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アタテュルクの軍本部がシリアのアフリンで発見された

2018年07月03日 | 
7月4日 ムスタファ・ケマル・アタテュルクが、第1次大戦中、軍の本部として使っていた家が、シリア北部のアフリンの村で見つかったと、7月2日、アナドル通信が報じました。

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トルコ軍は1月20日、「オリーブの枝作戦」を開始し、YPG(人民防衛隊)を排除するためにアフリンに進出しました。トルコ政府はYPGをクルド労働者党(PKK)と結束しているテロリスト集団と見ています。3月18日、アフリンがトルコの支配下に入った後、トルコの支援を受けている新しい町の委員会は、ラジュ地方のハジ・ハリル村にある、アタテュルクの本部だった家を探しはじめました。

「見つかったこの家は、もとは土地の領主ハニファ・アーの家で、1890年に建てられたものでした。大戦中の1890年、オスマン軍はシリアでイギリス軍と戦っていました」と、新しい町の委員会の会長でクルド人のイブラヒム・ハリル・アリさんは、アナドル通信に語りました。

「アタテュルクがこの地に来たとき、地元のクルド人たちはオスマン軍に協力し、イギリスが管理していた鉄道を破壊したりしました。アタテュルクは作戦を立てるために、丘の頂きにあるこの家を使っていました」とアリさんは語り、地元民はいま、荒れ果てたこの建物の修復を望んでいると言いました。

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写真はリビアのトリポリでのアタテュルク。1911~12年、地元民を組織してイタリア軍に抵抗した。


ハタイ・ムスタファ・ケマル大学の歴史学のシュレイマン・ハティプオール教授によれば、パレスティナのオスマン第7軍を率いていたアタテュルクは、1918年10月、アレッポーからアフリンに入りました。アタテュルクは、この建物を本部とし、イギリス軍の侵攻に備えて、この地方の親オスマンのアラブ人とクルド人を動員して地元民の抵抗軍を組織しました。

イギリス軍は親イギリスのアラブ人の支援を得て、10月26日、アフリン地方に侵攻してきましたが、アレッポーの戦いで、アタテュルクの軍に撃退されました。

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オスマン軍は第1次世界大戦で敗北し、10月30日、休戦条約に調印しましたので、アレッポーの勝利は骨折り損になってしまいました。アタテュルクの軍がイギリス軍の侵攻を防いだ防衛ラインは、ほぼ現在のトルコ=シリア国境線と重なっています。

「私は防衛ラインを決め、敵軍にこのラインを越えさせてはならないと、わが軍に告げた」と、アタテュルクは日記に書いています。オスマン帝国が降伏し、トルコに呼び戻されたアタテュルクは、トルコ国会で「大戦は終わった。しかし、ゲリラ戦はこれから始まる」と言い、トルコの独立戦争を宣言しました。戦いは勝利し、現在のトルコ共和国が誕生しました。

・・・トルコ軍が「オリーブの枝作戦」でYPGを追い払ったアフリンで、第1次大戦中、アタテュルクがイギリス軍と戦ったんですね。感慨深いものがあります。


6月、インフレ率は前年より15.4%上がった

6月、消費者価格指数は、予想を上まわり、2017年同月から15.4%、5月には12.2%上がったと、統計局(TUIK)のデータが示しています。

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1年間で最も上がったのは交通運賃で、7月3日のデータでは、24.3%の上昇です。家具や家庭用品は18.91%、食品とノンアルコール飲料の価格は18.9%上がりました。

ドル=リラ率はロイターのデータによると、4.6225から4.69に上がっています。TUIKの発表によると、生産者価格(PPI)は年間ベースで7%上昇。


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