新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

関係はことば・ことばは関係

2013-12-21 08:08:02 | 私の声
 「見えていなかった・聞こえていなかった」のことばが、その人間(ひと)の声でことばになった。「これまで、『しなさい』と言うことばが多かったように思います。『しなさい』と言っていた自分のことばに、自分のイライラが煽り立てられていたんだなあ」と。「『うるさい』と言ったら、その時ちょっと静かになっただけだった。『疲れているから、少し静かにしてもらえたら、嬉しいんだけど』のことばになったら穏やかそうな表情に見えたし、自分には余裕のようなものが感じられました。」と。「伝えられることば・伝わることば」・・・・・・・

ためにならないことばは、ことばじゃない

2013-12-20 07:54:13 | 私の声
 このことばを今は亡き師に聞かせていただいたのは、カウンセリングに学び始めて間もない頃だった。当時の私には、初めて聞くことばであり、いわゆる知ったと言えることばだった。しかし、「ためにならないことばは、ことばじゃない」は、忘れられないことばになり、そのことばは「実感」に呼ばれ「実感」になって「私」にならせていただけている。ことばの相(すがた)をとりながら、聞かせていただけないまんま、空中分解になっている日常ではないだろうか・・・まことにもったいない。きっときっと、虚しさが訪ねてきてくれているに違いないのだが、学ぶという行動にはなりにくいようである。聞かせていただき合えたら、共々の育み合いになれるのであるから。しかし、聞かせていただき合う手だては・・・そして、たとえ手だてを知ったとして、一朝一夕にはなれないのであるからして、なかなかなのだ。往還になる不可思議に値遇(であ)わせていただけるかどうかだ。ことばの相のまま、葬られたことばを、単なる「音」と名付けたい。ここまでの道程があってこそ、言えている「今・ここ」。

「丁寧に聞いていただけました」 と言えて

2013-12-19 07:57:25 | 私の声
 私の語りのままのように、その方の声になって私に聞かせていただけた、あのとき・あの場。「丁寧に聞いていただけました」と、私の声になっていたのだった。その声になった私のことばは、言いっぱなし・往きっぱなしには、終われなかったのだ。聞こえてきたのである。じわりっと心身の果てまで沁みいるるようにして、この心身に還ってきたのである。聞いてくださったその方にお伝えしているような形をとりながら、「丁寧な私」にならせていただけたのである。いとなみの不可思議さに、迎えられ、ことばにお任せあれよ! と呼びかけられて在る「今・ここ・往還」

「変わりたい」 と言っているとき

2013-12-18 07:10:42 | 私の声
 「変わりたい」「変わらなければ」と、よく聞くことばである。「変わりたい」「変わらなければ」と発している者も、そのことばを聞いている者にも、色が付けられているのだ。自分の願いが込められているのである。たいていは、困っているようなときに、発せられることばであるからして。ところが、両者は「色」が疑問にならないままだ。聞いてもらったつもり聞かせてもらったつもり、になってしまうのである。「色」を言い換えるならば、「自分がなりたい状態・自分の都合」ともいえそう。そこに気づけないのでは、来談者のお手伝いにはなれないと、私には言える。
 いのちはそのような水準のところでは、救われていけないようになっている。いのちは、厳かであり人間の都合・不都合の入り込む余地はないのだと。不都合なものを取り除き、なりたいものになれる、と人間は考える(思う)。この考えでは、突破できない、変われないのである。いのちは、ノーと伝え続けてくれていたのだ。開かれていける道は、ちゃんと用意されていたのだ。これまでの道程に、ようやくこのように言わせていただけている。

「分かち合い」 になるとき

2013-12-17 09:42:20 | 私の声
 「分かち合い」にまさるものはない。「分かち合い」は、誰しも望んでいるものであろう。しかし、体解できた私には言えるが、体解できていない者には言えまい。果物やお菓子を分け合って、食すことは容易に思い描けても、精神の面は肉眼に見えないものだから。いのちは、「分かち合い」に望まれている、と言ったらよりピッタリする。「聞く」「言う」「する」「見る」に終始している人には、「分かち合い」は訪れないのである。「私が」の世界に専らだからだ。そこでは、自分も他者も尊重にならせてはいただけていないのだから。個人と個人のケンカ・言い合いや、国家間の戦争が、物語っている。改められないのは、「聞かせていただけなさ」の証であろう。「私が聞く」「聞かせていただけた私」では、両者の世界は天地の違いなのだ。「聞かせていただけた私」と「聞かせていただけた私」の関係に、分かち合いが自ずと生じているのだ。「私が」が超えられて・・・一人では絶対にいただけない「分かち合い」である。