ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

法恩寺

2013年05月19日 22時04分25秒 | 自宅周辺探索

大横川親水公園を散策していると、法恩寺橋に出合いました。法恩寺に寄ってみました。ここも、長い間前を通るのみで中へ入ったことがありませんでした。
法恩寺のPHより:開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公であります。道灌公が江戸城築城≪長禄二年(一四五八年)≫に当たり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、資高の代、本住院を法恩寺と改称したのであります。山号を平河山と称するのは、当時この附近を平川村と称したことによるものです。又、当山には秀吉、家康共に小憩され、朱印地も与えられました。
 家康が江戸に入り城内拡大に当たり、慶長十年当山は神田柳原に移転し、その後谷中清水町に移され再度元禄八年に幕府により現在の地に移りました。境内は輪奥の美を整え宗門における関東の触れ頭として現在でもその威勢を誇っております。
太田道灌の碑太田道灌の略歴:生年は1432(永享 4)
没年は1486(文明18. 7.26)
◇室町中期の武将・歌人。幼名は鶴千代麿・源六郎、初名は持資(もちすけ)のち資長(すけなが)、法名は道灌、通称は左衛門大夫・備中守。太田資清(すけきよ)の子。相摸国の人。
 扇谷(おうぎがやつ)上杉家の執事で、政真・定正(さだまさ)を補佐する。
 築城・兵馬の法に長じ、1457(康正 3,長禄元)年、江戸城を築く。ほかに川越・岩槻(いわつき)・鉢形の諸城を築く。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、『慕景集』がある。
 1476(文明 8)山内上杉家の内紛(顕定の家臣長尾景春の乱)を鎮圧する。扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言(ざんげん)により、相摸国大住郡糟谷で主君定正に殺される。

碑には次の逸話に出てくる有名は山吹の話:鷹狩の最中に俄(にわ)か雨にあった太田道灌(おおたどうかん)(1432~1486)から蓑(みの:当時の雨具)を求められた農家の少女、紅皿(べにざら)は庭に咲いていた山吹(やまぶき)の一枝を差し出しただけでした。その枝には古歌
七重八重(ななえやえ)、花は咲けども山吹の、みのひとつだに無きぞ悲しき
中務卿兼明親王(かねあきらしんのう)( 914~ 987)の意味が込められていました。家臣から「実の」と「蓑」が懸けられているのだ、と教えられた道灌は、無学を恥じて和歌を勉強し、後に紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたという話です。
 法恩寺橋のせせらぎに鴨



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