そよかぜから-映画

見てきた映画の記録です
ネタばれあるかも、気をつけて

麦の穂をゆらす風

2006年12月28日 | 歴史映画/時代劇

2006年 イギリス/アイルランド/ドイツ/イタリア/スペイン 126分
■原題「THE WIND THAT SHAKES THE BARLEY」
2006.12.25 サロンシネマ2
■監督 ケン・ローチ
■出演 
  キリアン・マーフィ(デミアン)
  ポードリック・ディレーニー(テディ)
  リーアム・カニンガム(ダン)
  オーラ・フィッツジェラルド(シネード)
  メアリー・オリオーダン(ペギー)
  メアリー・マーフィ  ローレンス・バリー
  ダミアン・カーニー  マイルス・ホーガン
  マーティン・ルーシー  ジェラルド・カーニー
  ロジャー・アラム  ウィリアム・ルアン

《story》

「愛するものを奪われる悲劇を、人はなぜ繰り返すのだろう」

アイルランドは、イギリスの支配下にあり、独自の言葉ゲール語を話すことも、ハ-リングというスポーツをすることも禁じられていた。1920年アイルランド南部の町コーク。医師を目指すデミアンの友が、英語の名前を言わずにアイルランド名言ったことで暴行を受け殺されてしまう。デミアンは、故郷を離れ、ロンドンの病院に就職するため、列車に乗ろうとしていた。そこにイギリス軍が表れ、列車の運転手らが乗車を拒否したため暴行を受ける。デミアンは、医者になる道を捨て、兄のテディとともにアイルランド独立のために戦うことを決意する。戦いは、裏切りあり、焼き討ちあり、日増しに激しくなっていった。イギリス軍は苦戦し、ついに講和条約が結ばれることになった。しかし、それはアイルランドの完全な独立ではなく、イギリスの国王の権限が残されるものだった。アイルランドの指導者たちは、この講和条約に賛成するものと反対するものに分かれ、対立を深めていくのだった。そして、賛成の立場に兄のテディ、反対に立場にデミアン、兄弟は敵味方に分かれていくのだった。

昔から気になっていたアイルランド
歴史には疎いから、よくわからなかったけど、イギリスのとなりにあるアイルランドは、何か因縁めいたものがあることはわかっていた。ある意味、日本と韓国の関係と同じかもしれない。植民地政策の時代は、当たり前のように弾圧が行われいたのだろう。イギリスはさまざまな国を植民地にしてきたから、イギリスと戦い、イギリスを追い出すことが、それぞれの国の独立であり、大きな歴史の一場面になったのだと思う。「ガンジー」という映画もそうだった。今、イギリスはそういったかつての植民地支配していた国々に対し、どんな関係であり、どんな接し方をしているのだろうか。こうしてみると、世界は広い。知らないことがたくさんある。たぶん本ではなかなか入ってこないことも、映画だと心に残る。

人の苦しみの上で幸せはない
人を犠牲にして幸せを本当に感じることができるだろうか。人を傷つけ、命を奪って、得たものって満足して使えるだろうか。使える人がいるのだろうか。いるからこそ、世の中戦争がなくならないのだ。人を支配する者が、人の痛みを感じていたら、命令も何もできないだろう。そんな人は、多くの人の犠牲に今の自分があることなど考えないし、きっと手に入れた富と権力にほくそ笑んでいるんだろう。大河ドラマの山内一豊だって、たくさんの人を殺して、一国一城の城主になることができたんだ。ドラマの中ではいい人だったけど、人を殺してさいなまれていたら、こうはなれなかっただろう。ということは、人の苦しみの上に幸せはあるのか。人の痛みを感じる人間は、それこそ不幸をしょって生きていかなければならないのか。

戦争というものは
どうしてあんなに簡単に人が殺せるのだろうか。かつて日本が朝鮮にしたように、母国語を奪い改名させ服従させる。反抗する者は容赦なく痛めつける。それで気持ちよく眠れるのだろうか。立ち向かわなければ、同じ人間として権利も幸せもわかってもらえないなんて、人間の歴史はなんて無様なんだろうか。幼なじみを涙を流しながらも殺さなければならない。兄弟を殺さなければならない。そんな悲惨なことを繰り返さねば前に進めない人の世はなんて不幸せなんだろうか。やっぱり権力者たちが、引きずるものが、人々を不幸にしていくのだと思う。人々を動かす力のあるものが
本気で人々の幸せを考え、戦うことなく進むことができる方法を考えてほしい。軍隊なんかなくても、考えのちがう人々と、ともに生きていける方法はきっとある。権力はそんなことを考えることができる人が持つべきだ。そうじゃなかったら、これからの人類は未来がない。

