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『ねずさんのひとりごと』「唐辛子とキムチのお話」

2013年12月17日 16時28分20秒 | 色んな情報
『ねずさんのひとりごと』「唐辛子とキムチのお話」

日本人は誰しもカレーライスが大好きですが、それを日本の「伝統食」だなどとは思ってる人は誰もいません。
日本人は、カレーはインド生まれだと誰もが知っているし、本家インドカレーも美味しいと楽しむし、味をさらに日本化することで、さらに美味しくして、ただみんなで喜んで食べているだけです。
昔、日本のカレーライスを食べて、「あまりの美味しさにインド人もびっくり!」などというCMもありましたが、あくまでそれは工夫の問題であって、カレーを日本生まれだなどと言う人は、おそらく子供でも、いません。

これと比較するのもおかしな話ですが、実はキムチは、朝鮮族にとって外来文化です。
そもそもキムチは朝鮮半島の伝統食ではありませんし、使われている唐辛子も白菜も、朝鮮原産ではありません。
キムチが現在のような辛味の強い真っ赤な食品として朝鮮半島に定着したのは、実は日韓併合後のことです。

キムチの主役の唐辛子は、そもそも南米のチリ産です。
だから唐辛子ソースのことをチリソースといいます。

もともと唐辛子は、南米のチリで、現地の人たちが、すりつぶして下剤として使っていました。
それをコロンブスが薬品としてスペインに持ち帰り、そのスペイン人によって、ほとんど日をおかずに日本にもたらされたのが、戦国時代の終わり頃のことです。

ですから当初は日本でも、唐辛子は、漢方薬と呼ばれていました。
ちなみに江戸時代初期まで、外来の薬品や薬草は、それが支那からのものであれ、スペインやオランダからのものであれ、すべて「漢方」です。
オランダのものだけが、蘭方とされるようになったのは、江戸中期以降のことです。

そもそも漢方薬の「漢」という国は、3世紀初頭には滅びてなくなっています。
それを日本人が丁寧に「漢」と呼び続けたのは、日本人がただ律儀なだけのことです。

唐辛子は、薬品として、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島に伝わりました。
これをキムチの発祥としている本などもありますが、違います。
この頃の唐辛子は、あくまで下剤や寒さ対策の塗り薬でしかありません。食用ではないのです。
秀吉の朝鮮出兵から、80年ほどあと、日本でいったら江戸中期にあたる1670年に書かれた朝鮮の料理本の「飲食知味方」に、漬け物としてのキムチは出て来るのですが、ここに唐辛子を用いたものは、ひとつも書かれていません。
そこにあるのは、ただの漬け物です。

朝鮮半島で唐辛子を用いた料理が登場するのは、江戸時代後期にあたる文化6(1809)年の「閨閤叢書」で、ここには漬け物に、千切りにした唐辛子を少量入れることが書かれています。
日本でも、浅漬けに少量の唐辛子を千切りにして入れますが、要するにそれとおなじものです。

キムチがいまのような辛味主体のものに近いものとして書かれているのが、「林園十六志」で、これは文政10(1827)年の書です。
ではなぜ、文政年間に、あの辛いキムチが広がったのか。
これに実におもしろい歴史があります。

江戸の町の両国に薬研掘(やげんぼり)というところがあります。
ここの町名がどうして薬研掘というかというと、これが読んで字の如くで、お堀の形状が、漢方医が使う「薬研(やげん)」に似ていたからなのだそうです。

この地名からなのか、その薬研掘界隈には、不思議なことに薬屋さんや薬品問屋さんが集まりました。
また薬屋さんが近いからと、漢方医たちもここにたくさん開業しました。
いまでも調剤薬局などは病院の近くにありますが、それと同じです。

寛永2(1625)年といいますから、徳川家光が三代将軍に、まだなったばかりくらいの頃、この江戸の両国薬研掘に、中島とくえもんという人が薬種商の「やげん堀」を開業しました。

この頃の江戸で流行っていたのが、お蕎麦屋(そばや)さんです。
なにせ簡単にツルツルっと食べれてお腹がふくれるから、気の短い江戸っ子には大流行でした。
そこで、とくえもんさん、この蕎麦の薬味(やくみ)に、唐辛子が使えないものかと考えたのです。

ところが唐辛子をすり潰しただけでは、ただ辛いばかりであじけない。
そこで唐辛子に、麻の実、青しそ、山椒、黒ゴマ、白ゴマ、みかんの皮を入れて、一緒にすり潰したものを、開業の翌年「七味唐辛子、やげん堀」として売り出したのです。

