愛のカタチさまざま

出会いから恋がはじまり、お互いに愛しあい、
結婚へ。そんなさまざまな歓びと哀しみの
百態を考察、描写するブログ

まぼろしの彼の人を訪ねて

2024-12-12 10:00:31 | エッセイ
その雅な響きに惹かれて、宗男は、越中の小京都と呼ばれる城端(じょうはな)を訪ねた。城端を選んだ理由はもうひとつあって、風の頼りに聞いた、そこに住むであろうと思われる、ひとりの女性の足跡を探し求めるためもあった。
あてのない人探しではあったが、町筋を歩くほどに、もしかしたら逢えるかも知れない、という淡い期待があった。

あいの風鉄道、高岡駅から城端線に揺られること50分ほどで終点の城端駅に着く。
 駅から街中へは10分ほど歩くことになるが、街の北側を流れる山田川を渡り、御坊坂をのぼりつめたあたりから、町並がひらけてくる。地元の観光パンフレッドがこの街を「情華舞歩」として紹介しているのにふさわし佇まいである。
右手に、いかにも荘厳なたたずまいの寺域が現れた。善徳寺と記された看板が見える。道を回り込んでから、さっそく山門から境内に足を踏み入れてみた。
まず、目をひくのは、二層建ての山門(大門)である。浄土真宗の寺院によく見られる豪壮なつくりで、二重門になっている。今から200年も前に建造された大門といわれ、城端のシンボル的存在になっている。
この門については、つぎのような逸話が残っている。
 明治期にこの街に大火があった。その際に、町衆が我が身も顧みず、この大門の防火につとめ、火災から守ったという。それほどに住民から慕われていた寺であった。
大門をくぐると正面に本堂がそびえ立つ。入母屋造り、桟瓦葺きの大屋根が圧倒的である。本堂に連なって対面所、大納言の間などの豪壮な建物が立ち並ぶ伽藍が、まるで城塞を思わせる。
この善徳寺、正式な名称は、廓龍山城端別院善徳寺といい、蓮如上人が開基したものだという。この地が浄土真宗の一大根拠地であり、一向一揆の拠点であったことをあらためて知る。
次に訪れたのは、城端町史館蔵回廊だった。そこには見事な土蔵造りの建物群が残っていた。この土蔵群は、地元の銀行家の自宅であったもので、今は展示施設として改修され一般公開されている。
 建物の裏側にあたる路地裏をそぞろ歩いてみた。土蔵群の外観が実に風情があって心地よい。こんなところに彼の人がが現れ出そうな気がした。
地図を眺めてみると分かるが、この地は、山田川と池川というふたつの川に挟まれた舌状段丘に展ける町であることが知れる。そこには、かつて城ケ鼻城という城があったという。さらに時代が下って、その城の跡地に善徳寺ができ、町は寺内町として発展する。
寺内町というのは、敵の侵入を防ぐべく、防衛体制を整えた集落のことで、寺域の周囲に堀をめぐらせ、土塁をつくった。要害の地である城跡につくられたのも故なきことではなかったのである。
この町にはまた、春と秋に行われる祭りがある。春は、5月14、15日の曳山祭。この祭りは城端神明宮の祭礼として行われる祭りである。情緒あふれる男衆の、「空ほの暗き東雲に 木の間隠れの時鳥」と唄う、庵唄が流れる庵屋台の祭囃子に導かれて、華麗な曳山の行列が進む。春の到来を告げる祭にふさわしい祭りである。この曳山祭の様子は曳山会館という常設の施設で見物できる
そして、秋のむぎや祭。これは毎年9月の14、15日の両日に行われるもので、哀愁を帯びた旋律にのったむぎや節と紋付袴に白襷の勇壮なむぎや踊りが披露される。
宗男はそれら祭りの情景を想像してみた。そして、そんな賑わいのなか着物姿の彼女の姿を思い描いてみるのだった。
やはりあの人はこの街にいるような気がした。街のどこかにひっそり生きているに違いない、と思った。
それからもう一日滞在して、宗男は狭い街中を歩きまわってみた。二、三の人に彼の人の消息を聞き出そうとしたが、誰も知る者はいなかった。
が、宗男はこの街に彼の人がいるに違いないと、強く確信するのだった。
 



