先々週はナムプリック屋のお父さんお母さんが、
「子どもたちがバンコクに仕事や試験で行ってしまって夕食がさみしい。
さちえ、毎日食べに来なさいね。」
と言われ、毎日通った。
先週はカウンターパートから食事に連れて行ってもらったり、仕事で遅くなったり、
ナムプリック屋のお父さんたちに顔を見せない日があった。
もう、子どもたちも帰ってきているし、お父さんも寂しくはないかななんて思ってた。
だけど、おとつい、お母さんが「先週は2日さちえを見なかったね。」と言う。
そして、昨日
「さちえが作ってくれた餃子が美味しかった。また作ってちょうだい。
明日はどう?」
と言う。
請われると喜んでホイホイ差し出し投げ出す性格なので、
二つ返事で引き受ける。
そうか。この間作った餃子、私は時間がなかったから、作っておいてきただけだったけれど、
美味しかったんだ、うれしいな。
餃子のたれは、醤油とナンプラーとにんにくとマナオ(タイのレモン)
それに、タイ人ウケするように唐辛子を入れたら、これが日本のたれよりおいしかった。
ナンプラーも唐辛子も、にんにくもマナオも、
タイの食材はすごい。
餃子にオムレツにハンバーグに肉じゃがにポテトサラダに巻きずしにお好み焼き、
鳥の照り焼き、たくさんの日本食を作ったなあ。
今じゃ、タイの台所にも慣れて タイのでっかいフライパンも
ガスがボッと出てくるコンロも一人で使える。
お母さんの家の台所の調味料も居場所を知っている。
ふと思う。
お母さんは、「日本食を作って」というのは口実で
私が一人でさびしくないように、一緒にごはんを食べさせようとしてるのではないか。
この間作った餃子にしても、作っておいてきてしまったけど、
そんなことを望んでいるのではなく、私が作ることで
一緒に時間を過ごし、それを食べながら話すことが目的じゃないかと。
「お父さんがさびしい」よりも
私が笑ったり楽しそうにしている姿を間近で見て、安心したいのではないかと。
ソイローポーショーにある、お父さんが植えたバナナの木。
それを使って作ってくれたお母さんのกล้วยบวชชี クルアイブアチー。(バナナのココナッツ煮)。
(→ 過去ブログ 「私を取り囲む景色と人々」 「土地」)
大好きなクルアイブアチーを
「日本でも、私の家族に食べさせたいから」
と、お母さんに作り方を教えてもらう。
バナナを買ってきて、むいて、切って、鍋に入れ、
砂糖と水で少しだけ煮たら、ココナッツミルクを入れる。
できあがり。
作り方は、きっとインターネットでだって調べられる。
だけど、お母さんと一緒につくり、
お母さんと一緒に時間を過ごして教えてもらうことが大事なのだ。
できあがったクルアイブアチーは、渋くて渋くてとても食べられたものじゃなかった。
「バナナが悪いのよ!このバナナがまだ熟れていなくて渋かったのね。
やっぱり、お父さんの植えたバナナが一番美味しい。
困ったわねえ。 日本にはお父さんのバナナがない。 送ってあげないといけないねえ。」
とお母さんは言う。
はじめて私が作ったクルアイブアチーは、しぶくてまずいものだったけど
お母さんと作って、一緒にまずいと顔をしかめて
一緒に、お父さんのバナナが一番だ、とうなずきあった時間は
この先にもない時間。
ナムプリック屋の前では、ジャックフルーツが実りだした。
店の前を歩くと、すでによい香りがふんわり漂ってくる。
実り終えるまでに150日かかる、世界最大のフルーツ。 (→ 過去ブログ 「カヌン ジャックフルーツ」)
「さちえが帰るのに間に合うかしらねえ。」
と言われると、切ない気持ちになるけれど、
「間に合うかなあ。」
と言いながら、一緒にお父さんお母さんとジャックフルーツを見上げるこの時間も
この先にない、貴重な時間。
活動から帰ってきたとき、ふとみあげると お父さんのバナナの木、その花から
次のバナナが顔を出していた。
時間はめぐる、どんどんめぐる。
次の新しいこと、新しい命、新しい別れ、新しい出会いが
待ったなしでどんどん 人生にはやってくるものなのだ、
