八ヶ岳山麓の暮らし

標高およそ1,200mの八ヶ岳山麓で、見たり聞いたり経験したことを気ままに書いています。

初笑い・シニア川柳

2016-12-30 07:23:26 | 日記
 私は長野県シニア大学諏訪学部33期生。在校時から続いている年1回・泊りがけのバス旅行では、誰といわず決まって披露されてきたシニア川柳。バス車内は、その都度笑いの渦に包まれる。また投宿後の宴会の最後は、決まって互いに肩と腕を組み「信濃の国」を大合唱してお開きになる。ここで紹介するのは、卒業後の同期生で組織された“諏訪の歴史や文化を知る会”12月例会の後の忘年会で配られたシニア川柳である。その出典も作者も不明だが、そのうち12首を掲載させてもらった。齢を重ねても、共に学び、笑い合える仲間がいるのは嬉しい。

〇見つめ合い 時も過ぎれば にらみ合い

〇「先寝るぞ」 「安らかにね」 と返す妻

〇孫たちに アドレス聞かれ 番地いう

〇胸よりも 前に出るなと 腹にいう

〇厚化粧 笑う亭主は 薄毛症

〇何回も 話したはずが 「初耳だ」

〇輝くと 誓った亭主は 頭だけ

〇いい夫婦 今じゃどうでも いい夫婦

〇孫が来て 急によくなる 夫婦仲

〇妻の字が 毒に見えたら 倦怠期

〇虫歯なし 当たり前だろ 総入れ歯

〇起きたけど 寝るまでとくに 用もなし
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三の丸尚蔵館の宝物

2016-12-23 06:48:23 | 日記
 そこは昭和天皇まで歴代天皇家の私有品として受け継がれて来た「御物(ぎょぶつ)」の中から、六千点余りの美術工芸品が国に納められ、それらを保存・研究・公開する宮内庁所管の博物館として1993年(平成5年)11月に開館した。

 当時、勤務場所から近かったこともあり、時々、昼休みに早足で散策する東御苑内にあることは知っていた。バレスホテル前の道路を横切り、和田倉門を通り抜けて出た道路の右200メートルほど先に大手門があり、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐ近くの右手にある。初めてそこに行ったのは、1996年(平成8年)の3月、新聞で知った展示内容【海を渡ってきた贈り物 金銀の輝き】に興味を覚えてのことだった。

 入館した途端に、展示物の金銀・宝石をちりばめた刀剣、置物、各種の器・飾り皿などに目を奪われた。これらは主に戦後の昭和天皇がヨーロッパやアラブ諸国の王家を訪問した際に親愛の気持ちを込めて贈られた贈り物で、その国に産出する素材を用い、夫々の国の職人や工房による伝統的な製法やデザインで作られた作品で、まさに異国情緒豊かな宝物であった。

 三の丸尚蔵館に収納された美術工芸品や宝物は、その後に秩父宮家、高松宮家、三笠宮家の所蔵品も寄贈され、2014年時点で9,800点が収蔵されているとのこと。インターネットのウィキペディア(Wikipedia)や三の丸尚蔵館のホームページから過去の展覧会図録を検索すれば主な収蔵品を知ることができるが、興味に駆られた私は、アマゾンで「皇室の名宝 8~10 三の丸尚蔵館」を入手して調べてみた。

 そこで知ったのは主な収蔵品だけだが、それらは歴代の天皇家に伝わってきた御物や明治になって大名家から献上された品など、どれをとっても由緒正しい正真正銘の本物。ひとつの博物館で、これだけ国宝級の書画、美術工芸品を収蔵していて、日本文化の粋を気軽に見られる所は他に知らない。

 2016年11月下旬、公開されていた東御苑内の富士見多聞見物ついでに、久しぶりに三の丸尚蔵館に立ち寄ってみた。74回展として「書の美、文字の巧」展が開催されていたが、係の人に過去の展覧会の図鑑販売や前述宝物展の再企画の有無を聞いてみた。どちらもないということなので、あの宝物との再会や自身の高揚に繋がる優れものの収蔵品については、ホームページをチェックするなどして今後の展覧会を待つことにしよう。かつて馴染んだ丸の内界隈の散策を含め、東京に出かける際の新たな楽しみができたというものだ。
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八ヶ岳ブルー

2016-12-16 07:19:24 | 日記
 八ヶ岳山麓に移り住んでこの秋(2016年)で満19年になった。当地では雲ひとつない美しい青空を多く見ることができるが、その空が色合いによって「八ヶ岳ブルー」と名付けられていることを新聞で知った。その長野日報では、写真に添えて次のように紹介されていた。但し添付写真は、庭から見た八ヶ岳ブルーの空と冠雪したカラマツ。