取り戻せない過去

2024-12-11 10:35:57 | エッセイ
絹枝は主婦である。好き合って結婚したはずの夫なのに、今は少し冷えきった関係になってしまっている。
そんなある日、絹枝は結婚前に付き合っていた龍一郎に、駅前のバス停で出会った。
偶然とはいえ、予期せぬ出来事だった。何か待っていたことが現実に起きたような思いがした。
立ち話というわけにもいかないので、絹枝は龍一郎を促して、近くの喫茶店に入った。
席につくとすぐに、堰を切るようにお互いの近況を話はじめた。違った世界に生きてきた二人の三年という月日がひどく長いように思えた。
二人は時間を忘れて語り合った。あっという間に時が過ぎていった。話が進むにつれて、しだいに以前の二人の関係を取りもどしていた。このまま別れるのが惜しい気がした。
でもこのままずっとというわけにはいかなかった。
龍一郎と別れたあと、絹枝は、本当の気持ちを訴えようとしたが、それができなかったことを後悔した。と同時に、今の気持ちを吐き出せば一気に何かが崩れてゆくような気がしたのである。
数日してから、実家に帰った折に、絹枝は母に、「あのね。この前に龍一郎さんに逢ったわ」と告げると、母は「あの人はまだ独身でいるらしいわよ」と告げた。
さらに母は、「あの人ねえ。いつもあなたのことを気遣ってくれていたわねえ」とふと言った。
母の言葉を耳にした絹枝の胸の中で、何かが小さく弾けるものがあった。
その年の暮のことである。人づてに龍一郎が、何かの犯罪に巻き込まれて、今は勾留中であることを聞いた。その罪はそう軽いものではなく、裁判にかかり判決が出るまでに相当の時間がかかるらしいことも聞いた。
ある日、絹枝は未婚のまま若くして死んだ叔母の墓参に出かけた。帰り道、龍一郎に出会った街に出て、とある花屋で撫子の鉢植えを買った。それを龍一郎の家に届けようとふと思い立ったからだ。
龍一郎の家の門はひっそりと閉じていた。ベルを鳴らすと、六十がらみの白髪混じりの女性が出て来た。龍一郎の母だった。
撫子の鉢を手渡すと、「いつかあなたが、こうしてこの家を訪ねて見えるのではないかと、心待ちにしていたのよ。どうぞお上がりください」と母が言った。靴を脱ぎかけようとすると、絹枝の目から不意に涙がとめどなく流れ落ちた。
その時、絹枝は取り返しのつかない回り道をしたことに気づいたのである。なぜ、早くそのことに気づかなかったのかと。



意外な顛末

2024-12-11 10:30:40 | エッセイ

「男と女の仲は、思うようにいかないものだ」とつくづく幸雄は思った。幸雄は初世という名の三つ年下の妻と郊外にある小さなアパートで所帯を持っていたが、ある日、家に戻ると、妻の姿が消えていた。
数日後、妻の親から、「私、家を出るから探さないで」という報せがあったことを聞く。自分の妻が突然、自分の知らない世界に消えていってしまった。
それは不可解な朧な世界だった。初世と過ごした幸せな日々が走馬灯のように頭をくるくる回っていた。それらがすべて終わった実感がどっと胸に流れこんできた。
後日、妻には男がいて、その男のところに走ったことがわかった。それは妻の友達から聞いた噂だった。
その男とはどんな男か、幸雄は突き止めたく思った。妻はその男に騙されて、こんなことになったのに違いないと確信した。
その男の正体をつかみたい、幸雄はそう思い、心当たりのある人や場所をあちこち探し回った。
するとひとりの男の姿が浮かび上がってきた。その男は、なんと家にしばしば出入りしていた親友の浪川智也だった。疑うとすべてが合点できた。
そういえば、智也が家に遊びに来た時など、妻が妙に明るくはしゃいでいたことが思い出された。ぎりぎりと歯を噛み締めながら、幸雄は夜の町を走った。気づかなかったが、お互いが目配せをしていたかも知れなかった。知らなかったのは自分だけだったのだ。幸雄は愚かな自分を恥じた。
後日、幸雄は、智也の住む、私鉄沿線沿にあるアパートに押しかけた。
そこには妻が一緒にいた。一瞬、驚いた様子をみせたが、すぐに幸雄を突き放すような目になった。幸雄は二人からすべてを聞き出したかった。
二人とのやりとりのなかで、妻が「私、ずっと前からこの人が好きだったのよ」と言った言葉が幸雄を打ちのめした。妻の口から直接、そんなことを聞くとは思わなかった。
「そういうことだったのか」と幸雄はあらためて事の真相に愕然とした。男と女って、いろいろなことがある、ということを今さらながら深く幸雄は知ることになった。
が、それを知った時にはすべてがもう遅すぎたのである。それを知った時にはすべてがもう遅すぎるのだ、と幸雄は悟るのであった。


