時雨スタジオより

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なんとなく再開してみました。

ないないずくしのあの頃(前編)

2020-06-10 00:11:15 | 『別府と占領軍』より
『美しい暮らしの手帖・第一号』


 ──父は15歳のときに敗戦の日を迎えた。『暮らしの手帖』の前身である『美しい暮らしの手帖』が創刊されたのは、敗戦から3年後の昭和23年9月である。父は、同創刊号のあとがきの引用から「ないないずくしのあの頃」を始めている。

「はげしい風のふく日に、その風のふく方へ。一心に息をつめて歩いてゆくような、お互いに、生きてゆくのが命がけの明け暮れがつづいています。せめて、その日々にちいさな、かすかな灯をともすことができたら……」『美しい暮らしの手帖』第一号「あとがき」より
 同じ第一号に田宮虎彦の「地獄極楽」という文章がのっている。
「一口に衣食住というけれども、そのどれひとつをとってもいじらしいほどの窮乏である。ボロボロの下着、使う時のない米櫃、四六時中追いたてられている汚い借間、戦争前なら一家心中の条件はととのいすぎているのだが、人間の神経など図太くなれば大概のことにおどろかないようだ、とにかくインフレの荒波とても、あの空襲の夜々の思い出にくらべれば物の数ではない、風呂敷が六円になり、バス代が五円、十円になっても、銭が円になっただけじゃないかとうそぶいておれる、うそぶかないでは生きてゆけないからだ……」

 ──『美しい暮らしの手帖』が創刊された昭和23年は、極東国際軍事裁判所が、A級戦犯25人に有罪判決を下し、東条英機ら7人に絞首刑が執行された年でもある。改正刑事訴訟法、改正民事訴訟法、優生保護法、風俗営業取締法、人身保護法、医師法、医療法、国民の祝日に関する法律、改正国家公務員法はじめ、多くの法律が次々に公布され、戦前・戦中の日本を一気に精算しようとする力が大きく働いた年であった。一方、国民の生活は「どん底」からまだ抜け出せずにいた。

 九月二十七日、千石農相が全国の漁民にラジオで、魚を獲る資材が不足しているから、手づかみでも魚を獲って欲しい、と放送している。当時水産物の生産高は戦前に比べて四割減の五億五千万円という深刻な危機に直面していた。資材がないから手づかみで魚を獲れといったって、河童じゃあるまいし、そんなこと出来る訳はない。又十月十一日、時の別府市長、末松偕一郎氏は「ドングリ食料化と木の実の採集」を奨励する通達を出した。人間をリスと勘違いしていたのじゃなないかと思うばかりだが、当時は真剣な話だった。
 空地という空地は南瓜や甘藷畑となり、闇米を買いに大分群や大野郡の奥までも足をのばす人達がつづいた、
 警察も経済取締りとして半ば公然と行われていたこうした闇買いにお手上げの状態だったが、しかし、全然取り締まらなかったというのではなく「限られた取締陣容を以ては、これらの事犯の大小を問わず悉く検挙することは到底望めず」背に腹はかえられぬ国民の飢餓からのがれる最後の手段であったため、警察も、そこは人間、「諸般の事情を考慮しながら所謂一罰百戒主義で、細鱗を漁って巨鯨を逸することのない」合理的な取締りをやっていたようである。しかし、年々違反事件数はうなぎのぼりに上り、昭和二十四年には年間押収量、一、〇八八、二七四瓩に上ったと記録にある。
 家があっても、家の中は何もなかった。衣類や食糧はすべて配給切符をもっていかないと買えなかった。
 銀座街から松原公園にかけて出来た闇市に人が集まった。物のない時代だから、置けば何でもよく売れた。カストリ焼酎、バクダン、どぶろく、焼きトン、モツ焼き、ゴッタ煮、コッペパン、銀シャリ、干バナナ、ピーナツ、ふかしいも、かす汁、しじみ汁、軍服、軍靴、軍隊毛布、勲章、地下たび、古ぐつ、古着、金物、古時計、軍手etc。
 駅前には日雇い労務者がカストリ酒場で塩を肴に飲んでいたし、どんな鳥を使ったのかもしれないやき鳥屋もよく繁昌した。あそこの店は赤犬を殺して食わすなどというウワサはパッと広がり、客が寄りつかず店を閉めたところもあった。

 ──当時のカストリ焼酎は、酒粕を蒸留して作る今どきの物とは違い、米またはイモから急造した粗悪な密造酒であった。バクダンは製造方法がいろいろあったらしいが、カストリ焼酎に燃料用のメチルアルコールを混ぜた超粗悪品もあったという。ご存じのようにメチルアルコールを飲むと命に関わったり失明したりする。このメチル禍のピークが昭和23年で、失明者や絶命者が相次いだ。そして、どぶろくもまた密造酒だ。メチルアルコールどころかホルマリンを混ぜた物もあったという。そんな危険な酒とともに、種々雑多な物が溢れていたのが闇市だった。

 近代的に設計された今の商店よりも、こうした闇市の仮小屋や、海岸通りに出現した屋台飲み屋により人間くささを感じ、郷愁に似たもののを感じるのは私一人であろうか。それはやはり「はげしい風」に向かって「一心に息をつめて歩いて」いたあの時の「生きてゆくのが命がけの明け暮れ」を共感した者同志の連帯感であろう。

 ──闇市に関して、真継伸彦が面白い考察をしている。放送ライブラリー3『戦後史ノート』日本放送協会刊より、その一部を紹介する。
「全体として日本人は、ヤミ市の出現から、人生は金であるという哲学を学んだのではないかと思いますよ。インフォメーションで金の値打ちが日々下落していったとしても、金さえあればヤミ市で何でも買え、豊に暮らせるのです。反対に、金がなければ餓死するのです。国家や天皇のために自己犠牲を強いた戦時中の道徳が雲散霧消したあとに出現したヤミ市は日本人に、こういう金銭万能主義の哲学をもららしたとぼくは思う」


つづく
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