なんと、これが大ヒット!
なにせ風邪の妙薬で元気が出て、しかも蕎麦汁(つゆ)に入れると美味しい。
またたくまに、とくえもんさんのお店は大繁盛するし、徳川家光の菊の宴に献上したら、これが家光にいたく気に入られて、なんと徳川家の「」の一字まで賜って、おかげで名前もあらため、中島右衛門。
このお店は、代々続いていて、いまでも七味唐辛子本舗となっています。

江戸で流行ったものは、全国に波及します。
蕎麦やうどんに、唐辛子をちょっと入れておいしくいただくという習慣は、こうしてはじまりました。
ただし、その唐辛子は一味ではなく、七味です。
唐辛子は、日本で、七味になることで、一般の食用に供されるようになったということを、ひとつ押さえてください。

そして江戸中期、第11代将軍家斉の時代、その襲封祝賀(将軍就任の祝賀)のために、第12回朝鮮通信使が、日本にやってこようとしました。
あくまでも、「やってこようとしました」。文化8(1811)年のことです。

この朝鮮通信使というのは、隣国からの慶賀の使者という意味においては、ありがたい存在だけれど、なにせ相手は儒教の国です。自国を立派に見せるためにと、いちどきに600人からの一個大隊でやってきます。
それが朝鮮半島から対馬を経由して、福岡に上陸し、そこから半年がかりで陸路はるばる江戸までやってくるわけです。
対馬から先の旅費は、祝賀を受ける側、つまり日本側の負担です。一回の通信使で、100万両(約6億円)の接待費がかかります。

当時の幕府の経済力からしたら、金額自体はたいしたことはありません。
勅使下向の接待は毎年のことですが、同程度の経費がかかります。

問題は、朝鮮通信使が、そこが日本であることをまったくわきまえず、沿道の民家を襲って農作物や鶏を泥棒するし、大声で騒ぐ。
さらに指定された旅館では、そこいらにある器物が軒並み泥棒される。
宿泊させれば翌朝には、朝の大きな御用を、日本人ならちゃんと厠でするのに、彼らは彼らの国の風習で、一斉に街道の路上でこれをする。
600人が路上でするのです。後始末がどんなに大変か。

要するに、野生の猿のような野蛮人たちが、延々江戸までやってくるわけで、これは民衆にしたら、たいへんな迷惑なのだけれど、いちおうカタチは国賓です。粗略には扱えない。

そんなわけで、毎度迷惑千万な使いだったわけで、ついに徳川家斉は、この朝鮮通信使について「易地聘礼」といって、江戸までやってこさせるのではなく、対馬藩で挨拶を受けるだけの簡便な方法に切り替える(ようするにカンベン(勘弁)してほしいということ)よう求めました。

こうしてやっとのことで第12回朝鮮通信使は、対馬藩足止めとなったわけです。
この足止め成功によって、対馬藩はなんと2万石が加増されています。
どんなにホッとしたか、ということです。

この第12回朝鮮通信使の際に、お土産(みやげ)となったのが、当時、日本国内で大流行していた七味唐辛子でした。
食事の際に、ちょっとおつゆに七味を入れるだけで、食事がめちゃくちゃおいしくなる。
「これは何か」と聞かれて、帰りのお土産に持たせたのが、七味唐辛子と、唐辛子の実です。
おかげで、その後の李氏朝鮮王朝の貴族の高級食品として、唐辛子が大流行する。

けれど、この段階では、朝鮮では、あくまで唐辛子は貴族の宮廷料理としてだけのものです。
なにせ庶民は食事の際に箸(はし)もスプーンも使わない。

実は朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降のことです。
それまでは、朝鮮半島における庶民の食事は、インド式(手づかみ)です。

このように書くと、「そんなはずはない。日本文化は食事の作法まで、支那から朝鮮半島を経由したものだし、箸も朝鮮が日本に教えてやったものだ」という反論がどこかから聞こえてきそうですが、それが事実がどうかは、下の写真を見たら、一目瞭然です。

この写真は、日韓併合の少し前の平壌辺りの庶民の食事の写真ですが、お椀はあるけれど、どうみても箸もスプーンもありません。

日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令に、「路上脱糞禁止令」があります。
それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえの習慣だったのですが、これではあまりに衛生面でよろしくない。