別れることは何でもない。しかし、別れたことの記憶が蘇るたびに、別れの持つ意味が次第に大きくなる。
そして、ついに、人を愛するということは、別れるためであることを理解するのである。
 



ある勘の働き

2024-12-10 11:03:25 | エッセイ
ある男女の関わりを、近くで目にしてからというもの、わたしにはたくましい妄想がちらつきはじめたのである。
そのふたりの関係は、はたで見ていてもいかにも紳士淑女の関係と見えていた。
私と同じ絵画教室に属していたふたりは、教室ではふつうの振る舞いをするだけで、それ以外に特別の関係があるようには思えなかった。
それが時間がたつにつれて、ふたりの関係がただならぬ間柄になっているように私には思えた。
端から見ていても、ふたりがお互いを意識していることがうすうす分かった。
ファーストインプレッションというあれである。直感的にひらめいた、というやつである。
出来ている男女には独特の雰囲気が漂っていて、それとなく醸し出すものがある。それはもちろん目に見えないものだが、お互いのそれとなく交わす秘密の目遣いで、一目でピントくるものがある。
二人がさりげなくやりとりしている会話のなかにさえ、例えば、二人の目と目は燃えていて、声の質もちがっている。
それを少しでも注意深く観察できる人間、男女の仲を見破る勘を身につけていれば、すぐ二人の関係を見破ることができるというわけだ。
二人がわざとそらぞらしくすればするほど、かえってそれが意味あり気に見えてくるから不思議なのだ。
この状態をミステリー風に解釈すると、ふたりの関係にはある種の伏線が敷かれていて、それがちらちらと見え隠れしているのである。
そんな秘密裡にある関係が、ある時、外に現れることがある。関係が深まると、思わず周囲にそれとなくその関係をほのめかす態度をとるという。特に女性にそれが多いとされる。




あとの祭り

2024-12-09 14:37:33 | エッセイ
         
郊外のこぢんまりしたアパートの一部屋を借りて、和夫と明美は暮らしている。二人はいずれも三十代の共働き夫婦であるが、和夫は職場に長く居つかずに転職を繰り返していた。そんな和夫のことを明美は特にとがめもせずに見守っていた。妻が汗水垂らして働いているのに、夫は頼りにならない存在だった。
 そんな妻の明美にすまないという思いがあればまだしも、いつしかそんな男勝りの妻に鬱陶しさを感じ始め、ついには妻を嫌悪するようになった。
 仕事のない時には家にいて、遊び半分で出会い系サイトをのぞいたりして暇を潰していた。そんな時ひとりの若い女の子が目に止まった。
「最近出会い系を始めたばかりで、使い方が分からず困っていたところ、知人から、女性から男性に連絡した方が出会いにつながることが多いと聞きましたので、僭越ながら連絡させて頂きました」とメールには書かれてあった。
 さらに、「私は若い頃、それなりに遊んでいた方なので、あなたを愉しくさせる自信があります。お互いに日常を忘れられる、そんな時間を共有できたらいいなと思っています。もし、少しでもわたしに興味を持って頂けたようでしたら嬉しいです」と添えられてあった。
 和夫はすぐ夢中になった。やがて二人は会うことになった。
ある日の昼下がり、いそいそと和夫は家を出た。和夫の心に浮気心が燃え上がったのはいうまでもない。
 会って見ると、相手の女性は妻の明美とはまったく違ったタイプの女性で、それが和夫には新鮮だった。これから何かとてつもない可能性が花開くような気がしてわくわくした。そして、いつしか、もう妻を捨てて、この女とずっと一緒にいたいと思うようになっていった。
 ある日、和夫は思い切って妻に言い放った。「お前なんかともう一緒にいたくない」と啖呵を切り、「もう二度と会わないよ」と捨て台詞を吐いて家を出て行こうとした。
 その時である。明美が不意に言った。「あなたが家を出て行くことはないわ。ここはあなたの家なんだから、わたしが出て行くわ」と言って、妻の明美がさっさと家を出ていった。毅然とした別れの態度だった。
 後に残された和夫は、何か割り切れない気分にとらわれていた。自分がひとりぼっちになったのを感じた。部屋の中が急に寒々として来た。ふいに寂しさが押し寄せてきた。と同時に、自分が妻に何をしたかが明瞭に浮かび上がって来た。
 妻のいなくなったあとの虚しさは計り知れなかった。「えらいことになった」と和夫は思った。和夫はふいに立ち上がって、外に飛び出した。よたよたと夕暮れの街を、人波をかき分けながら、明美の後を追った。
月が皓々と照っていた。