 【12月2日の諏訪地方は広く高気圧に覆われ、八ヶ岳連峰では「八ヶ岳ブルー」と呼ばれる紺碧の空が見られた。八ヶ岳と青空が織り成す壮大な景観を誘客につなげようと、観光関係者もホームページなどで紹介している。八ヶ岳ブルーは、八ヶ岳南麓の観光関係者が数年前から使い始めた言葉で、秋から春にかけて見られる、澄み切った濃い青空のことを指す。撮影した茅野市穴山では午後の日差しを浴びて八ヶ岳が浮き立ち、鮮明な「青」に空が染まっていた。】

 各地で普通に見られる空の色“天色(あめいろ)”ではなく、紺青、瑠璃色、コバルトブルーの夫々にも似た濃い青色の「八ヶ岳ブルー」。口にする響きも心地良く、山の地形と上空の気象が一致した時に見られる、ここ八ヶ岳ならではの景観だと思う。


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和宮様御下向一件帳から 

2016-12-09 07:01:20 | 日記
 明治となる7年前の文久元年(1861)、公武合体を目的として、孝明天皇の妹・和宮親子内親王(当時16歳)が第14代将軍徳川家茂に御降嫁することになった。橋本宰相はじめ中山大納言・菊亭中納言・千種少将・岩倉少将(具視)など京都からのお供1万人と、通し人足4千人の一行が京都を出発したのは10月20日であった。中仙道(現在の国道20号線、19号線、142号線)を通り、11月4日に本山宿(塩尻市)に泊まりそこからは松本藩の護衛で洗場(塩尻市)で休憩、塩尻で昼食、諏訪高嶋藩領内の今井村今井氏宅(岡谷市)で休憩して下諏訪宿に宿泊した。翌日は棚橋で休憩、和田峠で昼食、和田宿に泊まるなどして領内を通行し、その後11月15日に江戸に到着した。

1.街道筋・町村の準備
 当地方に残された古文書・和宮様御下向一件帳の記述は、江戸藩邸からの連絡後の文久元年3月24日から始まっている。4月1日には道中奉行から中山道領内の宿々にお触れ書が届き、4月9日から10日にかけて幕府目付・松平備後守と京都から来た御徒目付(おかちめつけ)2人と、御小人目付(おこびとめつけ)4人に諏訪高嶋藩の役人が付き添い街道筋の下見に回った。それにより街道筋の友之町、東掘村、今井村、下諏訪町、下原村、久保村、小井川村、西山田村における工事箇所が指摘された。以下はその内容。

〇友之町・・・石橋と小橋は共にこしらえる。家から石橋近くまで道幅狭く欠けている部分は繕う。戸川大橋は惣体取替えし新規に手摺を取り付ける。但しあまった古材は調べた上で横川橋に回しそのほか利用できる部材は所々の小橋や捨て土台に利用する。
〇東掘村・・・十四瀬橋の駒寄せ並びに手摺は新規作り替える。同橋までの道幅が狭いので拡張する。所々の小橋は取替えるか繕う。
〇今井村・・・横川大橋は惣体取替えし新規に手摺取り付ける。但し尾木は戸川橋の古尾木を利用したり小橋の水懸かりに利用、すのこは小橋や捨て土台に利用する。所々の小橋取替え。道の頭上にある大石は落石防止の張木を土中に建入する。往還の所々に水を道脇に流す木を埋設する。所々のかがり火と高く提灯を吊る場所はこれまで通りこしらえる。
〇下諏訪町・・・高札場脇並びに湯田坂は土留めして木を手入れする。入口橋は修繕、所々の小橋取替え並びに湯尻、雨掘は水を抜いて繕善する。本陣前並びに徳行水までの道家前は造る他に手入れをする。
〇下原村・・・御田川橋、寺沢橋は手摺を新しくする。所々の小橋37ヶ所取替え。山の神横の大石は張木を建入。桂立道受け部分は行枠、柵、石積みなどで修繕する。たたき水道受け2ヶ所は道幅狭く笊木を立て難いので道上の田の方に拡げる。落合橋は惣体取替え、新規に手摺付けする。入町屋敷道と小焼野口の道欠部分は柵で繕う。入落合橋は惣体取替え新規に手摺付けする。但し地覆木2丁は橋古材を利用する。こうろ岩下道の石留め40間の柵に方枠35間ほどを入れて補強し、道欠け部分は銅張り木で手入れする。峠峯道にある大岩は割取りできないので、道を作り変える。かがり火と高提灯を置く場所は以前の通り。険しい箇所にある岩はできる限り谷に落とす。道欠部分を柵で繕う場合は、場所により4、5段或いは6、7段の柵を後付けする。以下他町村は省略。