そこで朝鮮総督府が路上脱糞を禁止したわけですが、ところが人間、食べれば必ずもよおすわけで、ところが路上では禁止されてしまっている。
そこで朝鮮ではじまったのが、室内で穴を掘り、そこで脱糞するという習慣でした。

穴が満タンになると、そこに土をかけ、室内の別な場所に別な穴を掘って、そこでする。
これを何年か繰り返しますと、室内の縁の下が全部有機物になり、地面が自然発熱してたいへんに温かくなる。
その生暖かいところに野菜を入れた甕(かめ)を、頭だけ出して埋め、その中で漬け物をする。
すると、おいしい漬け物ができる。

ところが雨が降ると、雨水があふれる。
甕の中に、その・・・有機物の汚水がはいる。
こうなると、せっかくの漬け物に、妙な臭いがついてしまいます。
そこでこれを食べるために、唐辛子をどっさりと入れて臭みを消した食品が、いまのキムチになったわけです。
おかげでキムチは、各家庭ごとに味が違うのだとか。

もうひとつ、キムチに使われる白菜です。
これも、白菜が一般に栽培されるようになったのは、名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に栽培に成功したことがきっかけです。
それまでは、白菜は栽培されていません。

こうしてキムチは、日本から渡来した箸文化と、唐辛子、これに日本の統治時代の「路上糞便の禁止令」に、大正時代の白菜の普及が加わって、いまのカタチとなりました。

つまりキムチは、朝鮮の伝統食などではぜんぜんなくて、ほぼ、大正時代にいまのキムチのカタチとなったものにすぎません。
要するに、キムチはあくまで「朝鮮名物」であって、「伝統食」ではないのです。

韓国の歴史教科書では、オクレていた日本に、あれも教えてやった、これも教えてやったなどと、様々な文化を日本に教えてあげたのだと記載しているのだそうです。
けれど、日本が韓国から教わったものって、何があるのでしょうか?