ボタンの掛け違い

2024-12-09 14:26:52 | エッセイ
        
東京から郊外に走る電車のなかで希生は、次の駅で降りた女が晶子のような気がした。女は希生には気づかず、改札口に向かってホームを歩いていた。心持ちふくよかになった印象の晶子であったが懐かしかった。思わずあとを追って声をかけようかと思ったほどだった。
希生は晶子とはもともと仲が悪くなって訣れたわけではなかった。今になって振り返ると、訣れた原因もはっきりした理由があるとは思えなかった。
もう一年近くたっているが、希生がメールで晶子を誘ったのに、梨の礫であったこと。それに対して、希生はひどく気分を害して、そのまま放置したまま今日に至っている。
希生が晶子と交際をはじめたのは、コロナの蔓延がはじまる一年前のことだった。きっかけは、ある趣味の会でのことで、晶子が不慣れな希生に対して、いろいろと親切にアドバイスしてくれたことがきっかけで親しくなり、それから交際がはじまったのである。
希生は66歳、晶子は63歳だった。ふたりともバツイチの過去があり、寂しさを紛らわそうと趣味の水彩画のサークルに入っていたのである。
サークルが終わると、決まってふたりは一駅先の駅前のカフェに寄って、今日のサークルでの出来事や世間話に花を咲かせた。今や、希生は毎月のサークルが待ち遠しくて、晶子の顔を見るたびに胸をときめかせるようになっていた。
親密さが増すほどに、希生は晶子を郊外散策や町歩きに誘ったりした。こんな風にふたり手を繋いで、寄り添って歩くなどひさしぶりのことだと思った。晶子も少女のようにはしゃいで、よく笑った。
ふたりが大人の関係になったのは、それから間もなく、泊りがけの温泉旅行に出かけたときだった。
それからの日々が、いかに幸福であったことか。まだ、だれにも気づかれず、二人は互いの愛情を育てていけた。
が、その後、二人の間に少しずつ考えの行き違いがみえてきた。その時は少し気まずい雰囲気になったことがあったが、なんとなくやり過ごしていた。
大人の交際は、それぞれが引きずってきた人生が背景にあるので、そう容易には解け合わないということをあらためて希生は知った。
それからしばらくしてのことだった。希生は晶子をバラ園に誘った。
が、その返事が来なかった。相手がメールを読み落としているかも知れないと思ったが、あえて希生はメールを再送信しないでおいて、向こうからの返事を待つことにした。
そのうち、夏になって、毎日の暑さにげんなりする毎日を過ごしているうちに、希生の晶子に対する気持ちが少し薄らいでしまったような気がした。とはいえ、これで終わるのはいかにも大人らしくないように思えて、ある日、意を決して、希生は晶子に以下のような文面でメールを送った。
「あの時、あなたに言った、結婚を前提にしないおつきあいを自分は考えている、というわたしに、あなたは少し違和感をもっている様子でした。それがあって、あなたは今までの関係を見直そうと思ったのではないですか。わたしの、結婚を前提にしない、という考えは、単なる遊び友達でいたいというのではなく、あくまでその時、二人が楽しくあって、大切な思い出づくりができれば、それはそれでいい、と考えている、と言う意味だったのです。この考えがあなたにうまく伝わらなくて、こんな結果になったようです。」
希生がメールしてから数日たって晶子から返事がきた。
「いろいろ考えました。女は結婚ということが頭にあります。この歳になればなおのこと。やはりただ大人の交際というのでは先行き不安です。目標に結婚ということがあって初めて安心したお付き合いができるというものです。ですから私たちの関係は最初からボタンの掛け違いがあったような気がいたします。わたしたちの縁はこれで切れたのだと思いました。」
希生は晶子からのメールを受け取って暗澹たる気持ちになった。やはり男と女の間には深くて暗い淵があるのだ、と思った。
夏の夜はまだ暑気の去らないまま空気がよどんでいた。希生は夜の街をわけもなく歩いていた。人影もまばらになった街はどこかうら寂しかった。
晶子はきっと自分をいい加減な男だと思っているだろうな、と希生は思った。でも、きちんと言いたいことを言ったことに後悔はしなかった。
晶子のいうように元の鞘に収まることは無理かもしれないが、のぞみが全くなくなったようにも思えなかった。というのも、自分が結婚を前提にするとはっきり言えばよいことだと思った。覚悟がたりない自分がいけないのだ、とも思った。また、ときおりメールをしてみようと希生は思った。





