

私は65歳。もう初老の気配濃くなる歳でありますが、その私が自分の半生を振り返ってみて、どうしても告白したくなることがございます。それをこれから少しずつお話したいと思います。言ってみれば、私の男性遍歴というものでありますが、自分でも思うのですが、数奇な運命であったような気がいたします。
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私の生まれた家庭は裕福でした。父は一流企業の社長、母は昔からの名望家の娘でした。母は乗馬やテニス、華道や日舞を習う、いわゆるお嬢さん育ちでした。そんな両親のもとで、なに不自由なく育った私でございました。
私の初恋は、相手が一方的に私を愛してくれた、という片恋から始まりました。中学校の頃です、相手は大学生で、いつ私を見染めたのか定かではありませんが、そんなことがありました。
遠い記憶に、学習塾にそんな方がいて、その方は英語が担当でした。語学の感度がよかった私は上達も早く、それで目をつけられたのでしょうか。「君は可愛いだけでなく、語学の才能もあるね」と褒められた記憶があります。
どうしてその方が私を一方的とはいえ好きだったということが知れたのかというと、今から二十年ほど前ことです。その方の弟という方が、探し歩いた末に、訪ねて来たのでした。どうして私の住まいが知れたのか不思議といえば不思議なことですが。
その弟さんの話によると、兄は長い間、私のことを思い続けていて、今は死の床にあるのですが、今生の別れで、ぜひ逢いたいと懇願している、というのです。
そんな事情を聞けば、放っておくわけにはまいりません。私はその弟さんに連れられてその方の家を訪ねました。
ベッドに伏せるその方と、奥様が席を外しているつかの間、昔の話を懐かしく語り合いました。私が幸せでいるかどうか、ずっと気にかけてくれていたそうです。それを聞いて、これほどに私のことを思ってくださっていたのかと改めて知って、私は思わず涙しました。今は昔の、嘘のような思い出話です。
中学、高校と地元の私立校に通ったあと、私は、その関連のキリスト系の坊ちゃん、お嬢ちゃんの多い大学に入りました。楽しい大学生活が始まったばかりの夏休みの時でした。他の学部の一人の男子学生とテニスサークルで知り合いました。
サークル活動の中で、私たちは、最初は何ということもない間柄でしたが、あるきっかけで急速に親しい関係になったのです。
あれは夏休み合宿の時でした。房総にある大学の寮で一週間、テニスの練習に励んだのです。合宿でありますので、自炊する必要があり、当番制で自炊をすることになったのでした。その時、初めて彼と口を聞いたのです。
私は特別の感情はなかったのですが、彼の方が一目惚れしたようでした。ですから、夢中になったのは彼の方だったのです。私はそんなことも知らずに、合宿を終え、二学期の秋になりました。
残暑が去り、虫の音が聞かれるようになった10月のことです。彼から手紙を受け取りました。そこには切々と私に対する恋心が書きつけてありました。私は手紙を読んで思わず顔を赤らめました。思ってもみなかったことが私たちの間に起きていたのです。しかも、一方的に。
テニスクラブの活動は日曜に定めて行われていました。私はあまり熱心な部員でありませんでしたので、ときおり気分が向いた時に参加するという程度で、コートで彼に逢うことは滅多になく、逢ってもお互い素知らぬ風を装いました。
その後、日を置かず、彼から手紙が届くようになりました。が、私はしばらく返事を出すことに躊躇していました。そのうち、私とぜひともデートしたいという申し出がありました。青春期特有の激情に駆られた行動であったかと思われます。
私たちは新宿御苑でデートすることになりました。
すでに園内の木々は紅葉をはじめていました。デートにふさわしい風もない秋晴れの日でした。その時、どんな話をしながら時を過ごしたのか、今振り返って見ても少しも思い出せません。初めてのデートで、お互い気分が高揚していたのかも知れません。
デートを重ねるうちに、私も次第に情にほだされてきて、気持ちが彼に傾くようになりました。そのうち恐れていたことが起こりました。彼が私の躰を求めるようになったのです。それは当然のなりゆきだったように思えます。
私は好きな男に操を捧げることを厭うものではありません。あれは何回目かのデートの時だったでしょうか。彼は私を箱根に行こうと誘いました。大学の授業がたまたま休講になったある日、私たちは小田急のロマンスカーに乗って箱根に出かけました。
初冬の箱根はすでにあたりが枯れきっていて、いかにも寂しげな風景が広がっていました。寒気が躰をさすなか、ふたりは道行のように、しっかりと手をつなぎあい、寒さにもめげず、箱根の旧街道を歩き、芦ノ湖の湖畔を散策しました。
私たちは心ここに在らずといった心境で、さまよい歩きました。
ふたりは何かつかぬことを話しながら、人目のつかない静かな場所、静かな場所を選びながら。そして、気がつけば、仙石原特有のすすき原を歩いていました。
彼は不意に、私の肩を抱き寄せ、唇を吸いに来ました。予期していたことでしたが、私は身をすくめ、同時に恍惚に怪しく躍ったのです。
それから私たちは高原に立つ瀟洒な温泉宿に泊まりました。予約した部屋は離れで、夜になると、物音ひとつない深い闇に包まれました。
彼は、温かく柔らかな股を私の冷えた脚にさしはさむようにして、私たちは結ばれたのでした。
妊娠に気づいたのは、箱根から帰って、一ヶ月ほどたった頃でした。いつもの生理がなかったのです。もしやと思って産婦人科を訪ねると、そこの女医さんから「あなたのお腹に新しい命が宿ったのですよ」と妊娠を告げられたのです。
予期しない結果に私は愕然としました。しばらく呆然として、お腹の子供をどうするか考え倦んでいました。次第にお腹が膨らんでくるし、私は苦し紛れに母親にそのことを告白したのでした。
その時の母の驚きと怒りを今でも忘れはいたしません。母は怒りが収まらず、そのうち泣き出しました。学生の身分で妊娠などということは世間に恥ずかしくて言えるものですか、と詰るのです。当然のことながら、そのことは父の耳にも入りました。父も同じように怒り、頰を張ったあと、頭を冷やせと、私を風呂場に引っ立てて、頭から冷水を浴びせました。
親の反対が強ければ強いほど私は意固地になりました。お腹の赤ちゃんはきっと産むと言い張りました。それからというもの、親に突き放された状態が続きました。やがて私は臨月を迎え、無事に女の子を出産しました。
学生でありながら子供を育てるということは至難の技でした。有難いことに、両親は私を見かねて、卒業するまでは面倒を見ると手を差し伸べてくれたのです。
それから三年が過ぎました。彼と私は何とか卒業することができました。彼は幸いにも一流の商社に就職でき、アパートを借りて、そこで二人の新生活が始まりました。それはそれは甘い新婚生活でした。小さな子供がいるとはいえ、新婚は新婚です。三人でよく郊外の遊園地や公園に出かけ子供を遊ばせました。懐かしい思い出です。