仏教ですか?
仏教は、韓国発祥ではありません。
陶磁器ですか?
陶磁器は、日本では縄文時代から長くつくられています。
キムチですか?
もともとは漬け物でしかありません。しかも発酵食品文化というのは、日本古来の食文化です。
文字ですか?
ハングルを朝鮮族の公式な文字として採用したのは日本です。
他に何がありますか?
『ねずさんのひとりごと』  「唐辛子とキムチのお話」    日本人は誰しもカレーライスが大好きですが、それを日本の「伝統食」だなどとは思ってる人は誰もいません。  日本人は、カレーはインド生まれだと誰もが知っているし、本家インドカレーも美味しいと楽しむし、味をさらに日本化することで、さらに美味しくして、ただみんなで喜んで食べているだけです。  昔、日本のカレーライスを食べて、「あまりの美味しさにインド人もびっくり!」などというCMもありましたが、あくまでそれは工夫の問題であって、カレーを日本生まれだなどと言う人は、おそらく子供でも、いません。    これと比較するのもおかしな話ですが、実はキムチは、朝鮮族にとって外来文化です。  そもそもキムチは朝鮮半島の伝統食ではありませんし、使われている唐辛子も白菜も、朝鮮原産ではありません。  キムチが現在のような辛味の強い真っ赤な食品として朝鮮半島に定着したのは、実は日韓併合後のことです。    キムチの主役の唐辛子は、そもそも南米のチリ産です。  だから唐辛子ソースのことをチリソースといいます。    もともと唐辛子は、南米のチリで、現地の人たちが、すりつぶして下剤として使っていました。  それをコロンブスが薬品としてスペインに持ち帰り、そのスペイン人によって、ほとんど日をおかずに日本にもたらされたのが、戦国時代の終わり頃のことです。    ですから当初は日本でも、唐辛子は、漢方薬と呼ばれていました。  ちなみに江戸時代初期まで、外来の薬品や薬草は、それが支那からのものであれ、スペインやオランダからのものであれ、すべて「漢方」です。  オランダのものだけが、蘭方とされるようになったのは、江戸中期以降のことです。    そもそも漢方薬の「漢」という国は、3世紀初頭には滅びてなくなっています。  それを日本人が丁寧に「漢」と呼び続けたのは、日本人がただ律儀なだけのことです。    唐辛子は、薬品として、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島に伝わりました。  これをキムチの発祥としている本などもありますが、違います。  この頃の唐辛子は、あくまで下剤や寒さ対策の塗り薬でしかありません。食用ではないのです。  秀吉の朝鮮出兵から、80年ほどあと、日本でいったら江戸中期にあたる1670年に書かれた朝鮮の料理本の「飲食知味方」に、漬け物としてのキムチは出て来るのですが、ここに唐辛子を用いたものは、ひとつも書かれていません。  そこにあるのは、ただの漬け物です。    朝鮮半島で唐辛子を用いた料理が登場するのは、江戸時代後期にあたる文化6(1809)年の「閨閤叢書」で、ここには漬け物に、千切りにした唐辛子を少量入れることが書かれています。  日本でも、浅漬けに少量の唐辛子を千切りにして入れますが、要するにそれとおなじものです。    キムチがいまのような辛味主体のものに近いものとして書かれているのが、「林園十六志」で、これは文政10(1827)年の書です。  ではなぜ、文政年間に、あの辛いキムチが広がったのか。  これに実におもしろい歴史があります。    江戸の町の両国に薬研掘(やげんぼり)というところがあります。  ここの町名がどうして薬研掘というかというと、これが読んで字の如くで、お堀の形状が、漢方医が使う「薬研(やげん)」に似ていたからなのだそうです。    この地名からなのか、その薬研掘界隈には、不思議なことに薬屋さんや薬品問屋さんが集まりました。  また薬屋さんが近いからと、漢方医たちもここにたくさん開業しました。  いまでも調剤薬局などは病院の近くにありますが、それと同じです。    寛永2(1625)年といいますから、徳川家光が三代将軍に、まだなったばかりくらいの頃、この江戸の両国薬研掘に、中島とくえもんという人が薬種商の「やげん堀」を開業しました。    この頃の江戸で流行っていたのが、お蕎麦屋(そばや)さんです。  なにせ簡単にツルツルっと食べれてお腹がふくれるから、気の短い江戸っ子には大流行でした。  そこで、とくえもんさん、この蕎麦の薬味(やくみ)に、唐辛子が使えないものかと考えたのです。    ところが唐辛子をすり潰しただけでは、ただ辛いばかりであじけない。  そこで唐辛子に、麻の実、青しそ、山椒、黒ゴマ、白ゴマ、みかんの皮を入れて、一緒にすり潰したものを、開業の翌年「七味唐辛子、やげん堀」として売り出したのです。    なんと、これが大ヒット!  なにせ風邪の妙薬で元気が出て、しかも蕎麦汁(つゆ)に入れると美味しい。  またたくまに、とくえもんさんのお店は大繁盛するし、徳川家光の菊の宴に献上したら、これが家光にいたく気に入られて、なんと徳川家の「」の一字まで賜って、おかげで名前もあらため、中島右衛門。  このお店は、代々続いていて、いまでも七味唐辛子本舗となっています。    江戸で流行ったものは、全国に波及します。  蕎麦やうどんに、唐辛子をちょっと入れておいしくいただくという習慣は、こうしてはじまりました。  ただし、その唐辛子は一味ではなく、七味です。  唐辛子は、日本で、七味になることで、一般の食用に供されるようになったということを、ひとつ押さえてください。    そして江戸中期、第11代将軍家斉の時代、その襲封祝賀(将軍就任の祝賀)のために、第12回朝鮮通信使が、日本にやってこようとしました。  あくまでも、「やってこようとしました」。文化8(1811)年のことです。    この朝鮮通信使というのは、隣国からの慶賀の使者という意味においては、ありがたい存在だけれど、なにせ相手は儒教の国です。