私の半生

2024-12-08 13:32:13 | エッセイ

 私は65歳。もう初老の気配濃くなる歳でありますが、その私が自分の半生を振り返ってみて、どうしても告白したくなることがございます。それをこれから少しずつお話したいと思います。言ってみれば、私の男性遍歴というものでありますが、自分でも思うのですが、数奇な運命であったような気がいたします。

                           *

 私の生まれた家庭は裕福でした。父は一流企業の社長、母は昔からの名望家の娘でした。母は乗馬やテニス、華道や日舞を習う、いわゆるお嬢さん育ちでした。そんな両親のもとで、なに不自由なく育った私でございました。

 私の初恋は、相手が一方的に私を愛してくれた、という片恋から始まりました。中学校の頃です、相手は大学生で、いつ私を見染めたのか定かではありませんが、そんなことがありました。

 遠い記憶に、学習塾にそんな方がいて、その方は英語が担当でした。語学の感度がよかった私は上達も早く、それで目をつけられたのでしょうか。「君は可愛いだけでなく、語学の才能もあるね」と褒められた記憶があります。

 どうしてその方が私を一方的とはいえ好きだったということが知れたのかというと、今から二十年ほど前ことです。その方の弟という方が、探し歩いた末に、訪ねて来たのでした。どうして私の住まいが知れたのか不思議といえば不思議なことですが。

 その弟さんの話によると、兄は長い間、私のことを思い続けていて、今は死の床にあるのですが、今生の別れで、ぜひ逢いたいと懇願している、というのです。

 そんな事情を聞けば、放っておくわけにはまいりません。私はその弟さんに連れられてその方の家を訪ねました。

 ベッドに伏せるその方と、奥様が席を外しているつかの間、昔の話を懐かしく語り合いました。私が幸せでいるかどうか、ずっと気にかけてくれていたそうです。それを聞いて、これほどに私のことを思ってくださっていたのかと改めて知って、私は思わず涙しました。今は昔の、嘘のような思い出話です。

 中学、高校と地元の私立校に通ったあと、私は、その関連のキリスト系の坊ちゃん、お嬢ちゃんの多い大学に入りました。楽しい大学生活が始まったばかりの夏休みの時でした。他の学部の一人の男子学生とテニスサークルで知り合いました。

 サークル活動の中で、私たちは、最初は何ということもない間柄でしたが、あるきっかけで急速に親しい関係になったのです。

 あれは夏休み合宿の時でした。房総にある大学の寮で一週間、テニスの練習に励んだのです。合宿でありますので、自炊する必要があり、当番制で自炊をすることになったのでした。その時、初めて彼と口を聞いたのです。

 私は特別の感情はなかったのですが、彼の方が一目惚れしたようでした。ですから、夢中になったのは彼の方だったのです。私はそんなことも知らずに、合宿を終え、二学期の秋になりました。

