「笠島はいづこ五月のぬかり道」
笠島にあるという藤原実方の墓を訪ねて五月雨の中を歩いた際の句。
実方は藤原行政との口論がもとで奥州に左遷された歌人。
墓には後に西行によって「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすきかたみにぞみる」と詠まれたかたみの薄がある。
芭蕉としてはそこをぜひとも訪れたかったのだろう。
ところで笠島は宮城県名取市愛島笠島というところに位置する。
奥の細道のはじめの方で、芭蕉は心の師である西行の足跡をひたすら追っている。
芭蕉庵を出発する前から予定の行程であった。
芭蕉の業績は優れたものだが、先人の後を追う姿にはほほえましさを感じる。
だからこそ旅を進める中で門人と歌仙を巻くうちに〈発句〉のみが生き残っていった過程に俳句誕生の妙を見るのである。
西行の和歌と芭蕉の俳句は質が違う。
わび・さび・しおり・軽み・・など芭蕉が重んじた表現力は他に類を見ない。
やはり芭蕉は先人の後を追いながら、いつしか乗り越えていったようだ。
現代においても俳聖と呼ばれる称号は不動のものであろう。
参考=他の解説
鐙摺、白石の城を過、笠島の郡(こおり)に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遙右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社、かた見の薄、今にあり」と教ゆ。此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと。
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