公式サイト「麦の穂をゆらす風」

敬愛なるベートーヴェン

2006年12月28日 | 人間/社会派ドラマ


2006年 イギリス/ハンガリー 104分
2006.12.25 サロンシネマ1
■原題「Copying Beethoven」
■監督 アニエスカ・ホランド
■出演
  エド・ハリス(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)
  ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)
  マシュー・グード(マルティン・ヴウアー)
  ジョー・アンダーソン
   (カール・ヴァン・ベートーヴェン)
  ビル・スチュワート(ルディー)
  ニコラス・ジョーンズ
  フィリーダ・ロウ
  ラルフ・ライアック

《story》

「孤高の音楽家ベートーヴェン、歴史に隠されたもう一つの物語」

「『第九』の誕生の裏に、耳の聞こえないベートーヴェンを支えた女性がいた」

1924年ウィーン。「第九」の初日4日前。しかし、合唱のパートが完成していたかった。ベートーヴェンは、優秀な写譜師として音楽学校に生徒を依頼していた。ベートーヴェンの元にやってきたのは女性のアンナ・ホルツだった。初めは女性の写譜師をいやがっていたベートーヴェンだが、彼女の楽譜を見て、彼女の才能を知る。「第九」の初日、耳が不自由になっていたベートーヴェンに合図を送る役目を彼女に頼み、見事にすばらしい演奏を成し遂げることができた。その後、アンナは自分の曲をベートーヴェンに見せるのだが・・・。

有名な人の影には支える偉大な人あり
人は一人では偉業を成すことはできない。必ずその人の右腕になったり、支える人がいるものだ。一人でやってやるなんて言ってる人は、きっと何もできなくて、孤立していくんだ。その人のことを理解し、そ人のために精一杯力を出そうと思う人、そんな人がいたからこそ、ベートーヴェンも偉業を成し得たのだと思う。そう考えるとき、そばにいた人ってすばらしい人なんだなと実感する。ヘレン・ケラーのそばにいたサリバン先生もそうだ。彼女なくしてヘレン・ケラーは存在しない。人はお互いに支え合い、その奥にある可能性を見抜き、それを引き出す関わりがあってこそ、人としての存在価値がるようだ。そんな人同士が惹かれ会い、お互いの可能性の扉をたたき合う。そして開花するのだ。特に男の人は、女の人の縁の下の力で、自分の才能を大きく広げていく人が多いと思う。歴史の登場人物は多くは男性だけど、きっとささえている女性がいるんだと思う。

見抜く 人を見る
ベートーヴェンという人を見つめ、人間として弱さも力もしっかりつかみ、支えていったアンナ。そして、女性だからという偏見を乗り越え、彼女の才能と優しさを見抜き、引き出したベートーヴェン。人を見抜く力、それはお互いの長所も短所も見ながら、相手ののすべてを受け止め、意欲と可能性を引き出す。それは知ったかぶりで、相手のことを決めつけるのでない。するどい洞察力と、気配りなんだと思う。ベートーヴェンに後者の優しさがどれだけあったかはわからないが、アンナには確かにあった。

  『夜のピクニック』    【BOOK】
洞察力で関係があるので・・・。2006年の劇場映画の中でBESTにあげたい作品です。ということで、文庫本を読んだ。一気に読み終えた。映画のストーリーとほぼ同じだった。ただ、夢のような場面は本の中にはなかった。でも、映画も本も心に残るものだった。「みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね。どうして、それだけのことがこんなに特別なんだろうね。」歩いて会話するだけなのに、どうしてこんなに心に残るんだろう。それはベトッとした感じじゃなく、さらっとしたさわやかさで、お互い人を見て、慈しんでいるような気がするから。歩くという単純な動きこそ、まさに人生そのもの。気持ちのいい汗をかきながらも、さまざまな出来事がある。ゴールすることが目的でありながら、その途中の道で何かをこわし、何かを作る。そしてこわすことも作ることも楽しいし、振り返れば大切な想い出となる。

公式サイト「敬愛なるベートーヴェン」