ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

写真をサイバーツ

2012年02月05日 09時20分12秒 | 日記

朝、サイバーツ(喜捨)しに部屋を出ると、まだ外が真っ暗。
時間は6時。
でも、少し歩くだけで刻一刻と夜が明けて朝の空になっていく。

ソイローポーショーにはまだ、月が出ている。
でも、振り返ると反対側には朝日も昇っている。
     



   「東の野に炎(かぎろい)のたつ見えて かえり見すれば 月傾きぬ」

柿本人麻呂が、草壁皇子の崩御の際に詠んだ歌。
日本最古の歌集、万葉集に収められていて、中学校の国語で学習する。
  

大意は
「東の野原に炎のように朝日が昇ってくる。
 それを、ぐるりを振り返って西を見ると、月が今、沈もうとしている。」

「かえりみすれば」にダイナミックな振りかぶって見る感じがあって、
野を燃やすように赤く上がる太陽と、今同時に沈もうとしている月の情景が
目に浮かんで想像豊かにできる、いくらでも想像を膨らませることができる歌で
この歌が好きだ。

御子の崩御を沈む月にたとえ、命が今沈んでいく様を詠んだのかもしれない、と思うと
少し、もの悲しくもなる。

東から赤く燃える太陽があがる、
振り返ってみると、西には月が今まさに沈もうとしている、
そんな情景が見られるものなのだろうかと、憧れに近い気持ちでこの歌を
日本の中学校の教室で、いつも冬の寒い時期に読んでいたものだった。


今見ているこの景色が、まさに、柿本人麻呂のこの歌の風景と
同じじゃないかと、朝から道に立ち尽くして月を見、太陽を見
まさかタイで見るとはと、感激ひとしお。






朝のサイバーツにはいつも5人の僧侶が来る。
今日はその僧侶たちに写真を渡す。
初詣の時に僧侶からメモリースティックに写真を入れてほしいと頼まれてから  (→ 過去ブログ 「タイの家族と初詣」
そうだよなー、僧侶だって自分の写真がほしいにきまってる、
と、今さら思った。
タイ人は自分の写真が好きで、パソコンや携帯の待ち受けは100%の確率で自分の写真。
子どもたちや保護者やソイローポーショーの人たちに写真をあげているのだから
僧侶にもあげないと。
と、またカメラ屋さんに通って現像してくる。
      



ナムプリック屋のお母さんやおばあちゃんたちも、
「僧侶の写真なの?!あげるの?」
「まあ、いいことしたわね!」
「5人の分け方が間違ってないか、私が確認してあげる!」
といって、楽しそうに見て、
「まあ、この写真すてき」
「これ、私もちょうだいよ。」「こっちはまあまあね。」
と、仕分けそっちのけで盛り上がっている。
      

犬もわんさか集まってくる。
     



「写真です。」と渡すと
「おお。」
とうなる僧侶たち。
サイバーツで食べものや飲み物、お金は受けとっても、自分の写真を
うけとったことはきっとないんじゃないかな。
      






ソイローポーショーの人たちにも、段ボールで和紙の写真たてをつくって
写真を入れて渡す。  (→ 過去ブログ 「すいかカードと写真たて」  「終わりが見えるから」
    


「高価なものじゃないけど、自分で作ったから、心を込めて作ったよ。」
とカタコトのタイ語で伝えると
「心を込めて? んまあ-。」
と、私を見つめ嬉しそうな顔をする。
この顔が見たくてやっていることなのだ。
     


果物屋のおばちゃんは何をしても喜んでくれるけれど、
この写真に写っている自分の服装が、ちょうど今日着ている服装と同じであることに
大笑いし、笑いが止まらない。
その笑う姿がおかしくて、私も一緒に大笑いする。
    


ナムプリック屋のお父さんたちはすぐに飾ってくれて
来るお客さんお客さんに言う。
「日本の娘がね、浴衣を着せてくれてね、この写真たては自分で作ってくれてね。」
「友達が来てね、それがね、泣いて泣いて 泣いて帰ったんだよ。」
こんなことまでお客さんに話すお父さんも、へえそうなの、うんうんと
うなずいて聞いているお客さんも どちらも素敵だ。
       


ガイヤーンのおじちゃんは、いつも言葉少ないが、写真たてを渡すと黙り込んでしまった。
      
 

ローティ屋台のおじちゃんおばちゃんは、「すしローティ」といって
カオニャオとローティを合体させて作った創作料理、
おじちゃんいわく 「寿司」 を食べさせてくれた。
この遊び心がすてき。
      


ふと自転車のかごを見ると、ネームとカオニャオが入っている。
いつのまに??
ガイヤーンのおじちゃんと目があう。
言葉少なく木訥としたおじちゃんは、私に黙って受けとってほしくて
私の自転車の籠にそっと私の好きなネームとカオニャオを入れてくれた。
お・・・おじちゃん・・・ 胸にぐっとくる。
      


少し前のことだが、
ガイヤーンのおじちゃんに日本のお菓子をわたしたら、
そのときも黙ってしまい、一言、
「払うお金がない。」
と、言ったことがあった。
お金なんていらないいらないと、お菓子を押しつけてきたが、
おじちゃんにそんな言葉を言わせてしまったことが申し訳なかった。
よかれと思って、喜ぶ顔が見たくてあれやこれやとあげたくなってしまうが、
それは、貧富の格差を見せつけた行為であったのだと思った。
言わせずともいい言葉を、おじちゃんから言わせてしまったことが悲しく、自分がいけなかったと猛烈に反省した。
おじちゃんが、ちょくちょくとくれる、私の好きなネームやガイヤーン。
それらでは、補いきれない格差をおじちゃんはその時感じたのだと思う。

だから、今日、私の自転車の籠に、またそっと入れられていたネームとガイヤーンは、
私たちの関係が元に戻り、同じソイローポーショーにすむ人同士に戻った、
そんな気がして嬉しかった。

喜ばれたい、喜ぶ顔が見たいと思ってやっていることが、
相手にとって、私との明らかな格差を感じさせることがある。
ものをあげること、それがいいわけではないし、与えることで失ってしまうものがある。
そういうことを、ここで考えるようになった。


私があげたいもの。
高いものではいけない。 
物そのものの価値でもない。

心を込めて、配属先の人たちに、ソイローポーショーの人たちに。