自国を立派に見せるためにと、いちどきに600人からの一個大隊でやってきます。  それが朝鮮半島から対馬を経由して、福岡に上陸し、そこから半年がかりで陸路はるばる江戸までやってくるわけです。  対馬から先の旅費は、祝賀を受ける側、つまり日本側の負担です。一回の通信使で、100万両(約6億円)の接待費がかかります。    当時の幕府の経済力からしたら、金額自体はたいしたことはありません。  勅使下向の接待は毎年のことですが、同程度の経費がかかります。    問題は、朝鮮通信使が、そこが日本であることをまったくわきまえず、沿道の民家を襲って農作物や鶏を泥棒するし、大声で騒ぐ。  さらに指定された旅館では、そこいらにある器物が軒並み泥棒される。  宿泊させれば翌朝には、朝の大きな御用を、日本人ならちゃんと厠でするのに、彼らは彼らの国の風習で、一斉に街道の路上でこれをする。  600人が路上でするのです。後始末がどんなに大変か。    要するに、野生の猿のような野蛮人たちが、延々江戸までやってくるわけで、これは民衆にしたら、たいへんな迷惑なのだけれど、いちおうカタチは国賓です。粗略には扱えない。    そんなわけで、毎度迷惑千万な使いだったわけで、ついに徳川家斉は、この朝鮮通信使について「易地聘礼」といって、江戸までやってこさせるのではなく、対馬藩で挨拶を受けるだけの簡便な方法に切り替える(ようするにカンベン(勘弁)してほしいということ)よう求めました。    こうしてやっとのことで第12回朝鮮通信使は、対馬藩足止めとなったわけです。  この足止め成功によって、対馬藩はなんと2万石が加増されています。  どんなにホッとしたか、ということです。    この第12回朝鮮通信使の際に、お土産(みやげ)となったのが、当時、日本国内で大流行していた七味唐辛子でした。  食事の際に、ちょっとおつゆに七味を入れるだけで、食事がめちゃくちゃおいしくなる。  「これは何か」と聞かれて、帰りのお土産に持たせたのが、七味唐辛子と、唐辛子の実です。  おかげで、その後の李氏朝鮮王朝の貴族の高級食品として、唐辛子が大流行する。    けれど、この段階では、朝鮮では、あくまで唐辛子は貴族の宮廷料理としてだけのものです。  なにせ庶民は食事の際に箸(はし)もスプーンも使わない。    実は朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降のことです。  それまでは、朝鮮半島における庶民の食事は、インド式(手づかみ)です。    このように書くと、「そんなはずはない。日本文化は食事の作法まで、支那から朝鮮半島を経由したものだし、箸も朝鮮が日本に教えてやったものだ」という反論がどこかから聞こえてきそうですが、それが事実がどうかは、下の写真を見たら、一目瞭然です。    この写真は、日韓併合の少し前の平壌辺りの庶民の食事の写真ですが、お椀はあるけれど、どうみても箸もスプーンもありません。    日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令に、「路上脱糞禁止令」があります。  それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえの習慣だったのですが、これではあまりに衛生面でよろしくない。    そこで朝鮮総督府が路上脱糞を禁止したわけですが、ところが人間、食べれば必ずもよおすわけで、ところが路上では禁止されてしまっている。  そこで朝鮮ではじまったのが、室内で穴を掘り、そこで脱糞するという習慣でした。    穴が満タンになると、そこに土をかけ、室内の別な場所に別な穴を掘って、そこでする。  これを何年か繰り返しますと、室内の縁の下が全部有機物になり、地面が自然発熱してたいへんに温かくなる。  その生暖かいところに野菜を入れた甕(かめ)を、頭だけ出して埋め、その中で漬け物をする。  すると、おいしい漬け物ができる。    ところが雨が降ると、雨水があふれる。  甕の中に、その・・・有機物の汚水がはいる。  こうなると、せっかくの漬け物に、妙な臭いがついてしまいます。  そこでこれを食べるために、唐辛子をどっさりと入れて臭みを消した食品が、いまのキムチになったわけです。  おかげでキムチは、各家庭ごとに味が違うのだとか。    もうひとつ、キムチに使われる白菜です。  これも、白菜が一般に栽培されるようになったのは、名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に栽培に成功したことがきっかけです。  それまでは、白菜は栽培されていません。    こうしてキムチは、日本から渡来した箸文化と、唐辛子、これに日本の統治時代の「路上糞便の禁止令」に、大正時代の白菜の普及が加わって、いまのカタチとなりました。    つまりキムチは、朝鮮の伝統食などではぜんぜんなくて、ほぼ、大正時代にいまのキムチのカタチとなったものにすぎません。  要するに、キムチはあくまで「朝鮮名物」であって、「伝統食」ではないのです。    韓国の歴史教科書では、オクレていた日本に、あれも教えてやった、これも教えてやったなどと、様々な文化を日本に教えてあげたのだと記載しているのだそうです。  けれど、日本が韓国から教わったものって、何があるのでしょうか?    仏教ですか?  仏教は、韓国発祥ではありません。  陶磁器ですか?  陶磁器は、日本では縄文時代から長くつくられています。  キムチですか?  もともとは漬け物でしかありません。しかも発酵食品文化というのは、日本古来の食文化です。  文字ですか?  ハングルを朝鮮族の公式な文字として採用したのは日本です。  他に何がありますか?

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