【甘露雨響宴】 The idle ultimate weapon

かんろあめひびきわたるうたげ 長編涅槃活劇[100禁]

老子/第二十七章 巧用

2010-01-03 | 老子




言うだけ見せるだけの人

善行無轍迹。善言無瑕謫。善數不籌索。
善閉無關鍵而不可開。善結無繩約而不可解。
是以聖人。常善救人。故無棄人。
常善救物。故無棄物。是謂襲明。
故善人者。不善人之師。不善人者。善人之資。
不貴其師。不愛其資。雖智大迷。
是謂要妙。


善く行くものは轍迹無く
善く言うものは瑕謫無く
善く数うるものは籌索せず。
善く閉ざすものは関鍵無くして而も開くべからず。
善く結ぶ ものは縄約無くして而も解くべからず。
是を以て聖人は、
常に善く人を救う、故に人を棄つる無し。
常に善く物を救う、故に物を棄つる無し。
是れを明に襲と謂う。
故に善人は不善人の師、不善人は善人の資
其の師を貴ばず、其の師を愛せざれば
智と雖も大いに迷わん。
是れを要妙と謂う。

無為にして善く行く者は轍の迹を残さず
無為にして善く言う者は言葉に瑕謫(きず)がなく
無為にして善く数える者は算木など用いない。
最善の戸締りは かんぬきやかぎをかけなくても
開けられず最善の荷造は縄をしなくても解けない。
だからこそ無為の聖人は、
常に善く人間を活かしてゆき、
したがって、どんな人間をも見捨てない。
常に善く財物を活かして用い、
したがって、どんな財物をも見棄てない。
これを明らかな智恵を身につけていると謂うのだ。
かくて善人は不善人の学ぶべき師となり、
不善人は善人の反省の資(たす)けとなる。
己れの師を貴ばず、
己れの資けを大切にしなければ、
知者であっても全く途方にくれる。
これを玄妙な真理というのだ。


朝日選書:老子(福永光司)より引用

―引用―

『陰徳積善』とはいうものの、
そこに作為があったら徳も善もあったものではない。
陰に隠れて善い行いをすれば極楽にいけるからとか
自分の運をよくするためとか、それって
ちょっとビミョーに何かが違うんでないかい?
善行は人に見せるためのものではないから
他人から評価されようがされまいが関係ないし
ぼき、あたい、善行やってますアピールしてる時点で
善行というよりパフォーマンス、見世物になっている。
集団で、ヨイコトヲヤリマセウ、ソウシマセウとタスキ
かけちゃっておそろいテーシャツなんかつくっちゃって
ゼンコー集団パフォーマンス花盛り。
男女ともにサカリまくる。
だからゼンコー集団が活躍するには
かはいそうな人がいなけりゃならない
めぐまれない人がいなけりゃならない
なやめる人がいなけりゃならない
道路に吸殻が落ちてなきゃならない
便所が汚くなくりゃいけない。
そんなにゼンコーやりたけりゃ
駅の便所掃除毎日やっている
おじさんおばさんを手伝えよ。

自然なふるまいこそ善行。
ほんとうの善行は痕跡など残さない。
自然にふるまう人は
やっているやってあげてるなんて思ってもいない。
自然にふるまう人のコトバは嘘や飾りがなく純粋。
道(タオ)に叶った無為自然の生き方をしている人は
作為、計算で他人を利用しない。
人材は人財だと表記する人もいるが、
ほんとうは会社に儲けをもたらす材料、素材としてだけ
人を見ているのだけど、ただ上辺だけ財と変えただけで
材料の材よりまぁいいいだろというごまかしに過ぎない。
土方を労務者と表現したとて土方はドカタ変わりはない。
会社の人財とやらも労務者も役にたたなくなりゃ
棄てられるだけ。これはモノ利用しているのと同じこと。
だから
道(タオ)の人は他人を利用するのではなく活用する。
善いところを活かす。
お金も使ってこそ価値があるのだから貯め込まない。
どんどん使う、無駄遣いではなく活きた使い方する。
いわゆる善人とか不善人とか差別しない見棄てない。
善人には善人なりに不善人には不善人なりの対応をする。
善いところは倣い、悪いとことは反面教師にする。

これが憂世で生きるコツ。

―引用終わり―


  





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