猿江恩賜公園のブラシノキを撮ってから、周辺をリハビリサイクリングしました。新大橋通りに面して神社があったので散策しました。亀出神社と書いてあります。家に戻ってから調べました。
亀出神社の鳥居です。広い境内です。
★ランドマーク亀出神社:亀出神社は、江東区大島にある愛宕神社です。寛文12年(1672)に亀戸出村(大島村)にあった霊巌寺領の鎮守として創建したといいます。水運のために竪川(首都高速7号線の下)が造られたため、亀戸村から切り離された当地周辺を亀戸出村と称していましたが、江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿では、大島村項に、愛宕神社として記載されており、大島村・大島町の鎮守として記載されています。また霊巌寺領であったことから、念仏堂が当社近くにあったといい、現在も子育地蔵尊が安置されています。昭和48年に、大島1-37に鎮座していた草分稲荷神社を当社境内へ遷座しました。
古地図絵図に羅漢寺の下の所に愛宕神社出ていました。
五百羅漢寺は移転してしまい、跡地に区民センターが建っています。
新大橋通り向には、名前は同じですが他から移ってきた寺院が五百羅漢寺を名乗っています。
亀出神社の拝殿です。
神楽殿です。
脇に草分稲荷神社がありました。由緒が書いてあります。
★ランドマーク草分稲荷神社: 草分稲荷については徳川初期現在の大島1丁目37番(釜長のならび)付近の草むらの中に小さなほこらが建てられていたと伝えられ、昭和のはじめまでは付近住民が旧初午の日に寄付をもちより祭礼を行ってきたと語り継がれているものである。
往昔南葛一円の地は徳川幕府による禁領地であり、常時番人をおいて厳重に見張りをし、明治維新まで続いていた。現在の大島2丁目付近には鷹狩に使われる鴨池があり、御用屋敷と呼ばれるものが散在していたという。たまたま徳川3代将軍家光がこの池に遊猟の際、草繁き狩場で路にまよったところ、その道案内にたったのがこの稲荷であるともいわれている。稲荷神社は『うがのみたまのみこと』を祭神とし、食物一切つかさどる神とされている。城東地区はもともと農業地域であったことから稲荷社がかなり多いが、1596年から1688年の頃がもっとも多く、徳川2代の秀忠から5代綱吉にいたる頃といえよう。
その後祀るものもないままに、さらに墓地改葬があり、土砂、雑草に埋もれかえりみられなかったが、ここに城東区役所が移ることになって、その新築工事が進むにつれ、ほこらと堀り出され業者によって庭の一隅に安置された。昭和15年(1940)区役所がここに移転するや、庁内の有志がほこらを復建し毎年ささやかな祭をしてきた。
昭和16年(1941)頃この社が香取神社宮司の夢枕にたち『火難』があるかもしれないから後世大切に祀るようにとのお告げがあったと伝えられている。
昭和48年(1973)4月、江東区区民センター建設に伴い亀出神社の境内に区長並びに香取宮司立合いの上遷座したものである。
隣には子育て地蔵尊がありました。
ここから小名木川に出て中川船場所跡に向かいました。
番所橋から中川船番所跡を見ています。旧中川と交差する左手のところになります。
旧中川の河川敷を亀戸中央公園に向かって走りました。ムラサキツメ草やすかんぽがありました。昔からしっている草花に出合うとうれしい気持ちになります。