 残暑が去り、虫の音が聞かれるようになった10月のことです。彼から手紙を受け取りました。そこには切々と私に対する恋心が書きつけてありました。私は手紙を読んで思わず顔を赤らめました。思ってもみなかったことが私たちの間に起きていたのです。しかも、一方的に。

 テニスクラブの活動は日曜に定めて行われていました。私はあまり熱心な部員でありませんでしたので、ときおり気分が向いた時に参加するという程度で、コートで彼に逢うことは滅多になく、逢ってもお互い素知らぬ風を装いました。

 その後、日を置かず、彼から手紙が届くようになりました。が、私はしばらく返事を出すことに躊躇していました。そのうち、私とぜひともデートしたいという申し出がありました。青春期特有の激情に駆られた行動であったかと思われます。

 私たちは新宿御苑でデートすることになりました。

すでに園内の木々は紅葉をはじめていました。デートにふさわしい風もない秋晴れの日でした。その時、どんな話をしながら時を過ごしたのか、今振り返って見ても少しも思い出せません。初めてのデートで、お互い気分が高揚していたのかも知れません。

 デートを重ねるうちに、私も次第に情にほだされてきて、気持ちが彼に傾くようになりました。そのうち恐れていたことが起こりました。彼が私の躰を求めるようになったのです。それは当然のなりゆきだったように思えます。

 私は好きな男に操を捧げることを厭うものではありません。あれは何回目かのデートの時だったでしょうか。彼は私を箱根に行こうと誘いました。大学の授業がたまたま休講になったある日、私たちは小田急のロマンスカーに乗って箱根に出かけました。

 初冬の箱根はすでにあたりが枯れきっていて、いかにも寂しげな風景が広がっていました。寒気が躰をさすなか、ふたりは道行のように、しっかりと手をつなぎあい、寒さにもめげず、箱根の旧街道を歩き、芦ノ湖の湖畔を散策しました。

私たちは心ここに在らずといった心境で、さまよい歩きました。

 ふたりは何かつかぬことを話しながら、人目のつかない静かな場所、静かな場所を選びながら。そして、気がつけば、仙石原特有のすすき原を歩いていました。

 彼は不意に、私の肩を抱き寄せ、唇を吸いに来ました。予期していたことでしたが、私は身をすくめ、同時に恍惚に怪しく躍ったのです。

 それから私たちは高原に立つ瀟洒な温泉宿に泊まりました。予約した部屋は離れで、夜になると、物音ひとつない深い闇に包まれました。

彼は、温かく柔らかな股を私の冷えた脚にさしはさむようにして、私たちは結ばれたのでした。

 妊娠に気づいたのは、箱根から帰って、一ヶ月ほどたった頃でした。いつもの生理がなかったのです。もしやと思って産婦人科を訪ねると、そこの女医さんから「あなたのお腹に新しい命が宿ったのですよ」と妊娠を告げられたのです。

 予期しない結果に私は愕然としました。しばらく呆然として、お腹の子供をどうするか考え倦んでいました。次第にお腹が膨らんでくるし、私は苦し紛れに母親にそのことを告白したのでした。

 その時の母の驚きと怒りを今でも忘れはいたしません。母は怒りが収まらず、そのうち泣き出しました。学生の身分で妊娠などということは世間に恥ずかしくて言えるものですか、と詰るのです。当然のことながら、そのことは父の耳にも入りました。父も同じように怒り、頰を張ったあと、頭を冷やせと、私を風呂場に引っ立てて、頭から冷水を浴びせました。

 親の反対が強ければ強いほど私は意固地になりました。お腹の赤ちゃんはきっと産むと言い張りました。それからというもの、親に突き放された状態が続きました。やがて私は臨月を迎え、無事に女の子を出産しました。

 学生でありながら子供を育てるということは至難の技でした。有難いことに、両親は私を見かねて、卒業するまでは面倒を見ると手を差し伸べてくれたのです。

 それから三年が過ぎました。彼と私は何とか卒業することができました。彼は幸いにも一流の商社に就職でき、アパートを借りて、そこで二人の新生活が始まりました。それはそれは甘い新婚生活でした。小さな子供がいるとはいえ、新婚は新婚です。三人でよく郊外の遊園地や公園に出かけ子供を遊ばせました。懐かしい思い出です。