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「EUは在トルコ・シリア人に15億ユーロを渡す」モゲリーニ氏

2019年03月14日 | 国際
3月15日 EUの副委員長兼外務・安全保障政策上級代表フェデリカ・モゲリーニ氏によると、EUは、トルコに住むシリア人に15億ユーロの補助金を送るそうです。

 Hurriyet

「トルコに住むシリア人たちのために、15億ユーロを送ることを確認したい」と、3月14日、モゲリーニ上級代表は言いました。EUと国連がブリュッセルで組織したシリア協議会の開会式で、モゲリーニ代表は、シリアの決着は“軍事的でなく政治的”であると強調しました。

トルコは350万人以上のシリア難民を受け入れてきました。これは世界一の数字です。アサド政権が民主的プロテストを厳しく取り締まった2011年以来、シリアは物騒な内戦で閉ざされてきました。国連によると、2011年以来、何千人の人々が殺され、1000万以上の人々が家を追われました。


ロマ(ジプシー)が1923年の“住民交換”物語を語った

 1923年、ギリシャから移住してきたトルコ人たちは、いまも“住民交換”前に住んでいた故郷での日々の追憶に浸っています。しかし、第1次世界大戦が終わって、故郷を去らねばならなくなったトルコ人たちの中に、ロマたちもいたことはほとんど知られていません。

“住民交換”3世のロマのコジャテペさん。


1923年のローザンヌ条約で、トルコとギリシャは、200万人の人々の、宗教をベースにした住民交換に合意しました。両国の合意によって、アナトリアに住んでいた100万人のギリシャ人キリスト教徒と、ギリシャに住んでいた50万人のムスリムのトルコ人が、住み慣れた土地を追われました。

交換移住者の中には、ギリシャ北部の都市テサロニキのラグカダス地方に住んでいたロマたちもいました。彼らは海路でトルコに渡り、トルコ各地に散りました。

「テサロニキではロマとルム(ギリシャ人)はいっしょに暮らしていました。私の祖母はここフェティエに移住して、トルコ語を学びました。私たちはいま、フェティエ(トルコ南西部のリゾート地)で安楽に暮らしています」と、サリフ・コジャテペさんはヒュリエト紙に語りました。彼はフェティエの移民団体の会長で、移住3世になります。

コジャテペさんの祖母のナイレさんは、バルカン戦争で夫を亡くし、2人の息子を連れて、他のロマたちとともにフェティエに来て定住しました。「オスマンの金貨30枚に相当する土地、4部屋の家、オスマン金貨10枚の年収など、みんな置いてきました」と、コジャテペさんは言いました。「ギリシャ人もトルコ人も交換移住者たちは絶望的な気持ちで家を去り、新しい生活を築いたのです」

フェティエ、とくに“共和国”地区には、交換移住者の2世3世たちが住みつづけています。540年間ギリシャに住んでいた彼らの先祖は、1923年にフェティエに定住しました。

「私はこの土地で生まれましたが、私の家族はテサロニキから来ました。先祖は農夫でした。戦後、彼らは荷物をまとめる暇もなく、トルコにやってきたのです」と、79歳のロマ女性ビルセン・ギュルテキンさんは言いました。「私たちは貧しさと戦ってきましたが、家族はいつもアタテュルクの話をしていました。移民たちはみなアタテュルクを愛していました」

Hurriyet
家族はギリシャ・テサロニキから来たというロマのギュルテキンさん


移住2世のドーアン・マジットさんは、両親が定住したフェティエで生まれ、トルコで育ち、貨物のドライバーとして働いています。「私たちの両親は13歳のとき、ラグカダスから来ました。家族は資産すべてを故郷に置いてきましたが、両親はいつも来てよかったと言っていました」と彼は言いました。

オスマン帝国では、宗教の異なる多くの民族集団が、7世紀にわたって、ともに暮らしてきました。第1次大戦でトルコが敗北した後、西欧列強は、すでに衰退した帝国を分断しようとしましたが、アタテュルク率いるトルコの愛国者グループが外国勢力に抵抗し、4年間の戦いの後、独立を勝ち取りました。

ローザンヌ条約によって、第1次世界大戦は終わり、トルコとギリシャの住民交換とともに、トルコ共和国の国境が明確になりました。


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