バナナの花を見上げて思う。
「子どもたちがバンコクに仕事や試験で行ってしまって夕食がさみしい。
さちえ、毎日食べに来なさいね。」
と言われ、毎日通った。
先週はカウンターパートから食事に連れて行ってもらったり、仕事で遅くなったり、
ナムプリック屋のお父さんたちに顔を見せない日があった。
もう、子どもたちも帰ってきているし、お父さんも寂しくはないかななんて思ってた。
だけど、おとつい、お母さんが「先週は2日さちえを見なかったね。」と言う。
そして、昨日
「さちえが作ってくれた餃子が美味しかった。また作ってちょうだい。
明日はどう?」
と言う。
請われると喜んでホイホイ差し出し投げ出す性格なので、
二つ返事で引き受ける。
そうか。この間作った餃子、私は時間がなかったから、作っておいてきただけだったけれど、
美味しかったんだ、うれしいな。
餃子のたれは、醤油とナンプラーとにんにくとマナオ(タイのレモン)
それに、タイ人ウケするように唐辛子を入れたら、これが日本のたれよりおいしかった。
ナンプラーも唐辛子も、にんにくもマナオも、
タイの食材はすごい。
餃子にオムレツにハンバーグに肉じゃがにポテトサラダに巻きずしにお好み焼き、
鳥の照り焼き、たくさんの日本食を作ったなあ。
今じゃ、タイの台所にも慣れて タイのでっかいフライパンも
ガスがボッと出てくるコンロも一人で使える。
お母さんの家の台所の調味料も居場所を知っている。
ふと思う。
お母さんは、「日本食を作って」というのは口実で
私が一人でさびしくないように、一緒にごはんを食べさせようとしてるのではないか。
この間作った餃子にしても、作っておいてきてしまったけど、
そんなことを望んでいるのではなく、私が作ることで
一緒に時間を過ごし、それを食べながら話すことが目的じゃないかと。
「お父さんがさびしい」よりも
私が笑ったり楽しそうにしている姿を間近で見て、安心したいのではないかと。
ソイローポーショーにある、お父さんが植えたバナナの木。
それを使って作ってくれたお母さんのกล้วยบวชชี クルアイブアチー。(バナナのココナッツ煮)。
(→ 過去ブログ 「私を取り囲む景色と人々」 「土地」)
大好きなクルアイブアチーを
「日本でも、私の家族に食べさせたいから」
と、お母さんに作り方を教えてもらう。
バナナを買ってきて、むいて、切って、鍋に入れ、
砂糖と水で少しだけ煮たら、ココナッツミルクを入れる。
できあがり。
作り方は、きっとインターネットでだって調べられる。
だけど、お母さんと一緒につくり、
お母さんと一緒に時間を過ごして教えてもらうことが大事なのだ。
できあがったクルアイブアチーは、渋くて渋くてとても食べられたものじゃなかった。
「バナナが悪いのよ!このバナナがまだ熟れていなくて渋かったのね。
やっぱり、お父さんの植えたバナナが一番美味しい。
困ったわねえ。 日本にはお父さんのバナナがない。 送ってあげないといけないねえ。」
とお母さんは言う。
はじめて私が作ったクルアイブアチーは、しぶくてまずいものだったけど
お母さんと作って、一緒にまずいと顔をしかめて
一緒に、お父さんのバナナが一番だ、とうなずきあった時間は
この先にもない時間。
ナムプリック屋の前では、ジャックフルーツが実りだした。
店の前を歩くと、すでによい香りがふんわり漂ってくる。
実り終えるまでに150日かかる、世界最大のフルーツ。 (→ 過去ブログ 「カヌン ジャックフルーツ」)
「さちえが帰るのに間に合うかしらねえ。」
と言われると、切ない気持ちになるけれど、
「間に合うかなあ。」
と言いながら、一緒にお父さんお母さんとジャックフルーツを見上げるこの時間も
この先にない、貴重な時間。
活動から帰ってきたとき、ふとみあげると お父さんのバナナの木、その花から
次のバナナが顔を出していた。
時間はめぐる、どんどんめぐる。
次の新しいこと、新しい命、新しい別れ、新しい出会いが
待ったなしでどんどん 人生にはやってくるものなのだ、
バナナの花を見上げて思う。