実際の人足供出は、領内全町村に触れ書で割り当てされた。また道の修復と拡張の際は、道幅は二間二尺以上、路面は一尺掘り下げ路床をつめて土を置き、砂利を置き、敷き砂をし、所々盛り砂をおく。そのほか2里ごとに休憩場所を設置する。通行が夜にかかる場合に備え、街道筋に必要数の松明台を設ける。旅館だけで大人数をまかなえないので、寺や神社、街道筋の民家の間口・間取り・畳数なども調べ、宿泊や供出できる布団数を報告させている。

2.領民生活への影響
(1)御下向前後、諏訪藩・村町住民への指示内容を、家数40軒、人口182人(うち15歳以下と60歳以上を除いた人足への該当男子は48人)だった小村・福沢村(茅野市)を例に記す。
。10月8日と9日、それぞれ10人の人足を下諏訪町本陣修理に出した。
。14日には下諏訪宿修復のため15人がツルハシとジョレンを持って出かけた。
。村の31軒から上中下に分類した31組のふとんを集め、ゴザで荷造りし木札を付け神宮寺まで届けた。
。お通り2日前の11月3日、名主亀蔵は19人の人足を連れて四ツ時(22時)下諏訪宿に着いた。翌朝、江戸屋から出立する葉室様の箪笥運びに10人、木曽屋から出立の今成殿の駕籠に9人がかりで和田宿に向かった。
。この頃村では火の用心の不寝番として昼は2人、夜は6で村を巡回したが、人手が足りなくてお寺からも修行僧を出してもらった。
。和宮様御通行当日の11月5日の前後1週間から10日ほど、行列人足に5人、若党や草履取り、槍持ちに使われた者が6人、久保寺裏の荷置き場の番人が3人、樋橋での家前掃除や砂盛り人足に4人、中山様の荷馬2頭の人足に4人が徴用された。
。翌6日には道作り人足4人、継ぎ立て人足に20人、宿駕籠に2人、神宮寺から夜具持ち帰りに人足4人と馬3頭が村から出かけた。

(2)当時の領民が藩からどんな指示を受けていたか、御下向の街道筋ではないが瀬沢村(富士見町)に残っていたこの年の廻状を以下に紹介する。
。よそ者を泊めてはいけない。風体怪しき者を徘徊させてはいけない。御下向の済むまでよそ者に白米を売ってはいけない。
。中馬は他出せず御用のため村に待機せよ。伝馬は心得違いなく不参・遅参、不調法をしてはいけない。立不足や捨荷をした者は、本人十貫文、関係者には一貫文ずつ科料の上、咎申し付ける。不調法があれば、その村の責任でその為の入用は自分賄いとする。
。人馬を肯渡ししてはならぬ。伝馬の者は、弁当3日分に焼米こがしも用意せよ。沓わらじも手厚く用意せよ。
。村役人は提灯を持参せよ。甲州から人馬も来るから喧嘩などをしてはならぬ。御通り3日前から村々に火の番を置き、60歳以上のお伝馬に出ない者を幾組にもして絶えず村内を巡回させよ。当日御用のなかった人馬も不意に触れ宛てるかもしれぬので他出せずに待機せよ。
。猟銃威銃は今からお通り過ぎ5日まで打ってはならぬ。
。糞火は5日前から3日過ぎまで焚いてはならぬ。
。お通りの節は人払いにつき拝見してはならぬ。お通筋の村町では、男は子供まで出払い切りであるから目につかない家裏の空き地などへ行き、女子は土間に降りて手をついておれ。
。よそ村から女子供たりとも拝見に呼ぶようなことがあってはならぬ。村町の男は勿論、女子どもお通り2日前からお道筋または見通しできる田畑山林に出てはいけない。お通り3日前から後2日は漁船も出してはならぬ。
。来月5日お泊りであるが、御うわさは一切してはならぬ。御うわさをした者は召し取って処分する。夜具御用につき命令通り出すべきこと。人足は髪月代(かみさかやき)をし、見苦しくないようにして出よ。

 中山道は享保(1716)の頃から、京都公家方と江戸幕府要人との婚儀に利用されていた。例えば十三代将軍徳川家定は鷹司宮家の有姫を正室に迎えたが死亡したため、一条家の寿明宮(すめのみや)を二度目の正室に迎えたが半年後に死亡。三度目の正室として安政3年(1856)島津斉彬の養女篤姫を迎えた時もこの中山道を通行している。和宮様は天皇家から将軍家への降嫁だったので、行列規模も大きく諸藩の対応は大変だった。何しろ長持ちの行列は、7日間も峠路に続いたという。お供の人たちもまた中仙道を帰って行ったので、いつまでも混雑が続き農民達は人足徴用で十分な農作業が行えなかった。そのため農民を始めとする領民の生活は混乱し困窮したと伝えられている。
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