座禅を組むという修行は、バランスを崩せば落ちてしまうし、寝てしまっても落ちてしまうという、自らの心身を極限までコントロールするという苦行の一つでした。

そんな行を修める姿を見て感銘を受けた白楽天は、この禅僧に、「仏教の大意を一言でいうと何なのか」と問いかけます。
すると禅僧は、「諸悪莫作 衆善奉行」と、七仏通誡偈の前半2文を読んで答えました。

それを聞いた白楽天は、「そんなこと、3歳の子供でも知ってますよ」と返します。
しかし禅僧は、「3歳の子供が知っているようなことでも、80歳の老人ですら実行するのは難しいんだ」と答えたというお話。


さて、いかがでしょう。

「悪いことはしちゃダメよ」
「良いことはすすんでやりましょう」

小さい頃から親や先生に言われ続け、生きる上での道徳のようなものとして、当たり前の考え方の中に組み込まれていることではないでしょうか?

そう、これは誰もが言われなくても、「わかっていること」。
けれど、これまでの自分の行いを顧みると、どうやら「分かっている」ということは「できること」とイコールではないということでもあるようです。
そして、やろうと頑張ってみても、最終的にはできないことでもあるでしょう。

何が善か?
何が悪か?

その定義は恐ろしいほど曖昧です。
あるときは良いことであっても、あるときは悪いことにもなる。
良かれと思ってしたことでも、大きなお世話だと気分を害されることもある。

なぜなら、善と悪を決めているのは、一人一人の持つ心の物差しだから。
気分によって伸び縮みする、都合の良い物差しが決めること。
私の善が、相手にとっての善であるとは限らない。

だから、良いことをしよう、悪いことはしてはならないと分かっていても、実際にやろうと頑張ってみても、なかなか上手くはいきません。

それに、思い込みであろうとも、「自分は悪いことはしていない」と踏ん反り返っていう人もいるかもしれません。
良いことをすればしたで、そのことをアピールしたくなる心が生まれてきます。

それは綺麗な心とは程遠い。
そして、なによりたちが悪いのは、「やればできる」「自分の心も努力次第でなんとかなる」と無意識に思い込んでいることではないでしょうか。


                        (後編へ続く)